紙の本
詩人の心を解体
2001/12/19 06:09
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐久間 - この投稿者のレビュー一覧を見る
クンデラの小説の中で一番好きな作品です。
クンデラは小説を書き始めるまでは詩を書いていたようですが、本当に真剣に詩作に打ち込んだ経験があるからこそ、詩人の心が書けたのだろうと思いました。私は詩を書かないので詩を書きたいという欲求はどんなものか分かりません。それゆえに、この作品を読むまで詩人に対して少し古臭い感じの純粋で気高いイメージを勝手に持っていました。ですが、クンデラの描く詩人は、憐れなほど卑小で不純で人間臭く身近な存在でした。自分が一度本気で取り組んでいた詩作をこんなに滑稽に書けるなんて、私はこの作品で、クンデラの凄みを最も強く感じました。
誰がどう読んでも楽しめる小説だと思います。ぜひご一読ください。
紙の本
クンデラの小説家としての特質を映し出す、詩人が主人公の反‐教養小説
2001/08/29 15:16
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:赤塚若樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ミラン・クンデラは矛盾と偏見の作家である、ということから話をはじめることにしよう。もしこの見方が正しいなら、『生は彼方に』はもっともクンデラらしい作品であり、その特徴がこのうえなく顕著にあらわれた小説であるといえるだろう。もっとも、50年以上にわたる文学者としての生活にあって発表した単独著書の数が、ジャンルを問わずすべてかぞえてみても20にも満たない、おそらく寡作といってよいだろうこの作家について、そのような表現をもちいることができるとすればの話だが。
この作品にかんしてクンデラの矛盾と偏見を話題にするには、やはりチェコの状況とそこから生まれる文学についてふれないわけにはいかない。話をわかりやすくするために、かなり単純化していえば、チェコ文学には20世紀後半になるまで、散文フィクションの占める場所がほとんどなく、そこで書かれるべきものは、なによりもまず詩だった。クンデラに多大な影響をあたえたモダニズム芸術にもこれはあてはまっており、その観点からすると、彼が詩人として文学活動をスタートさせたのは至極当然のことだったといえるだろう。モダニズム芸術といえば、いわゆるアヴァンギャルドだが、そこでは当時の政治的理想を反映するように「革命」が謳われ、それによって実現される「未来」が信じられていた。
クンデラがそろそろ20歳を迎えようとするころ、この理想を実現すべく共産主義政権が樹立され、多くの国民から熱狂と興奮をもって受け入れられたが、その「陶酔」のなかで訪れるのは「政治裁判、迫害、禁書、裁判による暗殺の年月」だった。この時代を「盲目的に賞揚した抒情詩人たち」の姿をみて、「革命」がもたらす「陶酔」と「詩」がもたらす「高揚」とが同質のものであることを知ったクンデラは、その時代を「抒情の時代」と呼び、さらには、「詩人たちはその時代、死刑執行人たちと一緒に君臨していた」という考え方をするようにもなる。クンデラ自身が認めるように、これは「偏見」にすぎないが、いろいろなところで話題にされているように、このときのショックは相当なものだったらしく、それが詩から離れていくきっかけになったのは確からしい。
ところがその経歴をみると、興味深いことに、詩にたずさわる仕事から完全に手を引くのは、その後15年以上も経ってからのことなのだ。つまり、「抒情の時代」の「陶酔」と「高揚」の恐ろしさにショックを受けながらも、クンデラは本当は15年以上も詩と訣別することができなかったということだ。ここに一種の「矛盾」をみても決して不当ではないだろう。
