紙の本
おもしろさのフルコースディナー。
2003/04/18 11:39
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投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
なぜ、日本ではバルザックがポピュラリティーを得なかったのか。極論すれば、日本が本質的に貧しかったからだ。食べることに汲々としていては、やはり贅沢は敵であり、富は悪、金は下賎なものだった。ゆえに、戦前は、銀行員は上等な職業ではなかったことを山本夏彦のエッセイで読んでいたことを、ふと、思い出した。ちなみに、ぼくの母方の祖父は銀行員だったが。
ところが、悪名高きバブル時代を体験して日本人は、ようやくバルザックの描いた世界−たとえば蒐集家のごとき道楽者、あるいは遺産相続をめぐる親近者による骨肉の争い、それに群がる悪徳高利貸など−を理屈ではなく、肌で理解できるようになった。バルザックを読む下地がようやくできたというわけだ。バブルの数少ない効用の一つではないだろうか。
訳者によると、バルザックは、マルクス、ドストエフスキーの言うなれば源流であるとか。そして、日本で、バルザック的な面白さを探すと、なんと『ナニワ金融道』になるという。余談になるが、『ナニワ金融道』の作者、青木雄二は、自称マルキシストであり、ドストエフスキーに感化され、漫画を描き始めたと述べているのを読んだことがある。納得!ついでに言うなら、中村うさぎのブランド大好き症候群も、バルザック的面白さの範疇に入る。不景気とは言いながらも、ルイ・ヴィトンのかなりの売上シェアは、日本が占めているのが事実なのだから。
本作は、バルザック「人間喜劇」セレクションの第1巻。『ゴリオ爺さん』という題名で知られているが、訳者の鹿島茂は、バルザックの魅力を一人でも多くの人に知らしめようと、あえて目新しい『ペール・ゴリオ』というタイトルにしたようだ。もちろん、ピカピカの新訳である。こういう書き方は、失礼千万なのだが、ちゃんと流暢な日本語になっている。
物語の舞台となるパリの下宿屋と下宿人たちを紹介している最初の数十ページは、確かに訳者が述べているように、晦渋(かいじゅう)だ。しかし、ページがすすむにつれ、野心家の青年ラスティニャックや謎の男ヴォートラン(これがまたカッコイイわけで)などウサン臭くて個性的な下宿人たちやストーリーにはまっていく。
ゴリオ爺さんは、元製麺業者。事業で成功した彼は、二人の最愛の娘を貴族や商家に嫁がせるために、その財産の大部分を持参金として、またその後も、社交界で生きるため、無心にくる娘のために老後の蓄えもはたいてしまう。
悲劇と喜劇は紙一重なのだが、一文無しとなったゴリオ爺さんの断末魔の悲惨さはなかなかのものである。また、ゴリオ爺さんをめぐる俗物たちを、作者はこれでもかというほど、赤裸々に描いている。
きっとあなたの周囲にも、ゴリオ爺さんやゴリオ婆さんがいるはず。いいや、いずれはあなたもぼくもその度合いは別にして、同じ轍(てつ)を踏むはず。だから、国を時代を越えて、心の底から笑えるのだ。
過剰とまでも思える物語の情報量であるが、読み慣れてしまうと、昨今の小説の薄っぺらさが退屈に感じられる。人間の本質やタフさを存分に味わえる。下世話で、スキャンダラスで、ひたすら活力がある。とても古典とは思えない高カロリー&美味な作品である。
紙の本
こんなに面白いと思わなかった
2001/04/09 18:10
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投稿者:白井道也 - この投稿者のレビュー一覧を見る
バルザックは凄いという話は前から聞いていたが、初めて読んでみたらびっくりした。文句なく面白い。
寂れた下宿を舞台にした群像劇。立身出世を遂げようとする若者や、タイトルロールである落ちぶれたペール爺さん、あるいは痛快な悪党など、出てくる人物がとにかく生き生きとしている。物語そのものもダイナミックで、ハッピーエンドではないにしても、そのラストはかなりかっこいい。
表紙も粋だし、随所にイラストが入っていたりと、装幀も素晴らしい。訳者・鹿島はあとがきで「この世には二種類の人間がいる。それはバルザックを読んだ人と、バルザックを読まなかった人」と記しているが、それはあながちオーバーな表現ではない。
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>4月付け足し
結局諸事情により購入。
いま読み返したら、絶対に感触違う。絶対違う。全然違うと思うから(笑)
【09.1.10/図書館】
他訳を読んだことがないので比較しようがないけれども、これはとても読みやすいと思う。ずっと読んでても疲れないし。
鹿島さんは、始めの30ページは退屈でもガマンして読んでねって書いてたけど、最初の30ページが一番面白かった気がする…おや?
