紙の本
日本人も国民としての誇りを
2004/04/16 19:43
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:美以仁 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は日本に留学経験のあるの台湾人女性。日本統治時代の台湾のことを、口伝えでしか知らない世代です。彼女は長らく自分は何者なのか悩み続けました。「あなたは何人ですか?」と聞かれた時、答えられなかったといいます。蒋介石による国民党政治が続いていた台湾では独立した国家という物が無く、非統治国民は自らのアイデンティティーを失いかけていました。「走了犬来了豚(犬が去って豚が来た)」という言葉の示す通り、台湾人の中には日本統治時代のことを懐かしむお年寄りが多いそうです。著者はその考えに大きく影響を受け、台湾人が本気で恋をした日本で働く決意をしました。
本書は留学を決意してからの彼女のエピソードに始まり、日本ではあまり知られてない台湾の歴史、また台湾人の愛国心についてが綴られています。
祖国を離れて始めて堂々と「自分は台湾人です。」と言えるようになった著者。このことを聞いて、私は日本人がいかにアイデンティティーを意識して生活していないかを思い知らされました。今後の日台関係をより良い物にしていくためにも、日本人も「自分は日本人である」と言えることにもっと誇りを持つべきだと思います。
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以下、概要。
○現在、台湾に住んでいる人々は「台湾人」と呼ばれている。
しかし、台湾人には、「本省人」「外省人」「先住民」がいる。
本省人は16世紀に商売の目的で中国大陸から台湾に移り住んだ人たち。人口の88%を占める。
外省人は、第二次世界大戦後、中国の共産党に敗れて台湾に撤退してきた国民党と一緒にやってきた人たち。人口の10%。
先住民というのは、本省人や、外省人がやってくる前にすでに住んでいたマレー系の民族。人口の2%。
○歴史
中国大陸から逃げてきた国民党(外省人)が台湾から撤退した日本政府から無条件に台湾政権を受け継いだ。
そこで国民党は台湾の住民を自分の政権に従わせるために、独裁政権を強行。
本省人はもちろんこれに反対した。なぜなら、彼らは台湾を建設し発展させようとするよりも、台湾を中国大陸へ戻る単なる基地として利用していたから。
そしてさまざまな暴動がおき、
蒋介石の国民党政府は台湾へ軍隊を派遣し、1949年に台湾住民虐殺を開始。
その数、28,000人にもなる。(二・二八事件)
○台湾人はショッピング好き。ハワイが日本人にとって海外旅行の定番であるように、日本は台湾人にとってのハワイ。
気軽に行けるし、ディズニーランドやハウステンボスのような遊べるスポットが多く、四季の風情、そしてなんと言っても、日本に対する憧れの気持ちも強い。
さらに台湾人の「メイド・イン・ジャパン」信仰も手伝って、かなりの日本製品を購入していく。
○現在、親日家でもあり、知日家である台湾人はもう60代も後半を過ぎて、すでに第一線から退きつつあり、これから台湾を担うのは「反日教育」を受けてきた世代になる。
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新視点かどうかはわからないが、日本に来た市井の台湾人が日本や台湾について、日本人や台湾人についてどう感じているかといった趣きの本。非常にざっくりと書かれているのでマニア?にはちょっと物足りないが、60年代半ばに台湾に生まれた著者が本省人でありながら中国アイデンティティを形成していった流れが教育にあったことがわかって興味深い。ただまさにこの本の文庫版が出た頃に台湾に居り、台湾人と日常的に接していた身としては、ここまでの複雑さを感じていなかった(が、自分自身彼らの歴史も何も知らなかったし、日常的には英語による会話だった)。台湾人の良さというのは、ある意味これだけ複雑な歴史を持ちながら、明るく過ごしているところなのかもしれない。
P.66
ほんの少し前まで、台湾の教科書には台湾の歴史が書かれていませんでした。もちろん、台湾の歴史の一部である日本の植民地時代の歴史も載っていませんでした。ちなみに、一九九六年の九月から教科書が大幅に改訂され、台湾の歴史が取り入れられるようになりました。
中国の歴史を中心に書かれている教科書によって、好き嫌いに関係なく、私たちは中国の歴史イコール台湾の歴史だとずっと思い込んできました。中国の歴史といっても、あくまで国民党が中国大陸から撤退する前の古い歴史です。つまり、政府は自分の都合で私たちが自分たちの歴史を知る権利を奪ったのです。
