投稿元:
レビューを見る
仮想空間を舞台としたSF小説。科学者ジョー・コリガンはヴァーチャル・リアリティーの研究に従事していたが、自分の存在する世界が実はヴァーチャル・リアリティーであった。古代中国思想の荘子には「胡蝶の夢」という話があり、漢籍に馴染んでいる人には驚かないプロットである。ヴァーチャル・リアリティーやメタヴァースの発展で現実がSFに追い付きつつある。
コリガンは企業内の研究者であり、社内政治が関わってくる。社内政治でビジネスが歪められることはうんざりする。その中で不動産バブルの虚飾を批判する台詞がある。「きみらのうちで、何年も前の貯蓄貸付組合の騒ぎを覚えているのは何人ぐらいいる。あの時は誰も借りたがらない超高層オフィス・ビルを都心に積み上げるのに何百億もつぎ込んだ」(176頁)。これは、その通りである。
コリガンは技術的限界を正直に説明する。企業はバラ色の夢物語を描いて投資家から金を集めていたため、経営者は激怒する。しかし、コリガンの率直さが逆に投資家から評価された。「われわれが聞きたかったのはただ、保証はどこにもないということを面と向かって言ってくれる言葉だったんだよ。それを聞くことができれば、われわれはみな立場を同じくして、同じ問題を解決しようとしていると、わかることになるわけだ」(406頁)。日本人は「大丈夫です」と無責任に答える傾向があるが、それは最悪の回答になる。
仮想空間は現実そっくりに作成するために逆に不便な点がある。「なんでわざわざシミュレーションの世界を作っておいて、現実世界の不自由な部分まで全部作らなきゃならないわけ。何かおまじないを唱えれば、こういう類のことは一瞬ですんでしまうようにできるわけでしょ」(453頁)
これはニール・スティーヴンスン著、日暮雅道訳『スノウ・クラッシュ 新版』(早川書房、2022年)とも重なる。メタヴァースの中でアバターは出現場所の制約がある。好きな場所に移動することはできない。プログラミングではGOTO文があり、好きな場所にジャンプすることは可能である。現実の物理環境と同じように移動させることはデジタル世界の特性を考えると、わざわざ不便にしているように感じられる。そのような点を現実に合わせることに意味があるだろうか。
『仮想空間計画』ではシミュレーションするために現実の人間の記憶を操作し、仮想空間に閉じ込めた。本人の同意を得ていない実験であり、だましの行為である。真相に気づいた主人公は即刻実験を停止して外に出すことを要求する。至極当然の要求である。
ところが、企業側は実験には巨額の通しをしており、成果も上がっているとして、のらりくらりと要求に応じない。これは腹立たしい。そもそもだまして行ったことが問題である。一日でも早く止めることが正義である。実験の成果という全体最適のために貧乏くじを押し付けることは誤りである。
シミュレーションは想定通りに進まなかった。仮想空間は現実とのギャップがあり、仮想空間を本当の空間と思って生活しているとおかしくなってしまう。現実世界でもゲーム依存症による生活不適合が問題となっている。
仮想空間の中のシステムが作り出したキャラクターは現実の人間の行動を模倣する。今風に言えば機械学習する。このために現実の人間が仮想空間でゲーム依存症のようなおかしな行動するとシステムが作り出したキャラクターもおかしな行動が伝播し、仮想空間そのものが狂ってしまう。このカタストロフィーは、だまされて閉じ込められた主人公側に感情移入しているため、カタルシスがある。