断わっておかなければならないのは、ここでいわれる「偏見」や「矛盾」が、かならずしも批判のみを意図してもちいている言葉ではないという点だ。それはまた作品の出発点としてきわめて重要な役割を果たす要素をも言い表わしていると考えてよい。つまるところ、芸術家とはみずからの「偏見」や「矛盾」を作品に昇華させていく者たちのことだからであり、とすれば、詩を信じ、革命を信じたために、結局は自己欺瞞のなかで夭折する詩人ヤロミルを主人公とする、この『生は彼方に』と題された反‐教養小説は、上記のような「偏見」と「矛盾」から生まれてきた小説以外のなにものでもないといえるだろう。あるいはむしろ、クンデラがその「偏見」や「矛盾」と対峙することから生まれてきた小説というべきか。「抒情の時代」にこのうえなく冷徹で批判的なまなざしを注ぎ、その「現実」を浮き彫りにするこの作品には、それゆえに、クンデラの小説家としての特質もまたこれ以上ないくらい明確なかたちを取ってあらわれているのではないだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.08.30)
投稿元:
レビューを見る
時代に翻弄され、自身の自尊心に翻弄され、周囲の賛美中傷に翻弄され、もがきながら生き続けた詩人の話。
クンデラの生きたチェコを舞台に社会主義批判を根底に置き、抒情詩を軸に愛、生、死について、音楽的な技法を用いて語りあげた凄まじい作品だった。
主人公は基本偏執病臭いんだけど、女の子との初デートの時にテントがバレるのを恐れて息子を太ももに紐で縛り付けようかなんて考えたり、女とセックス出来そうな時に今日の下着はだっせぇ股引だから恥ずかしくて無理!とか言って逃げ出したり、とどこか可愛らしい一面もあり笑ってしまった。
投稿元:
レビューを見る
今日、というかさっきからミラン・クンデラの「生は彼方に」を読み始めました。クンデラの自伝的小説という。
なんてか、表現している言葉と実際の場面が微妙にずれていて面白い。例えば、冒頭の「どこで」という問いに対して、答えが「(どこそこの)午後」と時間で返している、とか。
クンデラ自身的な人物ヤロミールの子供時代。彼を溺愛する母親とともに田舎の別荘へ。小川のほとりにたたずみ「この小川は自分が眼を閉じている時も流れているのだろうか?」とか「この小川はどこから長い道のりを経て流れているのかな」などと、ヤロミールは想像している。その横にいる母親の方は、また別のことを考えている。・・・小川は親から子への血と記憶のつながりでもあるのではないか?眼を閉じる前が母親、後が子供。違う人物ではあるけれど、同じ流れ。
「ハヤカワepi文庫」読むの初めて。(2009 05/26)
二つの夢の間にある手
ミラン・クンデラの「生は彼方に」第二部。
ここでは名前まで変わって、(たぶん)ヤロミールの青年になっていく頃の主要な3つの出来事を、彼の見る夢の側からみていく部なのだろう。そんな3つの夢は変幻自在に他の夢に入り込んだり変容したり、彼は今見ている夢から別の夢へ目覚める。3つの主題からなっている一つの楽章のようなこの部、その主題間の移行部。
いいなあ。って思うよ(笑)。
ちなみに「生は彼方に」というタイトルの言葉が、この第二部の中に出てきます。はい。(2009 05/30)
「生は彼方に」の「」の付け方
「生は彼方に」も第三部。今日はその前半部分を読みました。この第三部は今までより多少長く、現時点で作品全体の半分弱になります。
さて、標題ですが、この第三部に限ったことではないかもしれませんが、「」の付け方が意識的に通常と異なっています。一人の人間がしゃべっている場合は通常と同じなのですが、会話・対話の場合は—例えばヤロミールと母親との対話、ヤロミールと伯父とのチェコの共産党によるクーデタについての対立の場面—一人一人の発言で「」が分かれるのではなく、対話一セットで「」が成立しています。だから、「」の中に2人の発言が併存しています。これは対話というものは本来分割できるものではなく、それが産まれた状況により変容する、というクンデラの考え方からきている、のかもしれません。もっと言えば、個人の全く独立した考えというのをクンデラは夢物語だと思っているのかもしれません。 (2009 05/31)
インテルメッツォ
「生は彼方に」は第4部。ちょうど小説全体の中間にあたり、クンデラが好む音楽用語で言うと間奏曲といった感じ。その為かどうか、奇数部がヤロミールの話、偶数部がヤロミールの分身の話、という前提が少し弛んで両方の要素が見られます。んで、間奏曲の間に舞台はヤロミールの青年期から大人に。最後に落ち着く所が食品売場の娘のアパートの一室。そこで青年は大人になったとさ(笑)。
1949年のプラハは、社会主義革命が制度化されてくる時代にあたり、この第4部はその時代を教えてくれています。(2009 06/��2)
詩人は踊り、小説家は観察する
