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たいへん久しぶりに再読しました。
書名の通り日本人に対する宗教入門書。
キリスト教、イスラム教、仏教、儒教を対比しての説明はたいへんに分かりやすいが、それでも仏教の「空」の説明など何度読んでも難解。
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憲法原論に続き、やっと読了した。
良い点などはアマゾンレビューなども参照すれば伺えると思うので疑問を抱いたことについてメモする。
まず、ざっくりと内容に触れると、著者はオウム真理教事件の例を引いて副題の「あなた(日本人)を宗教はどう助けてくれるか」という問いを提起し、「宗教を正しく理解」することから始めようとしている。
そこから宗教のハードな実際を説明し、各宗教を一章ずつ使って解説する。
キリスト教、イスラム教、儒教については流し読み。一番関心のあった仏教について通読すると、著者が仏教の肝心であるとする「法相宗」と解説の手本とした三島由紀夫の「豊饒の海」、中村元の「空の理論」「ミリンダ王の問い」を引き解説して見せる。
法相宗のあり方が元来の仏教的なあり方であるとし、続けて「輪廻転生」および大乗仏教の論理である「空」を説明するのだ。
あまりに簡潔な解説ぶりに目を見張る・・・とまでは行かないぐらいざっくりとした解説である。
そして煩悩から解脱して涅槃に至ることが仏教のさとりであり、「色即是空」がその境地であるとして、「色即是空」に迫ろうとする。それにはたとえ話が有効らしい。法華経でもたとえ話が採用されているとのこと。
各論を終えてまとめとなる第7章にて、日本における宗教を概観して、アノミーが進んでいるために人々は団結することを欲しているため宗教が台頭しているとして、「日本人をどう助けてくれるか」の答えを提示して終わる。
限られたページ数で、この解説ぶりはさすが碩学と言わざるを得ないが、どれを取ってもざっくばらんとしており、そもそも一つの宗教(あるいは宗派)を理解するだけでも一生を費やす場合さえある。経済学者として数学者として社会学者として実績のある著者であるが、宗教にかけては大まかにしか理解できないだろう。それを参考文献を持ってきて要の部分だけ理解して枝葉末節は置いとこうっていう感じである。
全体としてマックスウェーバーの理論や宗教学用語を語句の解説をあまりせずにまた学問を例に当てはめてだだっと説明してしまうのでわかりやすい解説を求めた読者は割と置いてけぼりを食うのではないだろうか。
ブクログにもさっぱりわかってないよ、て感じのレビューもあるし…。
また、仏教だけにしても大元のインド仏教を大事にしているのかと思えば、鎌倉仏教についても触れ(しかもちょっと辛辣だ)、鎌倉仏教を元にカルト宗教を批判している。マトリョーシカのような入れ子の説明をしていながらキリスト教も元々はカルト宗教だったっけね、とぶっちゃけている。
奇蹟についての扱いも最後の方ではお粗末である。さんざん仏教では奇蹟は有り得ないとしていながら日蓮上人の奇蹟は一応ありにしている。
仮にだが、「縁」を元に解説していた「縁って」の論理に従えば、日本の仏教によくある、公正世界仮説におけるような、因果の法則も正当化されるのでは。そしてそれは「奇蹟」に近い功徳や罰にも適用されるのではとか思ったりもできるのでは。
とまあこんな感じで疑問がいくらかある。
概観するには悪くない��、著者にこだわらないならそれぞれの宗教に知りたいなら他の本でも良いと思います。
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この著作の終盤箇所を引用すると、
世相はますます混乱の様相を呈している。
(中略)日本が壊れるどころか、日本人が壊れてきているのだ。
新世紀、事態はさらに悪化するであろう。
ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。
あなたを救うのも宗教、あなた殺すのも宗教である。
ここで、著者は、殊更、宗教の重要性を指摘しています。
この箇所を読むと、「やはり宗教だ!」と肯定的に思ってしまう人もいるかもしれない。
ただ、人口の8割以上が無宗教の日本人からすれば「宗教、、、、かぁ、、、」と、
宗教に対してマイナス寄りの複雑なイメージを持っている人も少なくないと思います。
