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ドストエフスキーの【白夜】を読んだ。
実をいうとこれが初ドストエフスキーである。つくづく「名作」と呼ばれる部類の作品を読んでいないな
と実感した次第だ。ドストエフスキー然り、へミングウェイ然り。
これを機に海外の著名で大御所と呼ばれる作品にも目を向けてみようと思った。
さて、【白夜】である。
これは【罪と罰】や【カラマーゾフ兄弟】といった超大作が有名なドストエフスキーの短編小説だ。
訳者あとがきによると、この【白夜】はよほどの愛好家でないと目を通すことのない作品なのだという。
ドストエフスキー初体験にして、いきなりコアな作品を読んでしまったようだ。やはり大道の【罪と罰】
からいくべきだったか。
【罪と罰】は近いうちに必ず読むこととして、読んだからにはこの【白夜】について書きたいと思う。
ペテンブルグに住む貧しいインテリ青年のはかない恋物語。青年は日々の大半を孤独と空想の中で過ごし
ている。いわゆる妄想族である。そんな彼がある夜、ひとりの少女と出会う。とある事情を抱えた少女も
また妄想族なのであるが、そんなふたりが奇妙な恋愛関係に陥る。だが、空想と現実が入り乱れる恋物語
も最終的には厳しい現実に打ち砕かれていくことになる。
はじめは、主人公の行動や少女との会話、恋愛における心理状況などに「なんて幼稚な恋愛なんだ!中学
生レベルではないか!」と笑ってしまった。
途中から「まてよ。ドストエフスキーのこの時代(1848年)のロシアでは、こういう恋愛感情をもつ
ことが当たり前の時代だったのかもしれないな」と思い、最後には「そうか、これは空想家の青年の物語
だ。恋愛と縁のない生活を送ってきた若者がもつだろう心情ということではまさにその通りではないか」
と感心してしまった。
本文中で青年が「二十六歳にもなっていままで女性というものに触ったことすらない」と断言するシーン
がある。つまり、言葉は悪いが、これは妄想癖の激しい二十六歳の童貞男の恋なのだ。
なるほどそういう設定を考えてみるとこれは、なんとも理にかなった内容である。
恋に恋焦がれる。そんな歌があったがまさにその世界だ。人はこれを「ロマンチズム」と呼ぶ。理想の汚
れなき恋愛。叶わぬ初恋に傷心する。誰もが経験するであろう「ロマンチズム」の青春時代だ。
ドストエフスキーはこの「ロマンチズム」を空想家の男女という更に深い設定で描ききった。
純真であるからこその恋愛模様なのだ。いまの時代なら「アキバ系」などという言葉で簡単に片付けられ
てしまうかもしれない。しかし、ドストエフスキーの手にかかればそれは「ロマンチズム」以外のなにも
のでもない。誰にだってそんな時代があったはずだ。簡単に一笑する訳にはいかないのである。
最後にひとつだけ言わせてもらえるならこういった海外作品の多くに思えることは「訳者の文章力は、い
い意��でも悪い意味でも本当に重要であるな」と感じた。
直訳に近い(原文を読めるわけではないから偉そうなことは言えないけど)と、それはやはりなんとなく
読みにくいものである。
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ドストエフスキーが大好きになった。やはり文豪というのはユーモアのセンスも抜群ですね!始まりから第二夜までがとても好きです。小説でゲラゲラ笑うなんて、未だかつてあっただろうか?ストーリーというよりも、ディテールが素晴らしい。
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購入済み
なぜ読もうと思って購入したのかすら忘れてしまったくらい以前から放置していた物を発掘。
気になって読んでしまいました。
ロシア人の認識を間違っていたわたくし。
ロシアはラテンだからと音楽でいわれ、この本を読んでとても納得しました。
中間部の男女二人のやり取りはフランス小説を読んでいるかのようでした。
友人を持たず空想の中に遊ぶ男性と
祖母にピンでつながれた17歳の少女。
その二人の5日間の物語。
ロマンティックでそれでいて現実的。
いろんな意味でおもしろかったです。
Белые ночи by Фёдор Михайлович Достоевский
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ドストエフスキーの恋愛短編。
何故か角川から唯一出ているドストエフスキーの文庫。
ドストの作品にしては感傷的。
なので思想みたいなものは薄い。
よって長編に慣れてしまっていると読後感も薄いかも?
