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現実において、自明性の喪失自体が、自明になっている。「生きる意味」「本来の人間性」などというものは、もうないのだから。それでもなお、なぜひとは意味をもとめようとするのか。思想家たちの議論の中で、冷笑されながら渇望される「意味」のゆくえ。
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社会全体の複雑性と不確定性と不透明性が意味への問いを誘発する。
不確定性とは存在するものはすべて、別様でもありうる、いつでも別の区分によってとらえうるということである。
複雑性は偶然の尺度である。複雑さはそれを記述する形式により決定され、それ自体としての複雑な対象があるわけではない。あるシステムが複雑であるのは、そのシステムのための複数の記述が必要な場合のことである。ある組織による外部の複雑性の縮減は内部の複雑性の増大をもたらす。その結果、コントロールのための分業が不可欠になる。さまざまな機能システムの分離が意味喪失として体験される。
意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ。
ポストモダンは別様であることと戯れる。多くの世界と多くのスタイルが同時に併存しうる。歴史は博物館になる。それは、記憶を呼び起こす場から、さまざまの時期のサンプリングを行う場へとかわってゆく。時間が循環するループとなる。無限ループ。
別様でもありうること、つまり自由が苦である。意味への逃避として、個性化の強制つまり自己演出による自己実現がなされる。
宗教は不確定性を承認する装置であった。聖なるものの顕現により意味が与えられていた。
生の意味とは、それぞれの生が自己の体験を処理するために必要とする形式のことである。
意味の案出。人間のゲシュタルト認識、パターン認識、知覚のゲーティング。眼が世界を見るとき見るものは、コミュニケーションにとっての事物の使用価値と不可分である。人間と同様に、社会は意味の形式によって、氾濫するデータから自己を守る。コミュニケーション行為の再帰性によって、意味は一種の文化的遺伝子情報として機能する。
データの流れと情報の制御の信号(情報)の世界とコミュニケーションと意味パターンと方向付けの意味の世界。情報はコンテキストにより意味を与えられる。
忘れるとは、能動的な力である。
意味の危機は、自分を問題にすることから生まれる。自分自身のことを考えていられなくするような課題が無いからこそ、自分自身が問題となるのだ。機械と制度こそが、探し求められている意味の身代わりとなるのだ。
世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠になる。ユーザー・インターフェイスはブラックボックスを扱う際の不安を取り除く。
デザインとは意味の問題を解決するものなのだ。デザインは、意味とは何らかの存在ではなく、在り方だということを教えてくれる。人間とは仮想現実のなかで可能性に向けてデザインする者である。その人間は、意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。人間とは元来、意味を創り出す生物なのだ。
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社会の複雑化、個人の自由の増大→意味の喪失→意味の探求→だがそんなものはありゃしない。。。というところまで苦虫を噛み潰したような顔しながらふむふむと読んだが、メディアの話をしたあとに、いきなり最後の2ページで「すべてがデザイン」とか「デザインは意味の問題を解決する」とか言い出して目が点になった。もう一度パラパラと読み直すと、なるほどたしかにところどころにデザイン・デザイナーという言葉が出てくる。読解しなおした。
「デザイナーはもはや機能主義的・即物的な透明性を目指すのではない」というのだから、UIやUXのデザインをする人のことを著者はデザイナーと読んでいるのであろう。「デザインとは、ブラックボックスを扱う際の不安を除いてくれるユーザー・インターフェイスを造形することだ。我々の世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、ドイツ語で言えば(!)インターフェイス・デザインというものが不可欠になる」と26ページで既に言及している。
仕切り直し。
(宗教などの社会規範の崩壊→)社会の複雑化・個人の自由の拡大→意味の喪失=理解不能な社会と個人が向き合えない=社会と個人との間のインターフェイスの欠如→意味づけをするといういみにおいてのデザインの可能性
という内容か。そう考えると、宗教っていうのも理解の範疇を超えているもの(自然、死など)に意味づけをしていたわけだから、逆にいうとデザイナーだったとも言えるのかも。
(以下抜粋)
事物の造形、政治的造形、自己造形の3つの問題に共通して、複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対するあこがれがいたるところで生まれる。
デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術即ち不透明な仕掛けに対する人間の不安をのぞかなければならない。今日のデザインはもはや機能主義的・即物的な透明性を目指すのではなく、自信を持ってもらうこと、世界を信頼してもらうことを目指すのであって、啓蒙主義の側に立つと言うよりは、宗教の側に立っているのである。
「情報化上時代の究極の贅沢は、意味と文脈である」
