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2001年5月、ハンセン病国家賠償請求訴訟の判決が出た。原告の全面勝訴。それに次ぐ、国の控訴断念。1907年に始まった「癩(らい)予防ニ関スル件」から90年以上たって、やっと患者・元患者の人たちは人間に戻れました。
この本は、90年以上にわたって行われた国の強制隔離政策とたたかった人たちの記録です。日本共産党の発行する「しんぶん赤旗」の記事をもとに、隔離生活を送ってきた人たちの生の声です。
この夏休みの研修で、国立駿河療養所に行ってきました。
細い山の中の一本道を1キロほど入ったところにありました。
いかにも、「隔離」と言わんばかりのロケーションでした。
1996年に「らい予防法」は廃止されて、法的な隔離政策は終わったけれど、今でも隔離は続いていました。
長い間バラバラになった親族の中には、いろいろな理由からお骨の引取りを拒まれる方もいるそうです。そのため、敷地内にある納骨堂には、毎年新たなお骨が納められます。
偽名を強要されつづけた人たちの本名が、骨壷に書かれていました。骨になって、やっと自分の名前を名乗れるようなことが、今でも続いています。
納骨堂の周りには、入所者のおじいさんおばあさんたちが千本の桜の木を植える活動をしています。
夏には、3000発もの花火を自分たちのお金であげているそうです。
毎年春になると、満開の桜を地元の人たちが見に来る。
夏には、花火を見に人々がやってくる。
「私たちはここにいる。もうすぐ私たちはみんないなくなってしまう。でも、ここに日本の負の遺産があったこと、私たちがここにいたことを忘れないでほしい」
そういう思いが込められているのだそうです。
この本には、本当にひどいことがたくさん書かれています。
療養所は治療を受ける場ではなく、強制労働をさせられる収容所であったこと。所長は医者ではなく警察官であること。法律で所長に懲罰権が与えられていたこと。
ハンセン病の治療薬ができ、治る病気となった後に、さらに隔離政策を定めた新らい予防法ができました。
「入所を拒む患者には手錠をはめても収容できるような法律に改定してほしい」「患者の家族にも優生手術ができるように法律を改正してほしい」と意見を出した療養所長に文化勲章が送られています。
この夏に連れってもらった療養所は、とても静かで富士山が見えて、いいところでした。また来たいと思いました。
でも、ここでも強制堕胎や不妊手術が行われ、強制労働が行われ、入所者は人間ではなくされていったのだろうと思います。
入所者の数はどんどん減っています。
もう少ししたら、みんないなくなってしまうでしょう。
それまでに、私はもう少しこのことに関わりたいと思いました。