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福岡県で起きた一家四人殺害事件で冤罪を訴える被告人の半生と事件・裁判の経過を綴ったノンフィクション物。冤罪に興味を持ったのと島田荘司ってことで手をつけてみたのですが、資料など含め文章量が多くて読むのは大変…。けれど、完全無罪というわけではないですが判決には疑問が感じられ、興味深かった。今は第二次再審請求中のようです。
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イメージ参照(http://blogs.dion.ne.jp/kentuku902/archives/4576907.html)
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2007.1.20
一家惨殺、冤罪、確かに司法をめぐるドキュメンタリーとして一級品、そして、それだけではない。
うまく言えないが、事件の真の加害者は、日本だ。そして国民だ。
読み終えて、そう強く感じた。
私には秋好氏が冤罪なのか否か、富江が真犯人なのか否かはわからない。また論じる術を持たない。
ただ一つ、非常に多くの人間がさまざまな嘘をつき、それによって、真実への道は閉じられてしまい、二度と開かないということだけは明らかだ。
不思議で仕方ない。
世間体や保身のために虚偽の証言をした人間は、秋好氏に死刑判決がでた後、また現在、どの様に暮らしているのだろうか。
証言をしたことも忘れ、家族と幸せに一生を過ごすのか。厄介事に巻き込まれなくて幸いとばかりに小市民の皮を被って眠るのか。
離婚は家の恥で、結婚式に呼ぶ親族の格を重要視し、女が遅くに外出することを嗤う。子は親に従い、妻は夫に尽くし、妹は姉に仕え、被差別者に人非の扱いを施すことを美徳とする。
その下らない、屑以下の価値の"昔ながらの日本の道徳"には、人を欺くこと、嘲ることを卑しいとする項は含まれないらしい。
確かに、秋好自身もどうしようもない人物だ。
常に楽な道を探し、博打に逃げ、人に厳しく自分に甘い。計画性はなく、昔取った杵柄に囚われ、被害者面をすることだけは天下一品。
しかし、その彼を作り上げたのは、家族、同僚、友人、上司、戦後の環境、戦争を作り出したこの国、愚鈍な責任者を輩出した国民、そして私達の"日本人らしさ"であり、これら全てに責任がある。
繰り返しになるが、加害者に責任がないと言っているのではない。
ただ、犯罪はそれを犯した者のみの責任であり、自分には何の関係も無いと言う顔で生き、よって犯罪者を貶し辱めることは、正しい権利であるというような生き方は間違いなく恥ずかしいものだと思うだけだ。
自分に責任の一端がある、だからといって、何かをどうこうすることはできない。
やはり一個の犯罪は、彼のものであり、表面的な意味で介入することは不可能かつ不必要だ。
ただ、全ての犯罪は、決して人事ではなく、加害者と被害者のものではないのだ。
それまでの私が持っていた一方向的な考え方の危険性を教えてくれた本だった。この本を読むことが出来て、本当によかったと思っている。
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これは、画期的実験小悦です。
裁判員裁判が始まり、素人が刑事裁判に加わり、事件の真相を見極める目が必要となってきました。
その意味で、これは素人裁判員のための格好の模擬テキストにもなっています。
鑑定書や実況見分調書、供述調書、証拠品などがどのような書式や形で提示されるのか、公判の状況などが詳細に記されており、裁判の臨場感ある雰囲気が伝わります。
さて、本作品は推理小説家が実際の事件に興味を持ち、犯罪者との交流を重ねながら、事件の真相を突き止めようとするノンフィクションですが、あくまでも公平な目線から状況を描こうとしている姿勢に共感できます。
島田氏が矛盾や疑問を「文庫本あとがき」で披露していますが、中でも不思議なのは事件現場に血に染まった手指の指紋跡が多数残っているはずなのに、それが鑑定資料として法廷に何ら提示されていないことです。
この事件は、最初に被告が4人殺害を自白しながら、途中で冤罪を訴え主犯は富江だと前言を翻したことから新展開します。
被告の新たな証言が信じるに足る正しいものかどうかは、被告のこれまで歩んできた人生を振り返り人間性をみる必要があるということで、作者は被告の生い立ちを克明に追いかけていく。
被告のその姿は、一生懸命正直に生きながらも貧困ゆえに社会の不条理に翻弄され、ほんの少しの綻びから人生の階段を転落していく様は、まるで宮部みゆきの小説の世界を彷彿とさせる。
そして島田氏の結論は、被告の証言は信じるに足るものであるという確信に変わり、とはいえ被告に肩入れしないように客観性を担保しながらも真相に迫っていったのが本書の根幹です。
その後、島田氏はこれらの考察をもって冤罪を訴える上申書を2通提出するも、あっさりと死刑確定が決まる。
この印象を簡単に言えば、司法の世界に門外漢が口出しをするな、ということでしょうか。
裁判員裁判はこうした無謬性という神話に安住する尊大な裁判態度への反省を込めたもののはずでしたが、いつのまにか世間の批判をかわすためのガス抜きという状況になっているのではないか?
