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坂東眞砂子といえば、出身地の四国を始めとした土着的なイメージ、そして濃いホラー色を発散する作品群のタイトルたちが先に頭に浮かぶ人も多いと思うが、この作品はそれらとはまるで趣を異にする。
中世ヨーロッパという、現代よりもはるかに超自然的価値観が強く世俗に作用し、思想的多様性や精神活動の表現が制限され、階級や身分が社会のありようの多くを定めていた、つまり、いろいろな面においてより束縛の強かった時空を舞台としながら、それらの、あるコミュニティに当時属していた人たちにとっては絶対的摂理にも等しかったであろう強固な世界観が揺らぎ、そしてさながら音を立てて崩れゆく様を実に壮大に、悠遠に描いている。
万物を呑み込まんとする大きな流れ、スケール。
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中国人と日本人の混血がマルコ・ポーロの奴隷になってヴェネチアに行く。歴史物としては地味だけど、元とヨーロッパの恋物語かなとか・・全然違いました。映画、小説でスポットを当てられにくい奴隷、教会異端問題。むしろ日本人だから書けた内容でしょう。描写の緻密さ、主人公の考え方、それを取り巻く周囲の人間像。宗教、死生観についても明快で納得させられます。作者はイタリアで学び、これは代表作になるでしょうね。ただ、内容が堅いだけに長いなとは感じました。
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歴史ものって苦手意識強かったけど、楽しく読めたし読み終わりたくないくらいだった。
世界というものが未知に満ちていた時代の旅、冒険探検の類いに強烈に惹かれる。
今という時代に生きてるわたしが持ち得る価値観や尺度とは大きく異なったものが当たり前だった時代の、世界の認識の仕方。
それだけで充分、意識上の冒険。
これ以降、坂東真砂子ブーム来る。個人的に。
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読破達成感あり。500ページ越え、しかも2段組。それでも読ませる力があったということです。
全体でローマ教と異端の静かな攻防がありつつ、前半は貿易商家の奴隷として、後半キリスト教異端たちと共にする閉塞的な生活が描かれています。
世界的に見たら、信じる神がいない日本人の方が信じられないらしいですが、この話読んでもやっぱり八百万の神で良いじゃんと思ってしまいました。一神教ってなんなんだろう。八百万より盲目的になりやすい?
信仰が人に与える影響の強さに驚愕です。
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「揺らめく心に惑わされてはいけない。きみの道を照らしてくれる知の光を消さないように歩いていけ」(中略) 別れとは、他人の心から、自分の根を引っこ抜いてしまうことだ。根を引き抜くのだから、痛みもついてくる。それが重なると、他人に会っても、相手の心に根を下さないように用心するようになる。シムズの明快な考え方は、他人の心に根を下さないための方便でもあるのだ。(p.385)
司教の言葉だけでは、天の国があるという証にはならないのだ。それは各人が自分で確かめるしか術はない。だが人は自分の信じたいことが目の前に出されると、疑うことを忘れる。(p.395)
彼らは頭をぶつけて死ぬ以外にない絶壁に向かって突き進んでいく人々だ。愚かだと思う。それでも私が<山の彼方>に居座り続けるのは、絶壁の彼方に駆け上がることを求めて、無邪気に全速力で走りつづける姿に惹かれるからかもしれない。自分についた泥を必死でこぎ落としながら、無理としか思えないものに対して突き進んでいく。それがどのような結末を迎えるにしろ、天の国を目指して無心に走りつづける姿には強さがあった。
彼らは神に頼らなくてはならないほどに弱く、神を信じ続けるほどに強いのだ。(p.425)
あの頃、私は不安を覚えなかった。奴隷として見知らぬところに連れていかれているというのに、安心していた。それはポーロ兄弟という旦那がいたからだ。奴隷である不自由さは、実は自分で自分の行き先を決めないでいいという気楽さでもあった。旅をしていたが、それは連れていかれる旅だった。自分で選んだものではなかった。しかし私は今、自分で自分の行き先を決めなくてはならない。道はいくつにも分かれているようでもあり、ただ一本しかないようでもある。決めるということ、選ぶということはなんと難しいことだろう。しかし、決めること、選ぶことをしない限り、人は前に進んでいけない。旅をしても、それは他人の旅になってしまう。ヴェネチアに着くまでの私の旅が、ポーロ兄弟の旅の影に過ぎなかったように。(p.525)