「生は彼方に」の今日から第5部。チェコでの社会主義革命では詩が民衆を引っ張る役割を果たした。そうした詩を書く人々は韻律のある詩を書き、読み手は読み、お互い踊る。踊っている人はその踊りを非難できない、と語り手は言っています。この頃のヤロミールもそうした踊り手の一人。
一方クンデラには、小説家として「非難」する決意があります。解説に取り上げられている「裏切られた遺言」からの文章がそれを明白に物語っています。「抒情主義への訣別」という。(2009 06/03)
小説は一つの猿股から作られる
と、クンデラは考えている・・・
なあんて、思うような「生は彼方に」の第五部中盤。
この小説には、というかクンデラの特徴なのか、登場人物たちがある配置になった時に語り手というか作者というかがその配置の「解説」を読者にむけて批判的に語り出すところが多い。今日読んだところでは、ヤロミールが今は警官となっている昔の旧友とビヤホールで話す場面や、詩人の会の後のヤロミールと老詩人と雑誌の編集顧問と若い女性映画監督の4人になったところなど。んで、この後者のところで、ヤロミールと若い女性映画監督の視線が次の展開を見せるのか(このまま行けば叙情詩的になる)、と読者が思ったところで、カール・マルクスの口調を借りて作者が、続いて猿股が(笑)やってくる。クンデラが過度に叙情的になるのを批判している、その批判が小説そのものだと考えているとすれば、この猿股こそが小説を作り出している核となるものといえよう。
今日はこの場面で読み終えることにしますが、この後のヤロミールの現恋人へのひねくれた思いや対応が想像できそう。
大変だ・・・(2009 06/06)
叙情は分館、散文は本館
「生は彼方に」を読み終えました。つい、さっき。
第6部と第7部を一気読み。クンデラによれば第6部はアダージョ、第7部はプレストとのこと。第6部はヤロミールが密告した元?恋人の娘が3年振りに釈放され、情人であるらしい四十男(画家?クンデラ?・・・第7部でヤロミールの母親に会いにくる「見知らぬ男」がこの四十男だとすれば、母親が画家を知らないはずはないのでクンデラ自身が抜け出たよう(「不滅」みたいに)なものなのかなあ)に会いにくる。その描き方が見事なまでに巧く、さすがだなあ・・・と思っていると、第7部でレールモントフ(等)とヤロミールを交互に互い違いに書きながらヤロミールを死へと持っていく(第6部の時間的には前)仕方は、うーむ、第6部のそれより直接的すぎて、正直もっとうまく書けるんじゃないの?という感じ。でもなあ、それがクンデラのアダージョ→プレストの狙いなのだろう、と思いました。叙情主義を批判するクンデラのことは前も述べましたが、叙情は第6部のみ(クンデラは「分館」と言っています)にしておこう、自分の小説の行く道は第7部のような批判的な眼差しなのだから、とでもなるのでしょうか?
んでも、前もそうなんだけど、クンデラの作品読んで何かわからないところというか腑に落ちないところというか・・・があるんだよなあ(というか、そういうところが全くなく全てわかってしまう小説は本当に面白くはないのですが)。例えば「生は彼方に」という、このタイトル。いまいち何を表しているタイトルなのかすっきりいかない。うーむ、ヤロミールの言っている「生は彼方に」とクンデラが考えている「生は彼方に」が180度違う意味なのか、それとも少しだけずれているだけなのか。
んでも(2回目)、クンデラの小説を読むファーストチョイスとしてもこの小説はお勧め。 (2009 06/17)
投稿元:
レビューを見る
これはいい!長いけど、多少なりともフランスよりのチェコ文学です。東欧の暗さは好きだけど、カフカはちょっとイライラするというアナタにおすすめ。
投稿元:
レビューを見る
「LA VIE EST AILLEURS」
<テンポ/語りのモード>
第一部 あるいは詩人の誕生(モデラート/中庸の速度で・「一貫した」話法)
第二部 あるいはクサヴェル(アレグレット/やや快速に・夢幻的話法)
第三部 あるいは自慰する詩人(アレグロ/快速に、活発に・ポリフォニー的話法)
第四部 あるいは走る詩人(プレスティッシモ/できる限りはやい速度で・ポリフォニー的話法)
第五部 あるいは嫉妬する詩人(モデラート/中庸の速度で・「一貫した」話法)
第六部 あるいは四十男(アダージョ/緩やかに・「一貫した」話法)