正確には、「宗教に関する正しい知識」が必要だと、小室博士は言いたいんだと思います。
この著作は、博覧強記かつ宗教社会学にも、かなり精通した著者だから、書けたことです。
それは、「自分の信仰」に関して、著者は一言も語っていないことからも、
伺いしることができます。
その科学的とも言っていい態度は心から尊敬します。
この本は難解な世界宗教(キリスト、イスラム、仏教)の基本となる教義や用語の意味、
背景となる歴史、そして比較分析を、平易な用語を使用して解説しています。
こんな芸当ができる知識人は、滅多にいません。
この著作は00年代の出版され、また著者は既に鬼籍に入られています。
著者の分析した「日本が壊れるどころか、日本人が壊れてきているのだ」は、
18年の日本の現況を見ても「そうだな。。。」と思う方は少なくないかもしれません。
「そう思った」なら、是非、この本を手にとることをおススメします。
この著作の価値は出版されてから8年以上経ちますが、
未だに色褪せていない名著です。
それは、やはり「宗教」に対する少なくない日本人の無知と、
その悪用が、以前よりも、より日本社会にマイナスの影響を与えているからです。
個人にとって宗教が救いか、救いにならないかは、わかりませんが、
宗教の正確な知識は、絶対必須なものといってよいと思います。
それだけ、今の日本は宗教的な危機に直面して、
誰もそれが、宗教的なものであると、わからない、その気味悪さが、
日本社会を覆っているからです。
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宗教が不思議だ。
宗教そのものというより、宗教を信じる、という心の動きが不思議だ。
あまり不思議なので、聖書を創世記から読み直してみたりしたのだが、やっぱりよくわからない。
まあ、そりゃそうで、「なぜ宗教を信じるのか」という問いは、宗教に投げかけるのではなく、宗教を信じている人に投げかけなくちゃならない。でも敬虔な○○教徒の人に、「あんたなぜ○○教なんか信じているの?」と聞いたら喧嘩になりそうな気がする。喧嘩で済めばいいけれど、もっと怖いことになりそうな気もする。聞けない。
「信じる」という心の動きは、ある事象や指示について、自分ではそれを検証、評価せずに受け入れる、という危ない一面を含んでいるが、それ自体はやむを得ない。例えばぼくは、地動説を「信じて」いるが、この目で地球がぐるぐる回っているのを見たわけではない。観測と実証と批判を重んじる科学がそうである、と断じているから、ぼくは地動説を信じているのだ。そういう意味では科学を信じている、と言ってもいいかもしれない。
でもそれは、たとえば死んだ人が生き返った、という話を信じる、というのとは「信じる」の意味が違うように思えるのだ。
ぼくが宗教関係の本を読むのは、この不思議が気になってしょうがないためなのだが、なかなか真正面から答えてくれる本には巡り合わない。
本書は、それぞれの宗教の中身に踏み込んだ本だ。それはそれで大変興味深い。ぼくは旧約聖書を読んでかなりショックを受けたけれど、そのショックはもっともなことであると言われたようでちょっと安心した。仏教は宗教というより哲学の体系なのだといわれたほうがわかりやすいかもしれない。イスラム教も興味深い。
ただ、やっぱり「なぜ宗教を信じるのか」はよくわからなかった。ぼくの彷徨はまだまだ続く。
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知の巨人と言われた小室直樹さんの本です。私のイメージは親戚のおじいちゃんみたいで、泊まりに行った時に笑顔でお話を聞かせてくるという感じで読んでいたので楽しく読めました。
日本の仏教はインド仏教からみるとかなり異質なんだということも分かりました。確かにお経読んだり、戒名付けてお金をもらうのはビジネスだなと。
あと、宗教と訳される「religion」は繰り返し読むという意味だそうです。だから私の宗教は本なのかもしれません。
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変化は変化を生み、それがまた変化を生む。その過程で、原因は結果となり、結果が原因となる。これが仏教の「空」である。つまり、「空」とは有無を超越し、相互依存と同義である。すべては仮のものである