複雑性・カオスという言葉がもてはやされるのは、その言葉が持つセックス・アピールのせい。そうでなければ、普通の人は進んで複雑性の話を聞こうなどとは思わない。その分好まれるのが統計である。統計が好まれるのは、構造を解明しなくとも数を比較するだけで複雑な諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
未来学者・SF・企業コンサル。。。未来はもはや自明のものではない。進歩は古臭い。
「もしそこに意味が無いならあずいぶん仕事の節約になるわ。だってそれなら意味を探さなくていいんですもの」(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』)
「世界の事象の意味をどんなに徹底的に研究して完璧な結論に達したとしてもその結論から意味を読み取ることはできないのであって、意味は自分で作り出すしか無いのである」(マックス・ヴェーバー)
意味を求めるものは、学問からの救済を乞うているのだ。
マイケル・スピンドラー(アップル元社長)「ユーザーフレンドリーなだけでなく、ドラッグのように中毒性のあるGUIが必要だ。ニンテンドーのやっているように」
技術は意味を棚上げにする。デザインは意味を描いてみせる。
デザインは方向づけを与えるし、それ自体が方向付けである。だから、デザインが意味の問題を抱えることは決して無い。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。デザインは、意味とは何らかの存在ではなく、あり方だということを教えてくれる。
今日、「人間とは何か?」というカントの問いに答えようとするものは、デザインを学ばなければならない。
「ポスト産業社会の中心問題は、意味という希少なリソース、生の意味というものであろう。人間とは元来、意味を作り出す生き物なのだ。人間はどこかの隅に隠れて生きるのではなくグローバルな世界の地平に生き、そこで世界のあり方を描いてみせるのである。それは、世界を開くデザイン、ひとつの象徴的形式、一言をもってすれば文化に他ならない」ホルガー・ヴァン・デン・ボーム
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すごくいい本
現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的であって、われわれは、考えられるどんな世界よりも良い世界に生きている=「ひそかな確信」(ヘーゲルとライブニツ)
あまりにも曖昧な否定的予言を反駁することは不可能である。
悪いことになると予言するものは、常に有利な立場に立つ。
最も悪い場合(つまり悪いことにならなかった場合)でも、かれは自分が警告したおかげで何とかなったのだということができる。だから、ペシミズムとは思考をサボることでしかない。
「抗事実的な」−救済約束には気をつけなければならない。
存在するものは、たいていは善き意図よりもましなのだ
他の関連から切り離された環境問題自体が存在するのでなく、何らかのシステムが、自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは本来、それぞれのシステムが、非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
けれども世論は、このように極めて明確に定義できる環境問題を、自然の問題にしてしまった。(システムごとに決まってくるはずの相対的な環境概念が、自然環境として絶対化される)
警告者たち、つまり憂慮の念を抱いたりする人々である。かれらは、理論の問題を道徳の問題に転化させることによって複雑性を縮減する。
世界にたくさんの知があればある程私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。「それ」を知っているはずの人たちを、われわれは信頼する。本当に信頼するに値するかどうかをチェックすることはまずできないから、もっとはっきり言えば、我々は専門家の自己信頼を信頼するわけだ。
近代社会にそれ以外のやり方はない。
意味を問う者は、答えようのない問いによって相手を困惑させる。もう一つ先に進むと、重々しい問いは救済の押し付けに変わる。
意味を問う者は、相手を説得して救いを求めさせる。
「困窮嗜好症に罹った人々の社会」
「意味喪失の意味は、我々を没頭させることにあるのかもしれない」
意味が要請されるからこそ、「意味が見つからない」ことになる。
意味が見つからないと言って文句をつけるのが昂ずると、世界を滅ぼしかねない攻撃性が正当化されるのである。
否定主義は独自の快楽を持つ
義憤の愉悦を感じながら災厄のセンセーションを味わうのだ。
”幸せな「不幸せな意識」”というパラドクス
幸せとは、あくまで現実に反したものである。
いつでも、幸せとはこんなものではない、としか言えないのだ。
「不幸せは、美徳の代用品である」
「ネットは、談話室(サロン)というよりは娯楽場(サルーン)だ」
オールドメディアは
・一望できるという慰めを与えてくれる(本には初めと終わりがある)
・意味を求める者たちの形式となる
・複雑性の縮減に役立つ
・情報空間におけるナビを隠喩によって助ける役目を果たすのだ(フォルダ・部品・・・)
ユーザーが、負け犬
我々の西洋世���は「何を」を問わずに「どのように」と問うようになり、「なぜ」と問わずに「かのように」で満足するようになっている。だからこそ、西洋世界は機能するままに機能しているのである。
すべてがデザイン−デザインとは意味を提示するもの
技術は−機能の名において−意味を棚上げにする
これに対してデザインは、意味を描いて見せる
インターネットにおいては、世界中の知がカオス的に増え、積み重ねられる。
そこには真の知を見分ける基準などもはやない。すべてが意見になるのである。