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世界内存在 『存在と時間』における日常性の解釈学 みんなのレビュー
- ヒューバート・L.ドレイファス (著), 門脇 俊介 (監訳), 榊原 哲也 (ほか訳)
- 税込価格:4,400円(40pt)
- 出版社:産業図書
- 発行年月:2000.9
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紙の本
アメリカの著名なハイデガー研究者による、ハイデガーの主著『存在と時間』の詳細な解読の試み。
2000/11/15 18:15
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:宇波彰 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書はアメリカのハイデガー研究者ヒューバート・ドレイファスによる『存在と時間』前半の解読である。ドレイファスによれば、「私と私が住みつく当のものとのあいだの関係は、主観・客観関係というモデルでは、了解することができない」ものであり、「現存在は、世界の内では<落ち着かない>」。「落ち着かない」という意味のドイツ語unheimlich(ウンハイムリッヒ)こそ、ハイデガーの『存在と時間』のキーワードである。
ハイデガーは人間を「世界内存在」として規定した。世界の中に存在する人間は「現存在」と呼ばれるが、この現存在にとって、世界は無規定で、よく理解でないものであり、そこでは「落ち着かない」のである。この「ウンハイムリッヒ」というドイツ語は、「不気味な」という意味でもある。つまり、世界は主体にとって「不気味なもの」として迫ってくる。1920年代から1930年代の初頭にかけてのヨーロッパは、この「不気味なもの」の世界であった。それはほぼ同時代のムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)やフリッツ・ラングの「M」(1931)の世界と共通している。1927年に刊行されたハイデガーの『存在と時間』もまたこの時代の所産として読まれなければならない。
19世紀末と20世紀末とがしばしば比較されるが、1920年代と現代の比較の方が意味があるとは考えれないだろうか。最近になって、大澤真幸の『不気味なものの政治学』、アンソニー・ヴィドラーの『不気味な建築』などが刊行され、「吸血鬼ノスフェラトゥ」の上映会が企画されたりするのは、現代という時代の「不気味なもの」への関心の高まりを示すものである。岩波文庫、ちくま学芸文庫の『存在と時間』が、かなり売れていることは、それらの奥付に示されている刷り数を見ればわかるが、ハイデガーにひとびとが注目している証拠である。「不気味なもの」という概念が、フロイトとともにハイデガーによっても重視されていたことは、特に注目に値する。
「20世紀後半のアメリカ社会ほど、ハイデガーの哲学に不似合いな場所はない」と訳者の門脇俊介は書いているが、アメリカでもハイデガーに対する関心が高まりつつあることは、1991年の本書の刊行のあと、1998年にはハーマン・フィリプシーの『ハイデガーの存在の哲学』が、2000年には「ドレイファス教授記念論文集」として、二巻から成る『ハイデガー論集』が刊行されたことからも推測できる。現代という「不気味な」時代を理解するためには、ハイデガーの『存在と時間』に戻って考える必要がある。そのときにこの『世界内存在』は、有効な案内になるであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/明治学院大学教授 2000.11.16)
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