とはいえ、鹿島さんの「目論み」は、成功していると思います。タイトルを、すっかり固定されている「ゴリオ爺さん」としなかったのも、正解だと思うし。
説明と対談は必読。なるほど!って思うし、頷けることも多い。
ただ、悪好きな私から見ても、氏が押されるほどヴォートランに魅力があるかどうかは………なんというか、大物に見えないのよね、小うるさくて。
小悪なら小悪で色々ツボな点もあるし、巨悪は巨悪で魅力バリバリになるはずなのに、この人は大物に見せたいだけにしかみえないっていうか…。どっちつかずというか。
バルザックの文体が「悪文」だってのは、訳文からも伝わってきた。でも慣れれば平気。
続き楽しみ!
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藤原書店の鹿島茂さんの翻訳が決定版。素晴らしいです。
単にわかりやすいだけでなく、
他のどの翻訳者よりもきとんとした日本語を書いている。
あとがきで解説されているように、
序盤の舞台説明がとにかく長くてわかりにくい。
情景が全く頭に入ってこず、何度中断したことか。
それでも諦めきれず、複数の翻訳版を読み比べていく中で
鹿島さんの訳に辿り着いて驚いた。
こんなに平易な内容だったんかい。。
つまり翻訳の問題だった可能性が濃厚なのである。
事実、バルザックの作品は良い翻訳が少ない事で有名らしい。
これには翻訳側の言い訳が昔から用意されていて、
バルザックという作家は、どちらかというと文章が下手な部類で、
文章の上手さよりも内容の面白さを重視していたため、
原文がごつごつとしていて翻訳が難しいからだ、
とのエクスキューズが非常に多いのだが、
それにしても新潮、岩波の翻訳は酷すぎる。
私から言わせてもらえば翻訳以前に日本語のセンスがないだけである。
***
さて、約30ページ程続く舞台説明が終わると
以降はそれまでの読み辛さが嘘であったかのように
あっという間に読み終わってしまった。
ストーリーの急展開ぶり、主人公の急成長ぶりは
漫画を読んでいるようで拍子抜けする部分もあるが
そう感じさせる程に読みやすいという事だろう。
バルザックはお金を中心とした設定の話が多く
この作品だけでも
・出世欲に燃える若者の金の無心と良心の呵責
・華やかな社交界の生活と貧乏生活
・娘を愛する父と、父を金づるとしか見なしていない娘
というように、金銭がらみの様々な対立軸を設定し、
登場人物たちの心理をえぐり出していく。
その残酷な描きっぷりは凄まじく
読んでいて目眩を感じる程だ。
まるで予言者であるかのような、
後のドストエフスキーを予感させるかのような
異常に丁寧な心理描写は
あたかも全知全能の神が語っているかのようである。
死に向かうゴリオの悲痛な叫び、
エンディング、ラスティニャックの台詞も見事。
バルザックの天才に脱帽!
