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20/10/5 80
21/7/7 85
道は歩くもの、教えは実行するもの、そうでなければ意味が無い。
瞑想は目的ではなく、手段
悟りへの道は一人一人が自分の足で歩いて行かなければならないのです。
仏陀の正しい努力。悪い心間違った心を起こさない。もし起きたら放棄する。まだ存在していないよい心をつくる。それを維持し、はぐくみ、成熟させ、完成させる。
呼吸に意識を置くことで、今の瞬間と、自分自身に意識を向けることが出来る。
心がさまよっていたら直ぐに呼吸に意識を引き戻す。ただそれだけでいい。
正しいサマーディは、心の陶酔ではない。
心のバランスが取れると幸せになる。無になるのではありません。バランスのとれた心は前向きな心です。
心が落ち着き平静であれば、どんな決断を下しても、それは良い決断になるでしょう。心が平静さを失っていたら、その決断は唯の反応になってしまいます。
人生のパターンを「反応」から「行動」に、変えていくのです。
どんな感覚も、どんな体験も、それ自体に善し悪しはない。心のバランスを維持できれば善し、心の平静さを失ったら悪し、ということなのである。
人に対してやむをえず断固たる行動をとる場合、その前に自分の心が平静かどうか、相手に対する愛情と思いやりがあるかどうかをチェックしなければならない。もしだいじょうぶなら、その行為は必ずよい結果を生む。そうでなければ、無駄になる。
愛情と思いやりの心を持って行動すればまちがいはない。
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ヴィパッサナー瞑想が深まることで体験的にどのようなことが起こり、どのようにして解脱に至るのかが、具体的な表現もちりばめて説得力をもって語られている。瞑想をすすめる上で実に参考になる言葉が多かった。何かが腑に落ちた感じ。なぜ、感覚にサティを続けるのか、感覚の観察が、どうして自己の本質を知ることにつながるのか、得心した。
瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。
興味深かったのは、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘していることだ。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。
私自身が、精神集中は心の抑圧につながる面があるのではないかと、ずっと疑問をもち続けていた。ヴィパッサナー瞑想は抑圧されたものに気付きをもたらす方法だと知って強い共感を抱いていた。 だからゴエンカ氏のこうしう指摘には、やっぱりという感じで共感する。
「真理の正体を見きわめるには、感覚の観察を欠くことができない。‥‥感覚は心とからだの交差点である。‥‥もしも感覚に気づくことがなければ、自己の真実を追求しても不完全で浅薄なものになるだろう。‥‥自己の本質を知り、それに正しく対処するためには、ふだんほとんど感じる取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」(P128)
感覚への気づきが深まれば深まるほど、その変化の激しさに気づくようになり、それが徹底すると、おそらく現実は日常的な意識で捉えているのとは全く別の様相を示しはじめるのだ。瞑想でなぜ感覚に注意を集中する必要があるのか。
「からだの各部に生じているさまざなな感覚を観察していると、あるとき、全身に非常に微細で均一な感覚が起こり、それが生まれては消えてゆくのに気づくようになる。その感覚の誕生と生滅はあまりにも速く、まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように感じるだろう。からだのどの部分に注意を向けても、均一で微細な感覚がものすごいスピードで生まれては消えてゆく。一つの考えが心のなかに浮かぶと、それにともなう感覚がからだにも起こる。その感覚が連続として生まれては消える。いまや、心とからだの見かけの堅固さは粉々に打ち砕かれ、物と、心と、心の形成物の、究極の真理を体得することになる。究極の真理、それは超高速で去来する波動、微粒子の振動、それ以上のなにものでもない。」(P170)
「まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように」という表現は、気の感覚の表現にも似ているが、一切がそう感じられるのだから非常に徹底したものなのだろう。 微粒子が瞬時に生まれては消えるレベルまで感覚を研ぎ澄ませた時、すべてが変化することをま���まざと実感し、それが実感された時、固定化された自我への幻想も消えるのだろう。感覚のサティの先の方にはこういうレベルがあり、そこでは「自我」という幻想にしがみつくことなど、ありえない。感覚へのサティが、どのようにして悟りにつがなるのか、得心がいったのは、この部分を読んでだった。
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人間はあらゆることに対して苦しみや不満を感じるものであるが、その苦しみを感じさせるものは心が作り出す妄想である事、あらゆるものは変わっていくことを実際に体験しようという修法。
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いわゆる瞑想のハウツー本とは違い、むしろ仏教的な生き方、捉え方を啓蒙する良書。特に最後の二章はなんども読み返す。
無常に気づくこと。
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クリパルヨガの先生がこのヴィパッサナー瞑想を京都でされ、良かったと言っていて先生が持ってきてくれた本です。
本には実践でしか感じ得ない部分がありますが、最近思い始めていた事柄(科学知識ではなく自分自身を内面、心で感じること、自己洞察が人間の目的)のまとめのような気がしました。
船乗りと学者の、実践と知識の例え話では、「星の王子様」の計算で忙しい科学者を思い出しました。
・Be Happy!