まあこういう女・・・というか恋愛はよくありがち。
「白痴」のキリスト的主人公は二兎を追ったけれども、この物語のヒロインは・・・。
しかも選択に迷いがなかったというのがね(笑)。
聖女なんていないのは分かっているけどさ。
それから主人公の立ち位置みたいなのも何だかぼやけていて。
空想癖を持つ割には意外と実践的なことをやっているし、あまり期待もしていなかったのでは・・・と思いたい。
あまりそういうのが強いとそれこそ最後は白痴になるというオチになりえただろうし。
あと個人的には何故フィアンセがなかなか姿を現さなかったのかという理由が欲しかったかな。
長編の箸休めくらいの感覚で読むお話。
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初めてドストエフスキーの作品を読みました。
今までごつくて難しいイメージがあって手を出しづらかったのですが…これほど感情豊かな文だったのかと驚きました。
ロマンチックだと思いきや、衝撃のラスト。
インテリ青年はまた孤独と空想の日々に戻ってしまうのでしょうかね(´・ω・`)
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ドストエフスキーらしくない抒情的な作品である。
主人公はドスト作品によく出てくるような人物。引き籠りで知人は少なく空想家。その空想家がある夜女性(17歳だから少女と言うべきか)と知り合う。その馴れ初めがあまりにもベタである。女性は橋の欄干に持たれて泣いている。なんだか気になって放って置けなくなった主人公は、声をかけようとするが、その気配に気付いた女性は避けるように立ち去ろうとする。その後を追う主人公。女性が行く先には酒に酔った中年男性、絡まれそうになったところを主人公が助けると言うのが、馴れ初め。
その夜以降から二人は毎夜のように会いお互いの身の上などを語り合う。主人公は自分が空想家であり、ほとんどずっと誰とも話していないことを告白する。女性(ナースチェンカ)には結婚を約束した男性がおり、一年たった今ここに戻ってくるはずなのだが音沙汰がなく、その男性を待っていることが明らかになる。初夜に彼女が自分に恋をしないことを約束させたのはそのためだろう。
帰ってくるはずなのに帰ってこない婚約者。彼女は主人公に不満や愚痴をこぼす。婚約者に捨てられたのだと思い始める。彼女に恋し始めていた主人公はその思いを彼女に告白する。彼女は婚約者に対する未練があるが、それでも良いのかという念を押した上で主人公の思いを受け入れる。両想いになった二人は幸福感に満たされ、街を歩き回る。いつもの語り合いの場であるベンチの近くに来た時一人の男性が通りかかる。婚約者である。声をかけられ、婚約者のもとに駆け出していく、抱きしめあう直前、彼女は戻ってきて主人公にキスをする。それから、主人公に一言も声をかけず、婚約者の手を引いて去って行く。このキスが何とも意味深である。
その後、彼女から手紙が届く。彼女は確かに主人公を愛していたと言う。あの時の言葉に嘘はなく、どうか私を怨まないでくれ、これからも親友でいてくれ、結婚する私たちを祝福してくれと言う。主人公は彼女を怨み報復などするつもりもなく、彼女の幸福を願う。
どうやら主人公はその後15年一人ぼっち孤独に過ごしたらしい。そして、幸福な時間を与えてくれた彼女に感謝している風である。それは最後の一文に如実に表れている。最後の一文「ああ!至上の法悦の完全なひととき!人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?・・・。」
悪い作品では無かったが特別感銘を受けたわけでもない。ドスト作品と意識しなければ、ただの恋愛小説として読める。
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なんのためのお礼です?神様がぼくを送ってくれたことに対するお礼ですか?
