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ボルヘスの「神曲」講義 みんなのレビュー

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紙の本

幸福な読書案内

2008/02/14 11:51

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る

ちょうどダンテを再読しているところで読んだので(というか再読の参考になるかと表読んだのだが)これはものすごく面白かった。全体が九つのエッセーにわかれた、というあたりからいかにもなエッセー集で、まず「序章」で、神曲の全体の構造と、著者であるダンテ自身が物語の内部に登場するという技法の持つ意味が語られる。曰く、神の判断を先取りするにあたって、不敬にならないように物語の中で自分自身の判断と神のそれが異なるのを示す、というのである。他にも、まさに書きつつある自己が書かれる自己である、という円環構造は、ボルヘスにはおなじみのものだ。続く「第四の高貴な城」では、ボルヘスお気に入りの「ヴォテック」の《火の城砦》のシーンにおいてはじめて現れた陰惨な光景と違い、ダンテの地獄は陰惨な出来事が起こる場所、すなわち牢獄の観念の形象であると説いたかつての自分の文章をひき、それからしかし神曲に、その冒頭部で感じられる「恐怖」の感覚について分析し、ヨーロッパ文学の「不気味なもの」について、そして叙述の「夢の方法」について語る。「ウゴリーノをめぐる贋の問題」では、作品が「書かれた言葉」であり、曖昧であって、作者にとってそのような言葉の曖昧さ、両義性こそが作品の意味にほかならないとされる。「オデュッセウス最後の旅」では、神曲に登場するオデュッセウスの姿に、作者ダンテ自身の影を見、そしてテニソンの詩編「ユリシーズ」や『白鯨』のエイハブ船長の造型にその深い反響を見る。「慈悲深い死刑執行人」では、フランチェスカに与えられる深い情から、あるいはスピノザ的な自由意志の否定と慈悲の自由の両立を導き出す。そして「ダンテとアングロサクソンの幻視者たち」では、イギリス教会史を著したベータの著述と神曲の細部の不思議な照応を見る。「「練獄篇」第一歌十三行」は、ごく短い隠喩論である。

「あらゆる抽象語と同じく、隠喩metaforaという言葉も一つの隠喩である。というのも、ギリシャ語では「移すこと」を意味しているからだ。隠喩は一般に二つの明辞からなり、瞬間的に一方が他方に転化する。」

アエイネース、バイロン、ブラウニングなどが例に出される。ゴンゴラの次の作品についての例などはとても面白い。

「一年のうちの花咲く季節のこと。
 偽りの姿をしたエウロペの略奪者、
 すなわち半月を額の武器とし、
 太陽のすべての光線を体毛とした
 天の輝ける誉れが、
 サファイアの野で星を食んでいる。」

これが注釈によるとこのように解される。

「フェニキアの王女エウロペに恋したゼウスは、牡牛に姿を変えて彼女を略奪する。ゆえに二行目の「エウロペの略奪者」とは、牡牛の姿をしたゼウスである。しかしこの牡牛は「星を食んでいる」(六行目)ので、空にいなくては理屈が合わず、牡牛座であることがわかる。「サファイアの野」は、青い空の隠喩なのであった。さらにこの牡牛は、「太陽のすべての光線を体毛とし」(四行目)ている。黄道十二宮をひと月にひとつづつ移動する太陽が牡牛座の宮に入るのは、四月二十一日から五月二十一日までの間である。結局のところ、この壮麗な六行が内容として伝えているのは、単に「季節は春であった」ということに過ぎない。」

ほとんど暗号解読に近いが、まあ、ヨーロッパのある種の時代の詩はみんなこんな感じである。
さらに「スィーモルグと鷲」では、やっぱりボルヘスお気に入りのイスラムの詩「鳥の言葉」を引き、複数のものによって一つのものが表現され、それらは複数のままで一つである、というような表現が示される。「夢の中の出会い」では、神曲の中に描かれるベアトリーチェとの出会いに、ダンテの人生におけるその別れの反響を読む。そしてさらに「ベアトリーチェ最後の微笑」で、その最後にも同じものを読み取る。ここの部分の哀切さは素晴らしい。以上、簡単に全体を振り返ってみたが、ボルヘスは一貫して幸福な読者として振る舞い、けっして批評家にならない。この本の素晴らしさはそこにある。おそらく、人生の不満や現実の不備を埋め合わせるように読むのが批評家の読書だとしたら、幸福な読者は単にそれらをやり過ごすために読むのである。本を読んで得るものは時間(が過ぎ去ったという感覚)の他に何もない、贅沢な暇つぶしこそが幸福な読書なのだ。

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紙の本

「文学が達成した最高の書物」としての『神曲』について、ボルヘスが独創的な解釈を提示する論集。

2001/10/02 22:16

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:宇波彰 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『神曲』は異様な物語である。ボルヘスは、『神曲』の世界について、次のように書いている。「『神曲』の悲痛な王国は悲惨なところではない。悲惨な出来事が起こるところなのだ。」ボルヘスにとって、『神曲』は「不気味な」世界である。ボルヘスが注目するのは、『神曲』のなかでも特に不気味なところであるように思われるのであり、たとえばそれは、オデュッセウスがディオメーデスとともに「欺瞞の徒を罰するために設けてある圏谷(たに)の荒涼とした底地」で、「先の二つに分かれた同じ炎の中で際限なく焼かれている」情景である。(そこに添えられてあるウィリアム・ブレイクの版画も効果的である。)ボルヘスはこのように『神曲』のなかの強烈な場面を取り出して、自分の解釈を示していく。
 『神曲』はボルヘスにとって、「文学が達成した最高の書物」であるが、そのなかでも「最も哀切な詩句」はベアトリーチェのことを歌った「天国篇第31歌」にあるとする。その詩句を論じた「ベアトリーチェの最後の微笑」は、訳者のことばを借りるならば、「本書の絶頂を形づくる」部分である。この部分に限らず、ボルヘスは『神曲』を論じるに当たって、従来のダンテ論をつぶさに検討して、その批判を行い、自分の解釈を提示している。ボルヘスの作品自体が、世界文学を凝縮したように感じている読者も多いであろうが、この『神曲』論もまた、クローチェ、モミリアーノなどをはじめとするいままでの数多くのダンテ論を踏まえて書かれたものである。
 したがって本書は、ボルヘスの作品を愛してきた読者にとっては、限りないボルヘス的な魅力を備えた著作である。竹村文彦の翻訳も、ブレイクの版画を添えた造本もこの書物の魅力を増幅させている。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.10.03)

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