・生きとし生けるものが幸福でありますように
・自己の内なる世界を心と体じかに感じとらなければ、ほんとうの現実を知ることはできない。
・この世でおよそ「なになに学」と名のつくものを残らず勉強したとしても泳げなければ一巻の終わりです。(船乗りと学者の話)
・人の苦しみをわかる、というのは自分も一緒になって泣くということとは違います。
・苦の原因は、私たち一人一人のなかにある。自分の本当の姿がわかれば、苦の問題の解決方法が見つかるはずである。「汝自身を知れ」、賢者はみなこうさとしている。
・罪の意識を感じたところで、どうにもなりません。マイナスにはなっても良いことはない。
お寺はたくさんあるのに、日本の普段の生活では仏教、ブッダの教えを知ることはほとんどない。が、ここまで続いてきたブッダの教えは、宗教ではないんだと分かりました
(「キリスト教徒はより良いキリスト教徒に...」)。
□ブッダの言葉
・人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そうゆうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、憶測?外見、部分、可能性、あるいは師の意見、そうゆうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。自分が直接「この教えは正しくない、間違っている。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」と悟ったとき、それを捨てればいい。自分が直接「この教えは正しい、間違いがない。この教えを実行すると人々が豊かで幸福になれる」と悟ったとき、それを受け入れ、実践すればいい。
・一人一人が自分自身の島になりなさい、自分の避難場所になりなさい。それ以外に避難場所はない。
・他人の牛ばかり数えている牛飼いのようなもので、求道者が得る人生の喜びを味わうことができない。
・さとりを開いた者は理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅をみきわめているからである。
・苦は、満足を求める執着、自分・自我・自分のイメージに対する執着、自分のもの・意見・信念に対する執着、宗教・儀式への執着のいづれかと関係している。
・人を傷つける行為、人の心のやすらぎと調和を乱す行為が悪い行為。人を助ける行為、人の心のやすらぎと調和を高める行為が良い行為。
・見るときには、ただ見る。聞くときには、ただ聞く。嗅ぐとき、味わうとき、触れるときただ嗅ぎ、味わい、触れる。そして知るときには、ただ知るのです。
・人生の浮き沈みに直面しても、心が動揺することなく、嘆くことも、悪意を抱くこともなく、いつもやすらいでいる。これが最大の幸福である。
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ヴィパッサナー瞑想は瞑想初心者におすすめです。
ゴエンカ師は尊敬していますが、この本だけだと修行を実践できないので、他の実践的な本が必要になります。
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入門編と言うだけあって、凄くわかり易く解説されている。少しでもやってみようと思う気持ちが出てきたら、僅かずつで良いので初めて見ること。
必ず日常生活に良い影響が出ることは間違いない。
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原題は『The Art of Living: Vipassana Meditation: As Taught by S. N. Goenka』(1987年)である。アート・オブ・リビングは通常「生の技法」と訳される。日本語の技はテクニックに近いイメージがあるので「生きる業(わざ)」としてもいいのだが、今度は業(わざ)が業(ごう)につながってしまう。とはいえ「生の芸術」だと直訳すぎるし、「生の嗜(たしな)み」だと控えめすぎる。ここは思い切って「洗練された生き方」でどうだ? 個人的には「流れるように生きる」と受けとめている。
https://sessendo.blogspot.com/2019/12/blog-post_10.html
