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アラスカに生活をして、たくさんの動物写真を撮り続けた、星野道夫さんの写真集。
それが、そのときのエピソードつきで紹介されている。
私たちが生きている同じ時間に確かに存在しているが、決して感じることがない遠くにある自然。それを実際に感じることができる一冊。
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読むきっかけはオダジョーがNHKで星野さんの旅を追いかけたドキュメンタリーのナレーションがきっかけ。
動機は不順だったけど、読んでみたら写真の美しさと星野さんの文章が素敵だった。
自分はなんて小さな人間なんだと思ったり、悩んでいたことがたいしたことないなと思わせたり、とても勇気づけられた。
自然の力に感服。
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‐人はなぜ自然に目をむけるのだろう。
アラスカの原野を歩く、一頭のグリズリーから、マイナス50度の寒気の中でさえずる一羽のシジュウカラから、
どうして僕達は目を離せないのだろうか。それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、
無意識のうちに、彼らの生命を通して自分の生命を見ているからなのかもしれない。
僕達が生きてゆくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が大切なのだろう。
オオカミが徘徊する世界がどこかに存在すると意識できること・・。
それは想像力という見えない豊かさをもたらし、僕達が誰なのか、今どこにいるのかを教え続けてくれるような気がするのだ。
少し寒くなってきた。アカリスの警戒音はまだ聞こえている。
雪を被ったトウヒの木々を見上げても、どこにいるのかもわからない。
これから、長い冬が始まる‐
‐風のような物語 エピローグより‐
多数のアラスカの自然や動物の写真&エッセイ。
気持ちがくたびれている時に読むと、冬のひだまりにいる時のような柔らかな暖かさに包まれます。
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どうしてこんなに、流れるように心に入ってくるんだろう、
星野さんの文章は。
まだまだいろんな写真を撮って、これ以上ない言葉を付けて、
世に送り出してほしかったな。
一生を通して開いていきたい、そんな本です。
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便利なことと不便なことと。受け入れていくことと守り続けることと。
新しいものと古いものと。生まれ生きていくことと死んでいくことと。
人間も自然の一部なのに難しいんだなって。
正解はわからなかったけど色々と考えてしまう本だった。
ハッとさせられる文章がちりばめられてた。
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”旅をする木”は圧倒的にやさしい語り口だったと感じたが、今回は謙虚さを感じたような気がする。写真家として生業を立てていながら、時に写真を撮らないことを判断するといった明記が幾度か現れる。それが彼なりのアラスカへのレスペクトの表し方だったのではないかと感じられる。効果的に挿入される写真が素晴らしい。特にすごく優しい顔をして映っている熊が美しい。この本もまた時々読み返したいなと思う。
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千葉の中央博物館で見た写真が目に焼き付いて、そのままミュージアム・ショップで買ってしまった。衝動買いだけど、買ってよかった。写真もステキだったけど、文章もよかった。
自然や風景や動物の話はもちろんなんだけど、それらがきちんと胸に届いてくるのは、彼の書く物語が「人間」を描いているからだ。こんなにすばらしい風景や動物の写真を撮る人の書いた文章が、根本のところに人間をおいているというは逆説的なような気がするかもしれないけど、そんなことはない。
彼自身が遺稿の中で書いている。「その土地の風景を自分のものにするために、そこで誰かと出会わなければならない」。この言葉が意味することを、正直言って僕は本当に実感することが出来ない。でも、おそらく真実なのであろうと心が直感している。
おそらく、人間の自然の一部で、中でも彼が描き出す人たちは自然そのもので、いや何よりも文章を書いている彼そのものが自然のとけ込んでいて、読んでいる僕はかろうじて彼らを通じることでのみ、自然の真実の姿にちらりと触れることがでいるのかもしれない。自然の姿、というのは、ただ壁に貼られた写真ではなく、いわば息づかいなのである。
アラスカに暮らす人たちの人生は、人類の歴史のしわ寄せを一身に背負っているようで、決して安易なものではない。それが豊かとか貧しいとか、幸せとか不幸せとか、そういう言葉で定義してはいけないものであると思う。だけど、アルコール中毒や自殺のことなどを読むと、人類というのは何か大事なものを忘れてしまおうとしているのではないかという思いがこみ上げてくる。
美しくて、しかも何かを語りかけてくるような写真が心から離れなくなって買った本だけど、語りかけてくる「何か」が、これほど大きなものであるとは読んでみるまで想像もしていなかった。よかった。
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アラスカに暮らす動物の話というよりは、そこに暮らす人々の話。エスキモー、インディアンの人たちの伝統的な暮らしだけでなく、時代が変わるにつれて彼ら自身が変わっていく姿も描かれています。
