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『ボクはいつもの樹の上からカレがやってくるのをみていた。よく動く手と、ボクと同じ目をした男が』-『待ちくたびれて』
原文には、独特の音の響きがあるのだろう。その響きを感じ取れれば、また少し異なる印象を持つのかも知れない。こういう本は翻訳の難しさを特に感じる。
内容としては自伝風の短いスケッチが時と場所をくるくると変えながら並べられているというもの。少しずつその全体像が見えてくると、単語に秘められた意味が、特にカタカナで表記された人称代名詞のニュアンスが見えてくる。しかし、「So what?=だから?」頭の中でそういう言葉が何度となく浮かぶ。
親に付属している、付属していなければならない世代の子供の視点。そんなものを色濃く感じるのだけれど、そこに描かれる物語と同時性の感情は、きれいさっぱりと拭い取られてしまっている。そのことも手伝って、これらの物語が、ずっと時を下った時点からの物語であるという印象を読むものに濃く伝える。しかし、その下った時点での物語に塗り込められたであろう筈の感情が全面に出てくる仕掛けがあるのか、といえば実のところそういうわけでもない。
そこが良いのか? それに対して「だから?」と問い質してはいけないのか? なんとなく肩すかしをくらったような印象が残るのを、ごまかすような言葉が自分の中からは出てきそうにない。
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10 の短編からなる作品集。
冒頭にあるグスターヴォ・ペレス・フィルマトの言葉。
『あなたにこうして
英語で書いていること自体
本当に伝えたかったことを
すでに裏切ってる
わたしの伝えたかったこと
それは
わたしが英語の世界に属さないこと
それどころか、どこにも属していないこと』
それを日本語で読む隔靴掻痒の感はあるが、
「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」
「こうしてお前は彼女にフラれる」同様、
作者の人生が色濃く反映された物語は独創性があり、
強く深くひきつけられる。
うまい作家だ。
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図書館で。
オスカーワオは面白かったけれどもこの話は作者の自叙伝的な要素を含む・・・みたいに書かれていたのでそう思って読むと素直に面白いだけではないよなぁと思いながら読みました。そして仕事が無いというのは辛いことだなぁ。周囲の環境によって左右され仕事も将来も決まってしまうという事は悲しいことだなとも思いました。
なんだかカタカナの羅列がちょっと気になりました。原文にスペイン語とか入っているからでしょうかね?カレとか書かれるとカレと言う人が居るのか代名詞の彼という意味なのかどちらなのだろうとかこんがらがりましたよ。
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古本棚で目について買ってみてから「あっ、オスカー・ワオの人か」と気づく体たらく。ドミニカの暑苦しさとかニューヨークのスラムの閉塞感みたいなのは伝わってくるんだけど、三人称の「カレ」が読みづらい。固有名詞や「彼」では伝わらないニュアンスが原作にあるのかどうかわからんねんけども。
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翻訳がひどすぎる。日本語文だと省略されてしまう主語の感じを出したかったのか、幼児の父や母にもカレ、カノジョという言葉を使っていて、日本語においてカレカノジョと片仮名で書けば別の意味も出てくるのであり、読みにくいったらない。某読書サイトでも翻訳が酷評されており、そのうち著者がノーベル賞でも取る前に、訳し直した方がいいのではないか。
ところでこの翻訳者の経歴が全然見つからないのはなぜだろう?この本にも、新潮社のサイトにもないのは何か意味があるのか。