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非常にわかりやすい文体で、じっくり読むべき本。パーリ語がキーワードとして多数出てくるので、それらを理解するためには何度も繰り返し読むべきだろう。多分、読めば読むほど、心に染み込んでくると思われる。
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●動機
本解説しもん塾で視聴した。
https://www.youtube.com/watch?v=oyQDoP_0RtA
アマゾンの読者レビューには質の高いレビューが揃っていて高評価なのでさらに読みたくなった。
日本ヴィパッサナー協会
https://jp.dhamma.org/ja/
日本ヴィパッサナー協会(一般社団法人)京都ダンマバーヌ
にほんう゛いぱつさなーきようかいきようとだんまばーぬ
〒622-0324 京都府船井郡京丹波町八田岩上奥2-1
0771860765
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ゴエンカ氏を知ったのは、1999年のこと
そこから生活にメディテーションを取り入れるようになりました。
こういう優れた人に出会えるか否かで人生の穏やか度は格段に違うとシミジミ感じます(-_-)良書です。
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以下ネタバレ
ヴィパッサナー:洞察
第一章 真理の探究
真理探究の方法は自己洞察、自己観察の道
教えを基に自分の足で道を切り開き涅槃へとたどり着く
ゴーダマ・シッダッタ=ブッダ ”さとりを開いた人”
ニッバーナ:真理、ダンマ:ブッダの教え
ヴィパッサーナ瞑想は最低10日間の瞑想コース
ニルヴァーナ:涅槃
第二章 出発点
苦の要因は自分自身の中にある
人間すべては5つのプロセスより構成されている
1つはからだ、4つは心のプロセス
もの(Matter)
こころ(mind) 4つのプロセス
意識:ヴィンニャーナ、知覚:サンニャ、感覚:ヴェーダナー、反応:サンカ―ラ
誰かが間違って人を苦しめようとするときは善意をもって平静な状態でやめさせる。
憎しみや怒りで行動すると状況は悪くなるだけ。
世界平和が実現していないのに自分だけ幸せな人はうわべだけの幸福に満足しているだけ。
第3章 苦の直接原因
カルマ; 運命 自分の行為、行動の中に苦があり、苦を止める鍵もある
三種の行為; 行為はからだ、言葉、こころによるもの 心の行為こそ、真のカルマ
純粋な心で話したり行動したりすれば寄り添う影のように幸福がついて離れない
苦の原因;意識で何か起こったという情報を受信、知覚でデータを分類、感覚で前おこった2つのプロセスを知らせる、反応が受動的➡能動的に因果の連鎖を引き起こす
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コロナ禍で出会った本。
頭の中に渦巻く思考を手放し、今を大切にする為の考え方、訓練方法が書かれていた。
身体の感覚に意識を持ち、常に変化、反応の中で冷静に温かくセルフコントロールをおこなう訓練。
流行りのマインドフルネス生活に取り入れてみます‼︎
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分裂して大乗と上座部に分かれる前の、原始仏教の仏陀の悟りの内容を、他に類を見ないほど正確に、簡潔に、わかり易く書いている。タイトルに瞑想入門とあるが、ほとんど「悟り」についての説明。タイトルで「怪しそう」と思って読まないのは非常に勿体無い。
これで2300円は安すぎると思う。
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この本で「瞑想」は近年の脳科学などの分野から研究されているものではなく、インドで伝えられてきた仏教の宗教的な側面から書かれている。
また瞑想の方法だけでなく、苦しみの正体や人間が様々なものに囚われる原因など細かく解いている。
瞑想を人生のライフハックや心身の健康のためという目的で行うなら書店のマインドフルネス関連の書籍やYouTubeの動画を見たほうが良いだろう。
実際に本場の瞑想者の話をもとに書かれているので、読んでみると最近のマインドフルネス関連のネット記事よりもずっと深く瞑想というものを知ることができる。
自分の真の幸せを追求したい、または瞑想のルーツを知りたいという人には一度読んで頂きたい本です。