特に印象的だったのは、彼らがアラスカで共に生きる動物たちの命に敬意を払っていることが分かるエピソードの数々でした。
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20代後半に星野道夫さんの本に出会ってから、
多大なる影響を受けてきた。
意識しているわけでもなく、つい何度も手に取ってしまう。
星野氏の写真、文章は、
アラスカの自然や人々の前でどこまでも謙虚かつ自然で、
自然に対する畏怖と親しみが一体になっている。
その星野氏の在り方に衝撃を受け、
今でも憧れをもってその在り方に
近づきたいと思っているのかもしれない。
久しぶりに本棚から出したこの本は、
再読なのに新鮮な衝撃をもたらしてくれた。
アラスカの辺境の地の原住民の子供たちに絵を描かせると、
決まって大きな風景のごく片隅に人物を小さく描くという。
人間と自然の関係はそのような感覚でとらえられるのだろうが、
その感覚は、日本人にもあった(ある)もののように思う。
人間がどういう生き物なのかを
自然の一部として教えてもらえるような本。
「早春。小さな焚き火が揺れている。パチパチパチパチ、
僕の気持ちをほぐしてくれる。
熱いコーヒーをすすれば、もう何もいらない。
やっぱりおかしいね、人間の気持ちって。
どうしようもなく些細な日常に左右されていくけど、
新しい山靴や、春の気配で、こんなにも豊かになれるのだから。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。
きっとその浅さで、人は生きてゆける。」
「ある晩オーロラが現れ、全天を舞った。
人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見ている。
オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、
それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう。」
星野さんは1952年生まれで大学生だったときに、
神田の古本屋街の洋書専門店でアラスカの写真集を見つけ、
その本に載っていた小さなエスキモーの村に心を奪われた。
その村はシシュマレフ村。
訪ねてみたいが、訪ねようにも方法がわからない。
手紙を書くにも、住所もわからない。
しかし、辞書で「代表者」という単語を調べ「Mayor」という言葉を見つけ、
「Mayor
Shishmaref
Alasla U.S.A」
という宛先で手紙を出す。
内容は、「村を訪れたいが、誰も知りません。
なんでも働くのでどなたかの家に置いてください」というものだったらしい。
半年後、奇跡的に返事があり、彼はアラスカへ。
1971年の夏だったそうだ。
その後アラスカ大学へ進学し、以後アラスカの人々、自然、野生動物を撮り続け、
国内の雑誌だけでなく海外の著名な雑誌にも作品を発表。
多くの写真集やエッセイが残っている。
1996年にカムチャッカ半島でヒグマに襲われ逝去。享年43歳。
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星野道夫は、手紙を書くように文章を書いていたと聞いたことがある。
手紙は、用事があっての場合でなければ、説明をするものというより相手と繋がりを求めて書くものだと思う。
星野道夫の文章は、具体的な事象が伝わってくるというより、星野道夫がみたアラスカそのものを、変に理解しやすくしようともせずに、言葉に変えただけの臨場感がある。
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アラスカへはまだ行ったことがない。
でもこの本を読むと行きたくなる。
マイナス40度の世界、当たり前のようにみられるオーロラ、エスキモーの生活、すべて体験してみたいと思わされる。図書館で借りて読んだが、手元に残しておきたいと思い、文庫本ではなく大型本を購入した。
やはり大型本の方が写真が断然良い。
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物語を読み進めていく中で、どんどんアラスカに心を奪われてしまい、読み終えたころには、いつアラスカに行こうか、いくつもの旅行サイトを閲覧している自分がいた。
アラスカを旅し、アラスカに住んだ筆者が体験した様々な物語が収録されており、短編集のような仕上がり。必要最低限の情報がシンプルな構成で書かれているが、写真家ゆえ、アラスカの大地や動物、インディアンのリアルで美しい写真も多く挿入されており、それによってよりリアルに物語を感じることができる。
旅した気分になれる、心地よい作品であった。
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次第に自分自身が星野道夫さんの年に近づいてきました。お亡くなりになって以降に著作を読んだので、それ以前に触れる機会は写真集やTV位だったのですが、実際に読んだ時にその文章の誠実さに胸打たれました。一過性の旅人としての視点では無くて、そこに根付く人々と同じ視点で、人間や自然を見つめている姿が目に浮かぶようです。浮ついた所の無い文章はある意味地味ではあるけれど、いつ読んでも構わない大地のような安心感があります。この本の巻末には絶筆となった八重山民謡のCDのライナーが掲載されていますが、そんな短い文章にも素晴らしいお人柄がにじみ出ています。つくづく惜しい人を亡くしました・・・。
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写真展がある。というので本棚から引っ張り出して読んでみた。再読?いや、実は書籍になってから読むのは初めてかもしれない。