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キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教などの世界的宗教の本質を、日本人がどう解釈してきたのかという点や、それぞれの教義のエッセンス、「そもそも論」を矛盾を含めて細かく説明してくれている。ぼんやりとした理解だけでは世界の方々と議論する際に太刀打ちできないのはわかるが、指摘が細かすぎて重箱の隅を突くかのような部分も。とにかく神を信じ法に適った行動をしていれば、多少悪いことをしても寛大な神によって救われるという面を持つイスラム教。神を信じないものは人間ではないので容赦無く皆殺しにして良いという面を持つキリスト教、大事なのは「法」であり仏も僧侶も二の次という面を持つ仏教など、「神」「仏」「天国や地獄」「するべきこと」をどう位置付けているのかなど、言われてみるとその通りという部分も多く、勉強になりました。
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マックス・ウェーバーは宗教はエトス、行動様式であると説いたが、本書は宗教を通じて世界の行動様式の根を探るものである。
キリスト教、仏教、イスラム教、儒教と眺めて迎える第7章「日本人と宗教」では、そういった各種のエトスから現代に至る日本人の心性に迫るものとなっていてとても勉強になった。
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イスラム教。イエスやムハンマドは神ではない。予言者・人間。コーランの著者はあくまでアッラー。アッラーが天使ガブリエルを通じて、ムハンマドに伝えた。▼イエスは神ではなく人間だが、イエスを神とするコプト教をイスラム教のエジプトは寛大に受け入れた。▼神、天使、教典、予言者、来世、天命を信じなさい。▼信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼をしなさい。▼礼拝。毎日5回、決まった時間にメッカの方向に頭を下げる。金曜日が神聖な日なので、モスクにいって頭を下げる。細かな礼拝の方法はスンナに書いてある。▼ラマダン(イスラム歴9月)の間は、1カ月、太陽が出ている間は何も食べても飲んでもいけない。太陽が沈んだら、何を食べてもよい。▼喜捨=税金(所得の40分の1)は神に対する義務。脱税・節税の発想がない。▼イスラム歴12月に、聖地メッカのカーバ神殿の儀式に参加。一生に最低1回は行うべき。巡礼中は、敵も味方も、人種・社会的地位、関係なく平等。連帯が生まれる。▼法学者ウラマーはいるが、僧侶・聖職者はいない。▼キリスト教は神を信じる以外求めないが、コーランはよいことをせよと繰り返し書いてある。良い行い・悪い行いはシャリーアが決める。良い行いをしたら、慈悲深いアッラーは過去の悪い行いも帳消しにしてくれる。▼正確に勘定して、正確に支払い、正しく儲けるのは良いこと。アッラーは勘定高い。▼欲情の追求は否定しない。良い行いをすれば、あの世で遥かにすごい欲望の追求ができる。▼ジハードで倒れた者は、生きて天国に入ることができる。
キリスト教。神は絶対。神に疑いをもつな。ヨシュア記(旧約聖書)。異教徒は皆殺しにせよ。神の命令ならば、絶対に従わなければならない。人間に意志の自由はなく、神の意志に従うのみ。例)ヨーロッパ人による南米・アフリカでの「異教徒」の虐殺。異教徒は野蛮人であり人間ではない。▼神による無条件・無限の愛アガペーにより救済される(仏教で、愛は愛欲・愛執を意味)。儀礼(サクラメント)・呪術・魔術は不要。信じれば救われる。善行・修行は不要(善行・修行は、後になって修道院が持ち込んだアイデア)。本来、救われるのに信仰のみでよく、儀礼・善行・修行は不要なのに、トマス・アクィナスが、人間の努力や行為が信仰に意味をもつという解釈をした。それを利用して、カトリックは腐敗していった。▼神は有る(在る)。実在論を肯定する。仏教は実在論を否定する。▼神は人格をもつ。褒められたり、称えられると喜ぶ。神を信じない者がいれば、怒って皆殺しにする。▼キリスト教の「神の国」は天国ではなく、この世がそのまま神の国になる。その時、イエスは生身の肉体のまま帰ってくる(再臨)。▼元々のキリスト教に煉獄なんてない。カトリックは煉獄を正式の教義にした。プロテスタントは煉獄を認めない。▼キリスト教では偶像崇拝禁止なので、絵踏はその教義に適っている(笑)。