こんなにもロシア語は読めないのを悔しく思った事はない。
訳だと、ああ!とか、まぁ!とかナースチェンカ!とか感嘆詞が多すぎて曖昧になってしまう。
主人公の気持ちはよく理解できます。
そして正しい道だったんです。
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非常に短い小説だった。その中で短い恋愛が描かれていた訳だが、簡単に予想できる結末なのだが、物語に感情移入していくうちに、読んでいる自分がその結末を否定して幸福な結末を想像してしまっていた。読み進める中で、主人公の恋は一方的な物となるように思っていた物が、主人公の恋の成就を祈るようになってしまっていた。ナースチェンカは酷い女で、主人公も情けない男だと、読み終えてすぐに感じたけれど、人ってそんな物だろう。そんな風にも感じた。主人公が最後に思う、「至上の法悦の完全なひととき!人生の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか。」とはいったいどういう意味なのだろうか。自分のひとときの恋への慰めでしかないのだろうか。
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何この、火サス的な表紙の絵?
読み終わって再び眺めても、内容を一遍も思い出せないような絵じゃないの。
いや、上手いわよ。およそエアブラシ多用したような、デコトラに描いてあるようなセンスを差し引いても。でもこれ描いた人、絶対内容読んで描いてない。じゃなかったらこれを表紙絵として選んだ人はセンスがなさすぎる。
嘘。言い過ぎました。
はてさて。最近村上春樹に続き、ドストエフスキーを読んでみた。
?両者の繋がりや如何に?
職員室の私の席のとなりのお嬢様先生が
「村上春樹とドストエフスキーが好きです。」
と、飲みの場での私の「どんな作家さんが好きですか。」という質問に答えていたから。
だからって別にそれはわたしがその作家さんを読む理由にするにはまぁ弱すぎますわな。
わたしはその先生に興味があったのだと思う。
村上春樹は分かる。現役であり、色んな人が読んでいるであろう読者の分母が大きいから、話のネタとして会話が広がりやすい。でもドストエフスキー。これを飲みの場で挙げるっていうのは一体どういうことだろうか、と。
わたしが読んだことない、という理由で「誰もがドストエフスキーを読んでいるわけではない。」という認識に直結させてしまうのは、あまりに私の見識が低いであろうことは重々承知であり、だからこそ一冊手にしてみたと言うのもあるんですが、
ドストエフスキーが好きだと飲みの場で(ここがポイントだと思うんですよね。)公言できる人の心理と言うものに何だかひかれた。
だって、飲みの場で好きな作家とか作品とか、そーいうこと聞くって言うのは、何か話を広げてコミュニケーション取ろうとしているって言うのは暗黙の了解としてあるわけです。そこで「ドストエフスキー」を挙げるのは、「誰もがドストエフスキーを読んでいるであろう。」という前提のもと話をしているか、「私はれっきとした文学少女です。」って言うメッセージを伝えたいか、もしくは何にも考えずに言ってしまったかのどれかだと思うんですよ。っていうかこんなに熱く語ってるけど、およそ何にも考えずにその二名を挙げたってのが一番の理由になるであろうってのは分かってますよ。こんなに考えてしかもその作家を読んでしまっているあたいが一番阿呆だってことも!
・・・はぁ。アホくさくなってきた。だから読んだのさ。この一番薄い白夜を。
意外に読みやすかった。これは。言葉と例を尽くして愛を語る人たちを受けつけない感じはありましたが。
でも、カラマーゾフの兄弟だとか、罪と罰とかの大作を読んでいないからでしょうかね。私の中で春樹さんと共存ができていません。若き青年の悩みみたいな感じか?