第七部 あるいは瀕死の詩人(プレスト/きわめて速く)
投稿元:
レビューを見る
母親に囚われた詩人の成長と死。ビルドゥングスロマンだが、詩人はむしろ成長に従って自分の世界を狭め、閉塞していってしまうように感じた。
時間軸を飛び越えたり、複数の視点を導入したり、章の区切りでリズムを演出したりと、凝った構成になっている。
投稿元:
レビューを見る
人生にどれほどの自由度があるだろう。自ら選び取ったその道も、時代、社会、文化、遺伝、親の期待・・・それらの刷り込みかもしれない。仕向けられただけかもしれない。
そんなことは断じてない。人生を規定するのは自分であり、自分次第でいか様にも変えることが出来るのだ。自己選択を疑う声は、敗者の遠吠えに過ぎない。
この二項対立がぼくを捉えて久しいけれど、畢竟答えを出しようもなく、突き詰めたところで行き場はない。それを分かっていながらも、相対化して悟り顔で生きることも、割り切って今に没入することも出来ないぼくを、いつまでも掴んで離さない。
クンデラを読んでいて心痛むのは、何とかやり過ごしている上記の問いを喚起されるからに他ならない。主人公を軸とした物語展開も、十分に感傷を刺激するけれど、クンデラに特徴的な第三者による物語への介入、異なるアングルからの言及が、単純な感傷を突き放し、増幅し、底のない空虚に読者をいざなう。
混乱する母国での少年を描く本作品でも、これらの特徴が余すことなく発揮されている。物語のクライマックスの近づく第六章、視点は突然切り替わり、唐突に主人公の結末を告げられる。自分を除く誰もが知っている結末に飛び込む主人公。その構図を自分に当てはめることをどうして避けることが出来るだろう。
人間は自分の外に出ることは出来ない。のみならず、見通せるのは今という観察地点から見える景色だけ。何も見えない人生の彼方には何が待ち受けていて、それに対して一体自分は何が出来るのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
クンデラ一流の、心の襞を大に小に描き上げる技術は細部にまで冴え渡っている。
その上でも、これは特に気に入った。母親の縛りつけの描写の生々しさ、女性たちとの関係、他人からのレッテルがあまりに力を持ちすぎること、若さと死と革命の結びつき、などなど。
また、この小説は部分同士に因果論的・写実的結びつきが見られるように思う。他の作品が目的論的・構成的な結びつきがされているのと比べて。それもまた気に入ったところ。
手元に置いておきたいような。
投稿元:
レビューを見る
主人公ヤロニールは詩人のくせに
マザコンで、
女性に気の利いたこと一つ言えず
スマートな立ち振る舞いもできず
細かいことにばかりこだわり
嫉妬深く、
恋人の心を傷つけることでしか愛を実感できないような未熟者で、
皮肉屋気取りの割には権力に迎合し
時には恋人の家族すら警察に売る。
自伝的小説とされているが、
過剰なまでに滑稽な者として主人公を描くのは、
当時の自分(や詩人達)に対する
自己嫌悪の強さの現れなのだろう。
抒情主義の時代(チェコ共産革命≒政治の抒情化)への徹底した批判。
そして、革命や恐怖政治に自らすり寄り
利用された、詩/詩人に対する自虐。
美しく心地よい韻律は、
大衆の冷静な判断を奪い根拠のない熱狂を煽る。
(ワンフレーズポリティクス/ポピュリズム/劇場型政治。
不覚にも感動してしまうえらいええ話のCMを垂れ流す某政党。
最近の日本の政治も・・抒情化が著しい。)
作中様々な詩人や小説家のエピソードが
トリビア的にさし込まれているんだけれど、
僕の好きな19世紀フランスの小説家
ジェラール・ド・ネルヴァルも登場するのがなんかうれしい。
投稿元:
レビューを見る
抒情詩人として活動を始めたクンデラ
けれども彼はきっぱりその肩書を捨てて
小説家になった
抒情性というものが
どうしても嫌いだったみたい。
お箸持ち上げられないくらいの
軽さと重さの問題がここにもある
最もそれは
彼の弱さの象徴として。
投稿元:
レビューを見る
超絶大傑作。クンデラの中でいちばんすき、なぜなのかはよくわからない、たしか主人公が窓から飛び込むシーンがあってそこがとんでもなかった気がする。下見くんから貸してもらったというのもプラスポイントかも。題名もまたすごくいい、フランス語だとLa vie est ailleurs これもまたとてもいい響き。
投稿元:
レビューを見る
1990年代、チェコ出身のクンデラは中国に紹介されはじめ、一時的に中国の「文青」の絶賛を博していた。「文青」とは、「文芸青年」の略語で、生活にゆとりが出て、一般大衆とやや異なる趣味や生活志向を求める人たち(良くいえば「深い」、悪くいえば「わざとらしい」人たち)のことを指す。哲学的思考、性的場面の描写や分析的な書き方を特徴とするクンデラの文章が、「文青」に愛されるのは想像し難しくない。クンデラの代表作の『存在の耐えられない軽さ』は、ニーチェの虚無主義をめぐる議論を再燃し、「人間は考え、神は笑う」というユダヤ諺も、クンデラの『小説の技法』を通して中国で流行っていた。
私が初めてクンデラのを読んだのは、彼の小説そのものではなく、ある韓国の学者の引用だった。クンデラが「速度」を通して「技術」と「私」の関係を描いた文章であった。
「緩やかさと記憶、速さと忘却のあいだには、ひそかな関係がある。ある男が道を歩いているという、これ以上ないほど平凡な状態を想起してみよう。突然、彼は何かを思い出しそうとするが、思い出せない。その時、彼は機嫌的に足取りを緩める。逆に、経験したばかりの辛い事故を忘れようとするものは、時間的にはまだあまりにも近すぎるものから急いで遠ざかりたいとでもいうように、知らぬ間に歩調を速める。」
ミラン・クンデラ、西永良成訳(1995)『緩やかさ』集英社、p50
韓国の学者はクンデラを引用しながら、韓国社会の変化はなぜそれほど早く、しかも止められなかったかを考えていた。人間は、過去の苦痛を忘れるために、社会の素早い変化を求めようとしたのではないか。逆に、社会変化が早ければ早いほど、そこにいる人間はこれまで自分と離れていくのではないか、と。当時の私はそれを読んで、クンデラを文学と現実の境で踊っている巨人に見えた。
『生は彼方に』は、ある詩人の短い人生を描いたもので、ざっクンデラを感じてもらう一冊である。題名通り、この本における人間は、自分が生きている此方を否定しようとし、「ならなかった自分」や「なったかもしれない自分」という想像こそを「本当の生活」とする、つまりほかの生活を仰ぎ望いで今を過ごしている存在として描かれた。この本の背景には、20世紀におけるチェコスロバキアの社会変動がある。しかしクンデラは、それを「〇〇主義」、「〇〇運動」の名を借りて語っていたわけではない。詩人の一生を通して、個人の運命は、どのように社会、家庭、政治、思想、主義などいった抽象的な言葉に具体的な意味をつけたかを描いた。歴史に対する文学の笑いといえる。
本書を勧めた理由はここにある。開発や国際協力の教科書を開いてみればわかるように、世界に生活している人々は様々な援助・開発アクターに分類され、社会を動かす様々な政治・経済はそこに登場する。こうした大きな物語を聴き慣れていくと、ごく普通な人の微細な現実を感じ取れなくなる(そして、この力の乏しさは、専門家や理論家の、理性が溢れた言説や科学的根拠に編み直された嘘を維持し続けている)。クンデラは、人間が過ごした1秒1秒の中の、あまりにも見逃されやすいキッチュ、矛盾、自己合理化���狡知、不条理をそのまま書き留めた。それは、人間を人間として普通に感じ取るための教材であり、開発を勉強する若者を自らの滑稽な姿を向かわせる力を持っている。
(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪)
投稿元:
レビューを見る
20年前に購入。過去に4回程読み、ずっといい印象がなく、でも理由は忘れていて再度読んだ。①母親の「妻、親」<「自分、女」にうんざり②すぐ性描写。幼年期は母親の、体ができてくると主人公男子の。そこらの女子とすぐに愛撫し、ちちくり合い、(P269参照)げんなり③あわよくば作者の国の知識、風土、小ネタ描写を期待しているのだが、温泉饅頭の皮のような存在。戦争、民族浄化の描写は本当にうっすらしかなく、この辺りは思い出したくもないないんだろう。あと性描写の雰囲気が饅頭を水に濡らした時のような感じでげんなり。饅頭怖い。
投稿元:
レビューを見る
7部構成で、初めは全く異なる話でありそうな書き方であったが、4部あたりから連続になり、6部で詩人の主人公の死が説明された。最後の7部がかなり幻想的になり、主人公の死の状況が母親により描写され、本人の心情と情景か語られる。クンデラのユーモアは猿股にあるのであろうか?