台湾ではその教育を「国民党教育」「国民党政治教育」と名づけています。(中略)モンゴルは一九二一年に中国から独立、六一年には国連にも加盟し、現在一二〇ヶ国以上と外交関係を持っていますが、にもかかわらず、九六年まで台湾の中華民国全図にはモンゴルがまだ含まれていました。その地図を信じて疑わなかった私は、日本に来てから、「モンゴルは中国の一部か、独立国か」という問題で日本の友達と口論になりました。それを思い出すたび、なんというひどい教育だとつくづく感じます。
また、当時教科書に書かれていたことを疑うことすら知らなかった私にとって、中国共産党は憎い存在であったし、そして日本人に対してもけっしてよい印象はありあせんでした。(中略)現在四十代以下の台湾人なら、きっと私と同じように感じているに違いありません。
ところで、学校で台湾の歴史を聞けないのなら、その事実を知っている両親や親戚、年配者からその情報を知ることができるのではないかと、疑問を持たれた人もいるでしょう。しかし残念ながら、私は彼らからその時代のことを一度も教えてもらったことがありませんでした。ただ、父や近所の叔父さんたちが集まると、なぜかすぐ国民党の悪口で盛り上がっていました。そして両親や先輩たちが私が知らない言葉で呼びあっていたことも不思議に思っていました。たとえば、陳さん、謝さん、李さんなどという日本語読みの名前です。学校で教えられたことと、父をはじめとする周りの年配者たちの行動の間のギャップがあまりに大きいので、どうしても納得できず何回か両親に理由を尋ねたことがありました。しかし、いつも子どもは勉強だけに集中しなさいと怒られたり、ごまかされたりしました。
P.73
私たち台湾人は「身份証」という身分証明書を持つのを義務付けられています。数年前に李登輝総統が「省籍」の対立感情を解消するために、その「身份証」の上から「籍貫」という項目を削除するまでは、それを基準にして「外省人」か「本省人」かを判断していました。
つまり、先祖が戦前台湾に移り住んだという人なら「台湾省」と書かれ、戦後台湾にやってきた人なら大陸の省が記入されています。
P.76
私は閩南人という本省人の家庭に生まれました。その環境の中でごく自然に、家族たちが日常に浸かっている台湾語を身につけました。そして、すでに学校に通っていた兄弟たちは、家では北京語と台湾語を交えて会話していました。というのも、テレビで放映されていた好きなアニメが北京語だったので、学校に上がる前にもうすでに北京後の力が身についていたのです。
だから、学校に入り先生に「学校では台湾語を使ってはいけない」といわれても、あまり違和感を感じませんでした。(中略)あまりにも優等生を目指しすぎたのでしょうか、私は見事に「反攻大陸」高く掲げていた国民老教育にはまりました。それを物語るかのように、私はどんな作文の課題を与えられてもテーマに構わず、本文の中あるいは結論は必ずといっていいほど、「反攻大陸、解救大陸同胞」といった言葉を書いていました。もちろん、作戦通りいつも高い点数をもらいました。
P.89
日本人が台湾に入ってくる前まで、それまで台湾に住んでいた先住民や大陸から移民してきた台湾人、客家人の間には共通する言葉がありませんでした。「皇民化」政策で強制的に教え込まれた日本語は意外にも、人々の心をつなぐという役割を果たしたのです。
日本が去った後、台湾に逃げ込んだ蒋介石は、自分でも上手に話せない北京後を持ち込んできました。彼と一緒についてきた大陸各省の人々も各自の言葉を持ち込みました。
かつて周恩来は「蒋介石が残した唯一の功績は、台湾住民に中国語(北京後)を教えたことだ」といいました。
P.95
アメリカ、日本などのマスコミは、李登輝のリーダーシップや、中国の妨害に負けずに次から次へと達成した「実務外交」を大いに評価しています。特に、一九九六年三月に中国のミサイル演習の中で行われた初の総統民選によって、海外における台湾や李登輝の知名度はずいぶん上がりました。(中略)しかし台湾では逆に「李登輝のやり方は強引すぎる」とか「いったことが実現されない」など、批判の声が多いようです。
海外で評価されているカリスマ性や民主化政策も、台湾ではワンマンだとか、ますます悪くなる台湾の治安の元凶ではないだろうかという非難の声が日に日に増しています。
P.151
日本に来て初めて十月一日が中国の建国記念日(国慶節)だと知りました。そして中国の友人から「台湾の人々はバナナの皮まで食べると聞いたが、本当か?」と質問され、ビックリしたことがありました。
子供の頃からの教育によって私はずっと「台湾の『双十節』(十月十日)こそ、中国唯一の建国記念日」、「大陸の人々はバナナの皮しか食べることができない」とばかり思い込んできたからです。
P.176
かつて台湾・中国を飛び回ってい��台湾ビジネスマンは、大陸の簡体字を浸かって中国に対するイメージをこう説明しています。
「親に会う(見)ことができないので時も亲にかわり、愛には心がなく爱となり、出産でも産めなく产の字となり、トイレの開閉には門がなくて开关と書かれている」