2011-11-01 01:46:07 Twitter、
2011-11-03 02:06:10 Twitter、
2011-11-10 16:06:10 Twitterより
2013-06-15 一部加筆修正
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19世紀パリ社交界の様子がわかる。当時のパリは、フランスの中でも異世界だったようで、そのことも含めてパリの様子がよくわかる。登場人物もそれぞれ魅力的で、ストーリーもおもしろい。最後まで飽きずに読める。が、主人公にせよ、脇役のヴォートランにせよ、当然話の続きがなくては、というところで終わっている。この気持ちに流されるとバルザックの沼にはまるのだろうな、と。恐ろしいことである。
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「機動戦士ガンダム」シリーズでも、あだち充さんのマンガでも、伊坂幸太郎さんの小説でも。
「ある作品で主人公だった人が、別の作品に脇役として出てくる。あるいは同じ脇役が出てくる」
と、いう仕掛。たまにあります。「スピンオフ」というおしゃれな言葉がここ最近はありますね。以前は「番外編」とか呼ばれていた気がします。
(ちなみに歴史有名人物の物語っていうのは、大きな構造で言うと、全部そうです。
司馬遼太郎さんの小説やら、大河ドラマやら全部そうですが、「織田信長」という物語を楽しんでから、「豊臣秀吉」という物語に入れば、織田信長が脇役で出てきます)
フィクションの物語で、この「スピンオフ」「番外編」的な手法を徹底して行った、元祖。オリジン。
それがバルザックさん。「人物再登場法」と呼んでいたそうです。つまり登場人物の使い回し、「キャラ・リサイクル方法」ですね。
フランスの19世紀の小説家さんです。本屋さんで見かける代表作がこの、「ゴリオ爺さん」。
長編・短編織り交ぜて、かなり多くの作品を書いているのですが、それらは(例外はありますが)全てが、同じフィクション世界を共有しています。つまり、ある大長編の主人公が、別の短編でチョイ役で出てきたり。ある長編で脇役だった老人がいて、別のある短編の主役である青年がその老人の若かりし日の姿だったり。
そういう仕組みを、大々的に確信を持って10年以上書き続けて成功した、という意味ではバルザックさんが初であり元祖でしょう。こういった作品群を、ご本人は「人間喜劇」というタイトルをつけました。
つまり、バルザックさんの小説は厳密に言うと、全て、「人間喜劇 ゴリオ爺さん」みたいな感じで、頭に「人間喜劇」が付くことになります。本屋さんではそういう風になっていませんが。
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ビクトル・ユーゴーさん(「レ・ミゼラブル」)やアレクサンドル・デュマさん(「三銃士」)と同世代の人です。
「レ・ミゼラブル」は映画やミュージカルで十分、「三銃士」は人形劇でいい、みたいに、バルザックさんも、「まあ、今読んでも、本として面白いってことは無いのかな」と思っていたんです。
ですが細々と長年、本を読んでいると、「どうやら、バルザックさんっていうのはオモシロイようだな」と。
以前に短編集のようなものは読んだのですが、やはり長編代表作を読んでみたい、と感じていたところ、藤原書店さんから選集が出ていて、全体の責任編集に鹿島茂さんが入っていることを知り。鹿島茂さんは、フランス文学ほかの研究者・大学教員さんであり、長年に渡って安定した人気を誇るエッセイストというか作家さんでもあります。僕はけっこう好きなんです。
というわけで、鹿島茂さん翻訳「ペール・ゴリオ」。
これはつまり、「ゴリオ爺さん」です。
鹿島さんが「とにかくバルザックは面白いから、食わず嫌いしないで読んでほしい!」と随所で書いているんですが、なんとなく「ゴリオ爺さん」より「ペール・ゴリオ」の方が第一印象が良いんぢゃないか?特に��い人には。と、いうのは、良く判る気がします。
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どういう物語世界かというと。
19世紀、パリ。それなりに政治変動や戦争の時代が終わっています。
(具体的にはフランス革命があって、ナポレオンの時代があって、その後の「共和制チックだけど一応は王政」という時代です)
もう新聞などのジャーナリズムがあって。
演劇を筆頭に娯楽があって。
会社経営者など「資本家」「勝ち組」がいて。
一方で一生懸命地道に働いてもどうにもならい「負け組」がいる。
中世の封建主義が終わりかけ、資本主義が入ってきて、金儲けがとにかく大事である。
そんな時代。つまり、2017年現在の日本と根っこのところは変わらないんですね。
(だから、19世紀の世界文学は、それ以前よりもぐぐぐぐっと「今読んでも面白い小説」が多いんだと思います)
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とある下宿屋があります。
物凄く雑に言ってみれば「めぞん一刻」の「一刻館」の、やや立派版。みたいなものです。
(たとえが古いか...)