※ヨハネパウロ2は十字軍による虐殺・侵略を謝罪した。
仏教。地獄・極楽というのは方便であり、存在しない。仏教では涅槃(生まれ変わらない=永遠の死)が最大の祝福だが、キリスト教では永遠の死は最大の罰。
���教。高級官僚に教養を与えるための宗教。▼親が死んだら、何オクターブの声でこういう風に泣け・涙はこのくらいこぼせ。中国では哭き女という商売がある。
日本。日本の浄土宗は内的信仰のみが重要という点でキリスト教に似ている。▼宗教がないから、経済破綻ぐらいで自殺する。▼輪廻転生、十二支、七夕は、ヒンドゥー教・古代インドの宗教から。日本にヒンドゥー教は意外に浸透。
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宗教について、無知なので知ろうと。「武器としての哲学」で紹介されていたので購入。
キリスト教、イスラム教は分かりやすかったが、仏教は分からない。
分かりやすいのだが、語り口が軽いというか、漫談調なので、ほんとかなと思ってみたりする。
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キリスト教では、「異教徒を抹殺しなさい」という神の啓示があり、それを実行した人が「正しい行い」をしたと考えられてる
キリスト教は人間の作った倫理、法などで正義を判断するのは絶対的存在の神に対しておこがましいこと
仏教のメインコンセプトは「空」。有でもあり、無でもある。有でもなく、無でもない。法然が「仏とは何か」と聞いたら「仏などいない」と答えた247
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*****
キリスト教は,「隣人に対する無条件の奉仕」を解く。この教義どおりに,無報酬で,全く見知らぬ人にかぎりなき奉仕をした人は実に多い。これも神の命令であるからだ。
が,無条件にジェノサイドする人も多い。「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が,同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。(p.23)
宗教が,また狂信がなければ,まず恨みや利益のない殺人はしないはずだ。普通の人間であれば,人を殺さずにすめば殺さないほうがベターであると考える。ところが,ドグマや神の命令がある場合,恨みがあろうがなかろうが殺さなくてはならないのだ。殺すことが正義にほかならない。
このことは,カルト教団にしても,キリスト教団にしても,変わりはない。ドグマに従うのが〈宗教の核心〉なのだ。そのドグマが正しかろうが間違っていようが,宗教はドグマに従う。いや,ドグマだから絶対に正しいのである。だから,宗教は恐ろしい。(pp.39-40)
[天地創造の思想も終末論ももたないこと以外に]もっと大事なことは,仏教には〈鏖〉の思想がない。ユダヤ教,キリスト教には,神との契約を破ったら鏖だという考え方がある。神との契約という発想のない仏教には,当然それがない。その仏教に,どうして終末論,ましてや,「ヨハネの黙示録」に示された善と悪との最終戦争であるハルマゲドンの考え方が出てくるというのか。
それにも拘らず,仏教を標榜(掲げる)しながら「終末」だの「ハルマゲドン」だのを連呼する者がいるならば,そんな輩は,宗教以前にもってのほかであるといわねばなるまい。(p.48)
このこと[最後の審判]を厳密に考察してみると,キリスト教でもユダヤ教でも魂の存在を実は否定しているのだということがわかる。キリスト教では霊になるということは,あくまでも仮の姿とらえており,魂自体に価値を感じているわけではない。『旧約聖書』は,人間は霊肉一体であるとしており,魂の解釈は曖昧至極である。
「釈迦の生まれ変わり」と称したり,釈迦の魂が自らに転生したとしている新興宗教の教祖は少なくないが,仏教ではそんなことはありえない。仏教では,悟りをひらいた人はもう生まれ変わらないからだ。生まれ変わるのは業があるから,カルマがあるからである。釈迦のように悟りをひらいた人は,カルマをきれいになくしたわけだから,もはや,六道世界のどこにも生まれ変わらない。故に,社会の生まれ変わりというのは絶対に嘘なのだ!
