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諸星大二郎による、伊弉諾・伊弉冉神話と南洋神話をモチーフとした作品。やや詰め込みすぎの感のあった「暗黒神話」に比べて、テーマが絞られている分読みやすい。また、西洋から来たキリスト教宣教師による伝統文化の破壊や、カーゴ・カルトなども描かれ、文明批判的な要素も持つ。
こうした要素のある作品においては往々にして文明人は功利的で悪であり、現地人(いわゆる未開人)は純粋で善であるというステレオタイプな描かれ方がなされる。しかしここでは功利的な現地人も文明人もあり、また純粋な現地人、文明人もいる。ただしそこには単純な善・悪の概念は感じられない。あるとすれば主義の違いであろうか。
日本人を父に、ニューギニア人を母に持つ少年コドワと、彼と腹違いの日本人波子を伊弉諾・伊弉冉になぞらえ、白人の学者ミス・バートン、比較民族学者峰隼人らがからみ、物語は核心へと導かれていく。
周知の通り『隼人』はかつて薩摩地方を中心に住み、大和民族に隷属させられた異民族のひとつである。九州の『峰』と言われて『高天原』をイメージしたのは私だけだろうか。また、隼人文化はオーストロネシア語系文化であると言われる。峰はあるいは自らの源流を辿りたかったのかもしれぬ。
さて、本作は日本神話とニューギニア神話、縄文文化とニューギニア文化とを重ね合わせたところに端を発するのであるが、波子が森のマリアとして祀られるあたりから神話の要素を辿りながら独自の展開を見せる。波子は自らコドワを助けるべく行動し、デマとおばあさん(恐らくハイヌウェレ=オオゲツヒメ)の協力を得る。波子の尽力で再生を果たしたコドワもまた、波子を救うべく地底の神と対峙する。
ふたりは繰り返される神話の輪の最初に立ち返る。そこで波子は伊弉冉のように火によって死なねばならなかった。日本神話では、伊弉諾は妻を失うことで大いなる神、アマテラスとツクヨミ、スサノヲを得るのである。
だがコドワは力強く宣言する。「先祖の二の舞はごめんだ!俺の神話は俺が作る」と。彼らの神話はこの世を離れた楽園で綴られる。あるいは、妻ひとりを死なせて神話を始めることを拒否し、ふたりで死ぬことで新しい神話を綴っているのかも知れぬ。
地底のデマの国に落ちた峯は脱出を計るべく骨の舟に乗って地底湖へとこぎ出す。峯はいっときカウナギ(伊弉諾)の役を演じ、ついにコドワに破れた。いわば「伊弉諾もどき」である。
恐らく彼は地上へ戻ることはないだろう。
ひとり地上に残されたミス・バートンはコドワと波子の幻影を見、峯の手帳を得る。それは誰にも打ち明けることのできぬ、彼女だけが知り得る新しい神話と、神になり損なった男の遺物である。
日本神話に触れたことのあるものからすれば、冒頭の「オンゴロの歌」に伊弉諾・伊弉冉神話を想起し、「オンゴロ」という地名に淤能碁呂島を、カウナギの名に伊弉諾を、ナミコ・ナミテの名に伊弉冉を連想するのは容易であろう。ところが比較民族学者である峯が、物語の最終段階に入ってから「オンゴロ」が「オノゴロ島」であると気づくのは、あまりに愚かに過ぎると思われていささか惜しい。あるいは、この愚かさが彼の滅亡の元凶だったのだろうか…?
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2007年11月19日読了→記事編集。
緻密な絵なので大きい判型が望ましいけど、
全エピソードを収録した完全版だというから買ったのが、この文庫。
ニューギニアの民俗伝承と日本の古代神話を絡めた
牽強付会(笑)伝奇マンガ……なんだけど、
諸星先生の筆にかかると凄い説得力あるなぁ。
健気に逞しく奮闘する波子が猛烈にカワユイ。
ちなみにタイトルは mudmen つまり「泥の人」で、
パプア・ニューギニアの部族の祭において、
全身に泥を塗り、仮面を被って先祖の霊を表現した姿のこと。
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"そんなことは問題じゃない。大事なのは神話の構造的な枠で、内容は自由におきかえが可能なんだ。"
"神話なんて大昔の人間の世界観をうつしたものにすぎないのだから……人は変わる……変われば神話も変わっていく……"
学びたての構造主義や近頃思うことが描かれてて個人的にニヤニヤできた作品。
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なんかすごい。うまく説明できません。
諸星先生の描く女の子は強気でグイグイ話を進めてくれるタイプが大好きなのですが此の本のヒロインは割りと振り回されるキャラです。嫌いじゃないけど・・
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まぁ、安定の諸星大二郎。
カーゴ・カルトにしても、南洋の土人が拝む邪神がメインとしてふんぞり返り、白人のそれが豊穣をもたらす使徒として、ちゃんと書かれる。うむうむ。
他いろいろ、大変素晴らしい。