海外の作家さんで、最近読んだフィッツジェラルドさんは好きだと思ったのだけれど、これはどうだろうね、と言ったところ。
前にもありましたな。人が好きだと言っていたから読んでみた、というのが。
わたしが坂口安吾さんや、夢野久作さんや、阿部公房��んの作品を読んでドキドキするみたいに、人には人の琴線に触れる作品があるのでしょう。
だからってそれが他人にもそう感じると言うわけじゃない。だから、「どんな作家さんが好きですか。」なんてのは、私の愚かな質問だったのでしょう。
でも読書ってさ、胸の内に秘めて、作品に恋するような内向的なものだけじゃなくて、もっと色んな方法で、楽しみや喜びを分かち合えるものであるような外交的なものでもありたいと願いながら、
わたしは人の興味に興味を示すんだと思われます。
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かえるくんの紹介で。
結局、主人公は、また犯罪的な生活に戻っていくしかないのか。それすらもできないのか。
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暇潰しに読んだ本。
長いセリフと毎夜会うという設定が感情の微妙な変化をうまく表している。
ただロシア語の訳が悪いのかなんなのか。セリフが現代とかけ離れすぎているというか現実味がなさすぎて笑える。
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ドストエフスキーの初期の短編作品。夢想家の主人公がやはり夢見る娘と偶然知り合い、逢瀬を繰り返すうちに2人が、というお話。『カラマーゾフ...』や『罪と罰』とは一味違った雰囲気を持つ作品ですが、主人公のモノローグの部分など、大作に通じる片鱗が見受けられます。
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淡い恋物語を描くドストエフスキーって萌えですね。ツンデレですよ。重苦しいイメージあったけど、これで価値観がくるりと転換しました。
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僕が大学を卒業する直前、いろいろ訳があって松葉杖をついていた。そんな僕が神戸三ノ宮の東門街で泥酔して転んだとき、松葉杖のすぐそばにポケットから飛び出した角川文庫クラシックの『白夜』を見つけて僕の友人は闇の深さを感じたらしい。
とんでもない。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に比べればライトノベルズの類と呼んでもいいくらい軽くてナイーブで青臭い小説だ。
今夜は都内に泊まらないといけないので読みかけの分量がちょうどよいこの本を持ってきて、高野馬場あたりで読み終えた。
ヒロインのナースチェンカは正直言ってメンヘラビッチである。主人公が鬱々とした暮らしの中でナースチェンカと邂逅し、惚れてしまったのは仕方ないにしても、それにしても無様な男女模様なのである。はっきり言って交通事故だ。オラこんなの嫌だ。
「いい人防衛ライン」を突破して攻めに転じた主人公の青年を僕は応援したい、が、ダメでもともとの試合に出る潔さが足りなかった。
もっと軽く!もっと軽薄に!!
『どうかあたしをお責めにならないでください、だってあたしはあなたを裏切るような真似はなにひとつしなかったのですもの。あたしはあなたを愛しつづけると申しました。いまでもあなたを愛しております、いえ、愛しているなどというなまやさしいものではありません。ああ!あなたがたお二人を同時に愛することができたならば!ああ、もしあなたがあの人だったならば!』
これがラスト付近でナースチェンカが主人公に出した「詫びの手紙」です。いやぁ、クソ女ですね。このあと、舌の根も乾かないうちに青年のことを「親友」とか「兄」だとか呼んで愛の換骨奪胎を始める始末。
そら青年も「侮辱」という表現を使うよな。
青年は完全にナースチェンカの後出しジャンケンに翻弄された。しかも二回。彼女は青年が自分に気があることを十分に理解して、自分は如何に賭け金を少なくしながら相手がどっぷり勝負にのめり込むかを見極め狡猾なゲームを展開した。
そしてその二股はナースチェンカに奏功した。
酷い話です。
だから僕は青年に言いたい。
「もっと軽く!もっと軽薄に!!」
ただ、『白夜』のストーリーの優れているで点は青年は自分の試合をして、そして負けたこと。僕が軽蔑するのは「脱オタク」をサクセスストーリーとして成就させる『電車男』のような商品だ。エルメスを仕留めたお前、そもそもコンセプトがオタクじゃなくなってるやんけ。
映画『ダメージ』や『ゴーストワールド』のように一本筋を通し切ったあとの虚無感こそ美しい。
そして『ナポレオン・ダイナマイト』がいかにぶっ飛んだヒーローなのか、ドストエフスキーを読んで今更ながらに実感するのである。
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言い回しが不思議なのも途中からきにならなくなって、一所懸命な主人公が報われることを祈りつつ、でもそうはいかないかなぁとハラハラしながら読みました。ナースチェンカかわいい