本書の内容は、『週刊朝日』に連載されていたころに読んでいた。…いや、見ていた、かな。
ザトウクジラのバブル・ネット・フィーディングという捕食方法を知ったのもその連載、星野道夫の写真を見てのこと。その後、自然派ドキュメンタリーの番組などで映像でも見ることはあったけど、星野の文章で、写真でクジラのその知的な行動を知った時の驚きは鮮明に覚えている(「これ知ってる?すごいで」と母親に「週刊朝日」のその号のグラビアページを見せていた記憶がある)。
向かい合ったバイソンの姿、夕陽の逆光シルエットのカリブーの横顔、川の流れに横たわる角がもつれて死に至ったムースの白骨、どれもこれも当時の記憶のまま。どれだけあのころ衝撃を受けたのかが改めて写真を見て良く分かる。
一方、文章の方は、逆に覚えている章は少なかった。有名な村長宛に手紙を書いた話と、「カリブーは新聞が読める」というエスキモーの諺、サテライト・ムース etc.etc... 印象的なキーワードのある話は覚えていたけど、他はあまり印象に残っていなかった。
けど、改めてゆっくり文章を追ってみると、写真以上に味わいがある。エスキモーと、アラスカの自然と、じっくりと向き合い、同じスピード感で時を過ごした者にしか見えてこない多くの気づきが、飾らない文章で淡々と綴られていて、じんわりと心に浸みいってくるようだ。
狩猟の後にムースの頭皮をアスペンの枝にかける、あるいはクジラの巨大なあご骨を海に返えす行為、「ブルーベリーの枝を折ると運が悪くなる」というエスキモーの教え、狩るものと狩られるものの間に存在する約束、等々。厳しい自然と向き合って暮らす彼等の暮らしには、自給自足とかいうそんな単純な言葉で置き換えられない、大きな摂理が働いている。
そのことを、現地で共に暮らすことで、特別な行為としてでなく、さも当然といったトーンで語りかけるように伝えてくれる自然さ。こういうのを、うまい文章っていうのだろなと読んでいて思った。
文章と共に掲載される多くの写真。写真を趣味にするようになってから、改めて眺める。主題が大きく捉えられている上記のバイソンやムースやザトウクジラのような印象的な写真もいいのだが、遥か遠くまで拡がる大地や雪原、あるいは大海原の片隅にムースやグリズリー、シロクマの親子の姿が小さく写り込む作品もなんとも素敵だ。写真が説明的でないとはこのことかと思わせる。
巻末解説で、大庭みな子がアラスカの辺境の地で子供たちを教える絵の先生の話として紹介しているエピソードが、星野のそうした作品背景を説明していて秀逸。
その先生曰く「子供たちに絵を描かせると、きまって大きな風景のごく片隅に人物を小さく描くの」と。 つまり彼らは”人間と自然の関係はそのような感覚でとらえられているのだろう”という。
星野は、人間と自然のみならず、そこに暮らす他の生き物たちも、大きな地球規模の大自然の中では、フレームの片隅に小さく写り込む程度の存在感でしかないということを見せていたのかもしれない。
折しも、没後20周年の写真展があるためか雑誌での特集も組まれている。「BRUTUS」に寄せた養老孟司の文章が良かった。伝えられないものを伝えている云々という主旨だったと思うが、今の世の中は「伝えられる」ものが情報と思われているが、伝えられる、=(イコール)それは”複製”であると。複製=デジタルだと。それに対して、星野の写真や文章は、伝えられないことを伝えている、という。 個人の体験、心情、他には置き換えられない現地の暮らし、かけがえのない命。 星野はそうしたすべて複製できないもを写し、記し、残してきたということだろう。
複製できない、伝えられない。諦観ともいえる超越した感覚。デジタルが巾を利かす遥か以前、当時すでに星野は理解していたのだろうか。本書の中にも、カリブーの大群に出くわしたが、焦点距離や露光、要は技術的制約でフィルムには収まらない状態に陥ったとき星野は、こんな素敵な行動を取る。
「とうとう僕は諦め、ツンドラの上に横になり、カメラを投げだした。いつか本当の伝説になるかもしれぬこの光景を、自分の記憶の中に残しておきたかった。
見渡す限り、カリブーの海だった。人間のためでも誰のためでもなく、それ自身の存在のために自然が息づいていた。その海の中で、数万頭のカリブーが奏でるひづめの音に、僕はただ耳を傾けていた。」
他の章にもあった、
「心のフィルムにだけ残しておけばいい風景が時にはある。」
この達観はカメラを手にしている者として意識していたいなと思う。
そんな思いを持ちながら、改めて、星野の作品を見に行くのが楽しみだ。
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ジムは指示を与えながら、子どもたち自身にカリブーの解体をさせたに違いない。わずか数分前まで、全存在をもって原野に生きてきた一頭のカリブー。ひとつのナイフで、いかに正確に、丁寧にカリブーの身体を離してゆくのかを学ぶこと・・。それは、いかにカリブーの死を自分の中で理解してゆくかということでもあるのだ。(p.41)
あるエスキモーの老婆と秋のツンドラで過ごした日のことを覚えている。彼女は土を踏みしめながらネズミの穴を探していた。冬に備え、ネズミはエスキモーポテトと呼ばれる小指ほどの植物の根を貯えているらしい。穴を掘り起こすと、本当にひと塊ほどのエスキモーポテトが見つかった。老婆はそれを半分だけとると、持ってきたドライフィッシュ(魚の干物)を代わりに入れ、再び穴を土で覆った。「どうして」と訊く僕を、老婆はそんなこともわからないのかというように見つめ返した。
それはさまざまなことを語りかけてくる。絡み合う生命の綾に生かされている人々。しかし考えてみれば僕たちだって同じなのだ。ただそれがとても見えにくい社会なのかもしれない。(p.247)