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紙の本
〜いつの日か「花筺」という名の本を出したい〜久世光彦の詩人及び詩(歌)を巡るエッセイ集。
2001/08/02 18:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る
98年1月号〜00年1月号まで雑誌『東京人』に連載された、詩人及び詩(歌)を巡るエッセイ集である。対象になった詩人は北原白秋、三好達治、西絛八十、佐藤春夫、伊東静雄、津村信夫、萩原朔太郎、中原中也の9人、各3編ずつ、愛唱歌が選ばれている。「あとがき」で著者は、本書の執筆動機に付き、以下のような感動的な文を書いている。端折って、内容だけ記しておくと、いつの日か「花筐」(はながたみ)という名の本を出したいと強く願うようになっていた。しかもそれは、詩集になる筈だったが、20歳になるかならぬうちに、自分は詩作を断念した。自分の中に<物狂い>とか<風狂>といった眩(まぶ)しく狂奔するものがないことを知ったからだ。しかし「花筐」については諦めなかった。「花筐」が典雅にして夢を誘う言葉だからである。むろんそれは、昭和19年に出版された三好達治の詩集『花筐』に負うところが大きい。「そのころの私は、少年というよりは、少女だったのだろう」。20歳を過ぎた彼は、もう一つの『花筐』と出会う。それは昭和11年に出た、壇一雄の最初の創作集、「激しく瑞々しい青春小説」だった。壇一雄は後に、なぜ自分は、ちゃんとした長篇小説に書き直さなかったのかと悔やんだようだが、この中篇、構成も乱暴、人物たちのキャラクターにも矛盾がある。しかし、「ひたすらに風に逆らって疾走する若い男女の、高鳴る動悸や目の輝きは、もし書き直されたら失われたことだろう。それほどに呼吸(いき)弾ませた清新な作品だった」。「花筐」は、もともとは世阿弥の狂女物の一つである。そしてさらに、自分はもう、ここに取り上げた詩人や詩作品について、「あるいは彼らの狂乱の日々について書くことはないだろう。五十年にも及ぶ長い歳月の間、自分の中に燻(くすぶ)っていた<詩>への恋情は、本書を書きおわったいま、嘘のように消えてしまったようだ。ーーこれから足音もなくやってくるのは、<死>と親しむ季節である」。おそらく今の気持としてはそうだろうが、久世光彦の好きな詩人、詩作品がわずか9人、あるいは27編などで終わる筈はない。最低でも、この三倍はあるに違いない。ほくがもし現役の雑誌編集者なら、「続編」を書いてもらうべく、ただちに口説きに走るだろう。エッセイそのものについても、一節だけ紹介しておくと、久世光彦は北原白秋の詩「紺屋のおろく」がよほど好きらしく、過去の文章にも何度か登場する。この「紺屋のおろく」についての文章、以下のように結ばれている。「私は齢をとるにしたがって、この歌が好きになってきた。博多帯を解(ほど)いたおろくの裸まで、イメージすることができるようになった。くぐもった笑い声も聞こえるし、ちょっと酢っぱい息の匂いだって吸い込むことができる。私にとっては、どんな《femme fatal》たちも紺屋のおろくには適わない」(以下略)と。
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