ここに住んでいる若者ラスティニャックさん。貧しい地方出身の大学生。成り上がりたい。
そして同じく住人のゴリオ爺さん。長く製粉業者として働いてきて、今はリタイア生活者。
このふたりが一応は主人公です。
ラスティニャック青年は、どうにか出世したい。
イッキに出世するためには、金持ちや貴族の女性(既婚者でも)の夫や友人(または愛人)になる、というのが最短サクセスルートなんです。
ゴリオ爺さんは、うだつがあがらない年金生活者なんですが、実はふたりの娘をふたりとも貴族や金持ちに嫁がせているんです。
それを知ってラスティニャック青年は、野心からゴリオ爺さんと娘に近づきます。
そして、見事そのうちひとりとラブな仲になるんですが、そうなってみて判るのは。
むすめふたりは、ふたりとも、かつて金持ちだったゴリオ爺さんから、結婚後の今もとにかく金をせびってむしり取り、金だけ貰うとほとんど構ってあげていません。うーん。ちょっと「東京物語」。「リア王」。
野心家ではあるけれど、若くて純な思いもあるラスティニャック青年は、ゴリオ爺さんのことを哀れにも思ってしまいます。
ただ、同情する暇もなく、ラスティニャック青年の前には、ファウストのような皮肉と洞察に満ちた謎の男・ヴォートランが現れ、出世への悪魔の計画を囁いてくる...。
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映画の宣伝文句で、「全員、悪人」みたいなのがありましたけれど、それを借りて言うならば、「全員、小悪人(でも時々弱気になると善人)」みたいな感じです。
一見、社会的にマトモでも、みんな上を見上げて、下を見下し、自分を慰め、金に惑わされ、金に怯えて。
淋しかったり、自分を肯定したかったり、理知的になりたかったりしながらも、結局は流れに流されて行きます。
そんな辛くて痛い、かなりひねくれた群像劇なんですが、シリーズを「人間喜劇」と銘打つだけあって、どこか、ちょっと大げさで。ちょっと、滑稽で。ちょっと、ドタバタ喜劇の趣もあります。
文体としては、地の文、つまり作者がかなり文明批評や人生論を差し込んできます。
そしてそのバルザックの匂いが、ナレーターとしてのバルザックの「天の声」の存在感が。辛くて痛くても「喜劇である」という救いのフィルターになっている気がします。
そしてその文明批評、人生論のたくましさや強烈さに、胸打たれて思わず立ちすくむ思い。
ヴォートランが青年に語る、さしずめ「ヴォートランのアリア」のくだりが白眉なのですが、
「原理原則なんてものはない。あるのは出来事だけだ。法則なんてものはない。あるのは状況だけだ」
という一言などは、忘れられません。うーん。確かにその通り。
まあ、翻訳すれば、
「結局、仕事だって私事だって、7割~8割は、偶然とか他の玉突きとか、そういう出来事や状況に左右されて行くのが現実である。
それが現実なのに、あるべき論とか理想論とか俺はこういう人間だとか世界はこうなっているんだとか、知ったようなことを言うのは、所詮結果論のつじつま合わせに過ぎない。
つまり、自分でコントロールしているように恰好つけたいだろうが、ほとんどのことは、たまたまだったり、ラッキーだったりしているだけだよ」
みたいな意味なのか?と思ったりします。違うかも知れませんが。
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例えて言うならば、ウディ・アレン映画の醒めたユーモア、人間の欲望絵図の世界観。
それが源氏物語のように、広がって行くスケール感。