ついでにいえば,イエス・キリストの生まれ変わり,というのもありえない。イエスは一度十字架の上で死んだ。それから三日の後に復活し,もとの肉体のまま神のもとに行った。そして最後の審判の日に,生身の肉体を持ったイエスがもう一度返ってくるのだから,イエスの生まれ変わりなど,ありうるはずがない。これも絶対にない。
もしそのようなことをいう教祖がいるなら,これも全くのデタラメ。自らの宗教的無知を喧伝しているようなものだ。(pp.50-51)
単なる信仰によってだけで宗教が成立する。これがキリスト教の根本である。だから神の前で義し��とされるために,こういう行いが必要だとか,ああいう行いが必要だとかいう,行動[秘蹟,式典,儀式など]を求めているものは清書ではないと[ルターやカルヴァンは]断じたのである。(p.58)
驚くべきことはここにある。すなわち,キリスト教においては永遠の死とは最大の罰であるのに対し,仏教においては永遠の死が最大の祝福の状態である。救済である。その意味でキリスト教の救済と仏教の救済では全く正反対なのだ。
仏教において悟りに入る,涅槃に入るというのはものすごく難しく,膨大な時間がかかる。それだけ苦心して,長い時間もかけて,やっと悟りをひらいたと思ったら,もはや永遠の死がやってくる。勿論,永遠の死という言葉を使うわけではないが,状態は何ら変わらない。だからあくまでも生きたいと思ったら,どこかで罪作りをしなければならない。俗人にとって理想的なことは,適当に修行して,適当にいいことして,ちょっとだけ罪を作っておくことではないか。完全に悟りをひらいて涅槃に入ってしまったら,永遠に,地獄にすら生まれてこないし,天上にも人間にも生まれてこないわけなのだから。
宗教を比較して考察すると,思いもしないことに目が向くものである。(pp.66-67)
根本的な感じ方からいうと,日本にはまず人間が先にありき。そして,人間の役に立つ神様,つまり御利益を授けてくれる神様がよい神様,役に立たない神様は悪い神様なのである。
ところが,キリスト教,ユダヤ教,イスラム教などの啓典宗教においては,まず初めに神が厳然として,ある。そして神は天と地の間にあるすべてのものを創造し,すべての法則も是非善悪も創造した。勿論,すべての人間は神様がつくりたもうた。つまり,人間は神の被造物であり,生かそうとも殺そうとも神の意志のまま。これはパウロに言わせると,壺造りと壺のような関係ということだ。気に入らないとなれば,叩き割ってしまっても誰も文句などいえない。(p.106)
イスラム教徒がキリスト教徒の為政者(政治権力者)に発見されたが最後,このうえなく残酷なやり方で殺される。しかも,不幸なことに,イスラム教徒を貫くためには,外部的行動で儀礼を行うことが必要である。いつ何時,声をあげて……と決まっており,これを行わねば信仰たりえない。礼拝をしているところを発見されたら万事休す。食物規制一つとってみても,あいつは絶対に豚を食わないなどと目を付けられれば,これはあやしいとイスラム教徒の嫌疑がかけられる。
しかし,行動が問われないキリスト教徒ならば,隠れキリシタンで通せるのである。
日本人の「キリシタン・バテレン」は,壮烈きわまりない殉教で世界の人々を感嘆させたが,キリスト教の教義の理解が十分であったならば,用意に,隠したままで押し通せたはずだ。
踏み絵に使う板なぞ,何が画いてあろうとも被造物にすぎない。いや,偶像(それが何の偶像であっても)崇拝は厳禁されているではないか。心の中では,私は偶像崇拝は拒否しますと念じながら,踏み絵の板をエイヤと踏みにじっても何ら信仰に陰りはない。それどころか,偶像崇拝禁止の教義に適っているとさえいえるのである。(pp.118-119)