つまり、我々のような素人裁判員が判断するのは、あくまでも提示された証拠の中からであって、秋吉事件のように提示されていない重要な証拠品の存在すら知らないまま判断せざるを得ないという重大な欠陥が放置されたままだということです。
これを防ぐ解決策は、検察がもちえた証拠の全面開示しかありません。
裁判を単なる勝敗のゲームにしないためには、すべての証拠を検察も弁護側も公平に使えるようにすることが、真実に近づく前提だということです。
2010年時点では、被告は福岡拘置所で死刑確定囚として服役中、大城に改名して再審請求中だそうですが、現在はどうなっているのでしょうか?
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秋好英明という一人の男がいる。いや果たして令和3年の現在ではいたと表現すべきなのだろうか。昭和の激動をそのまま体現するかの如く、生きてきた男である。
ただひたすらに真面目に生き、ただひたすらに働いてきたこの男が、ある時点で人生に狂いが生じた。その狂いは初めは誰もが経験する挫折のようなものだった。だから、いつでも立ち直れた。事実、男は立ち直った。
しかし、それまでのその男から何かが失われ、何かが変わった。やがてその狂いはとんでもない所までその男を導き、やがて人を殺すという大罪を起こさせ、やがて死刑として裁かれる。
昭和51年6月13日から翌14日にかけて起こった一家連続殺人事件の犯人とされる秋好英明の裁判記録と彼の犯罪に至るまでの半生を綴った本書は、島田氏の「秋好冤罪」を信じてやまない執念が結集した、畢生の大作である。
秋好英明の半生を語る部分は細かな所まで詳述し、彼の人生を少しも漏らさないぞという意気込みが感じられ、熱気に満ちている。
大分の片田舎で生まれ育った秋好がかつては親孝行の神童と村中に持て囃され、事実、病気がちの母と幼い弟を出稼ぎでいない父親の代わりに育てながら、学校に行くひたむきな姿。
弟と父と母とのあまりにも早過ぎる別れ。
借金に追われる毎日を自分の夢を二の次にし、身を文字通り粉にして働く朴訥さ。
そういった彼があまりにも人に怒られること、怒鳴られる事に慣れていないことから生じる人生の齟齬。
真面目であるがゆえに苦悩し、困難から逃げ出すように無断で職を辞し、東京、大阪、福岡、大分と住処を転々とする風来坊のような生活。
上手く人生を立ち回る事を知らない、もしくは出来ないがために招いた二度の不当逮捕。
何をやらせても一流の域まで達するほどの器用さ・聡明さを持つのに生き方に不器用なため、無類のギャンブル好きなために破綻する生活。
仕事一筋で生きてきたがため、女に対して無知だったことによる結婚の失敗。
この秋好英明という男の半生は何かしら、大きな負のエネルギーに覆われているとしか思えないほど、報われないものだったなぁと感じる。
しかし、これも島田氏が云うように、高度経済成長を成し遂げた日本の裏側に潜む凡百の悲劇の1つかもしれない。
私はよく人生というのはやるかやらないかの2分の1の選択でしかないと思っている。この2分の1の選択で実は大きく人生は分かれていく。秋好英明の人生なんかは正にその典型だ。
一言、正直に事前に周囲に説明をしておけば、何の問題のないような事をそれをしないがために周りの信用を無くし、自らの評価を必要以上に貶める。ほとんどこの繰り返しだといっていい。
人間は失敗するものだ。それが当たり前。それを次回、修正し、改善して生きていけばそれでいいのに、秋好はしなかった。これが全てだと思う。
今回、特に秋好の半生を描いた部分はそれが実話だと思えないほど、読み応えがあり、かなり面白かった。島田氏の小説の中でもトップクラスであろう。
しかし、島田氏は読者に秋好が有罪なのか無罪なのかを判断させるために裁判記録を抜粋し、転載した。この手法はフェアではあるが、ノンフィクション作品としては感心できるとは思えなかった。作品を世に問う時、やはり作者の声で語るべきだと今の時点での僕は思うからだ。島田氏としては読者の思考を安直に冤罪へと導く事を避けた上での選択だろうが、裁判記録という読みなれない文章を延々450ページ近く読まされるのは苦痛であった。正直冒頭のプロローグはこれから1000ページ以上の作品を読もうかという読者の覚悟を挫かせるほどの難解さがあった。
渾身の傑作であることは認める。しかし、読者が苦痛を感じる書物はやはり、5ツ星はあげられない。
実はまだまだ書き足りないという思いが強い。しかし、全てをここに記すよりも内容について心の中で反芻し、考え続けることもこの作品についてはこれから必要だと考える。今回はこの辺で筆を措く事とする。