そうであるかと思ったら、現今のテレビドラマでも通用する、強烈な板挟みのドラマや、家族と死のメロドラマ。
そしてそれを天蓋のように覆い尽くす、悪魔的なまでに強烈な、絶望と皮肉に満ちた作者のまなざし...。
まあ、とにかくオモシロイ。にやにやしたり、興奮したり。書いているバルザックの強烈さ、タフさ、体力と精神力の分厚さを思い知るような一冊。
そして最後に訪れるゴリオ爺さんの死。
ゴリオさんの娘たちへの盲目な愛情が、死を前にして、一瞬、あまりにも自分勝手な娘たちを呪います。
「あの子たちは、わたしのことなど愛してなかったんだ!金だ!金!」
そこまで落ちた挙句に、逝去の寸前に、それでも娘たちに訴える、愛情のことば。やさしさ。
にんげん喜劇、お馬鹿ものがたりだね、と思っていたら。
そんなところで棍棒で殴られるかのような、揺さぶられ方。危うく滂沱の涙でした。
ゴリオ死去。淋しい貧しい葬式の後。
ラスティニャック青年が、ひとり。
さまざまな、まさに「人間喜劇」を見させられ、若さや青さ、純情の皮がむけた青年が、パリの町を見下ろして。
「さあ、今度は俺とお前の勝負だ!」
このラストシーンは、鳥肌もの。脱帽。
涙と茫然のラストかと思いきや、そこから勇壮な悪魔のマーチが始まってのエンドロール。たまりません。
(と、いうわけで、中年となったラスティニャックが再登場し、悪漢ヴォートランも姿を見せる「幻滅(上)(下)」を読まざるを得なくなります)
#
備忘録として。
とにかく脇役のヴォートラン、すごい。
ミュージカル「ミス・サイゴン」のエンジニアやシェークスピアのフォルススタッフといった系譜の、魅力たっぷりでおしゃべりな���漢です。ワルです。
皮肉と諧謔と冷徹な洞察に満ちた哲学と世界観を語り、なぜかラスティニャックに肩入れをします。「出世を手伝おう」。
なんと、同じ下宿に居る貧しい美少女に、多額の遺産が転がりこむように殺人(仕組まれた決闘)を計画。実行してしまいます。
そしてこの貧しい美少女は、ラスティニャックに岡惚れしているのです。
さあ、突如ラスティニャックは、
A:ゴリオの娘である金持ち人妻の愛人になるか(離婚すれば夫になるかもだけど)
B:遺産が転がり込む美少女と恋愛結婚するか
という選択肢。贅沢な悩み。
で、これは結局、ゴリオ娘との間に愛が芽生えちゃって(そう錯覚して)、そっちを選びます。
ところが最後に、ゴリオの娘がふたりとも、夫が事業とかに大失敗の借金まみれに。
もともとが娘自体も放埓な消費生活をして借金があったので、イッキに破産状態。
その不幸の波に対処できずにこれまた破産状態になった老人ゴリオは脳卒中?で倒れ、危篤状態に。
その上、愛する娘二人は、自分のトラブルに精一杯で見舞いにも来ない...。
おろおろと、ラスティニャック青年は、ゴリオの看病をするしかなく...。
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あとがきの、物語についての背景の解説部分を先に読んでから読むのがおすすめ。理解しやすくなる。
主人公が親戚のおばさんの家に初めて行ってみて、そこで言われることが冗談なのか本気なのかがよくわからなくて混乱したけど(本気で言ってた)、そこで出てくる人たちの上下関係が飲み込めれば後はすらすら読めた。
人間の本音と建て前の駆け引きがすごく面白かった。
解説にもあるように、登場人物一人一人の背景がしっかり作りこまれてるから、全ての出来事に前後関係があるのが感じられて面白い。
文章の表現もドラマチックで引き込まれる。
バルザックをもっと読んでみたくなった。