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伝記 世界の作曲家14
エルトン・ジョン
著者 ジョン・オマホニー
役者 橘高弓枝
僧成社
1999年4月発行
小学校の時、なにが嫌だって、読書感想文が一番嫌だった。多くは、織田信長だの、エジソンだの、伝記を読まされて感想文を書かされる。伝記なんていいことばかり書いてあって、感想もくそもない。ああ、そうか、頭がよかったんだな、努力したんだな、好奇心が旺盛だったんだな、ぐらいしか思わなかった。
いつも行く地域図書館の、貸し出しカウンターの近くに伝記の棚がある。この本のシリーズとしては、ビバルディ、バッハ、モーツアルト、ベートーベン・・・といったクラシック音楽家がある一方で、ジョン・レノン、ボブ・マーリー、エルトン・ジョン、スティングといった現代のミュージシャンものがある。中間的な線で、バーンスタインも。
ボブ・マーリーにもひかれたが、一番多くレコードやCDを買い、中学3年のとき(1974年の新春)に名古屋市公会堂で鑑賞したコンサートから始まり、何度もライブに行っているエルトン・ジョンを借りてみた。
子供でも読めるよう、多くの漢字にルビがふってあるし、大人なら誰でも知っている用語の説明も丁寧にしてあるが、内容的には200ページ近い充実したものがあり、大人でも十分勉強になる本だった。エルトン・ジョンに関して、レコードのライナーノーツなんかでの情報は知っていたけど、この本を読んで、初めて知ったことがたくさんあった。
そうか、そうだったのか・・・と。
モーツアルトやベートーベンの伝記なら、今でも読書感想文はほとんど書けないだろうけど、エルトン・ジョンならいけそう(^o^)。
(メモ)
10代の頃、4人の友人とR&Bのバンドをしていて、レコードも出していた。
エルトンの音楽的才能は、空軍のバンドでトランペット奏者をしていた父親ゆずりのものだった。
15才の時、アルバイトで上がっていたステージで眼鏡をかけていたのは、目が悪かったからではなく、英雄のようにあがめるバディ・ホリー(アメリカのロック歌手)ヘの尊敬の念をこめてのことだった。
子供のころから、かんしゃくの発作を起こし、激しいときは手がつけられなくなった。
デモ・テープの制作は、社長にもスタジオ関係者にも無断で、深夜に行われることになった。ところが、その夜、スタジオのマネージャーがたまたま車で通りかかり、明かりがついたままになっているのに気がついた。深夜のふとどきな侵入者は発見され、秘密のレコーディングもすぐさま中断された。そして、一部始終がディツク・ジエームズ社長に報告されたのだった。社長は、大物にふさわしく太っ腹だった。《スタジオを使うのと引きかえに、完成したデモ・テープを自分に聴かせること》という寛大な条件つきで許可した。
一九七二年、バー二ーとのコンビによるアルバム『ホンキー・シャトー』の中から、『ダニエル』がシングル発売された。故郷をはなれてベトナム戦争に出征したベテラン兵士の物語だ。兵士の旧友たちは、戦後、帰郷した彼をどうあつかっていいかわからない。兵士を英雄あつかいする者もいれば、異常者と見なす者もいる。しかし、兵士自身は昔の生活をとりもどしたぃだけだ。エルトンはこの歌に出をつけるとき、歌詞の最後の節、こまかい説明部分のほとんどをカットしてしまった。
買い物好きのエルトン・ジョンは、一万オーストラリア・ドル(アメリカ・ドルに換算すると八千九百三十三ドル)をかけて、オーストラリアで路面電車を購入したのだ。電車を船便で輸送するのにかかった費用は二万二千オーストラリア・ドル(アメリカ・ドルでは一万九千七百八十四ドル)。電車それ自体よりも高くついた。
1974年の九月、エルトンはかねてより親交のあったジョン・レノンの『真夜中に突っ走れ』のレコーデイングにも参加した。この曲は、レノンのソロとしては初の全米ナンバーワンにかがやいている。そのお返しに、レノンは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのライブにゲスト出演した。これがレノンの最後のコンサートになった。
エルトンが絶望感にかられて自殺未遂をくりかえしたのも、同じこの時期(1975)だった。太りすぎを心配して絶えずダイエットをしていたが、彼の体重はいつも不安定に変動し、年とともにその変動が極端になっていった。
『ローリング・ストーン』の記者は、だれもが知りたがっていること、《エルトン・ジョンの性的意向はどうなのか?》という問題に、じわじわとせまっていったのだ。その結果、インタビュー記事のタイトルは、《エルトン、率直に語る―― スーパースターの孤独な私生活》になった。インタビューの中でエルトンは、自分が男性にも女性にも愛情を感じる同性愛者だと告白した。
その年の五月、ソ連に招かれたことだろう。西側と東側の音楽の交流がまだほとんどなかった時代に、西側のロックミュージシャンとして初めて《鉄のカーテン》をこえることになった。