紙の本
『肩胛骨は翼のなごり』の著者が贈る「死」と「再生」の物語
2001/11/05 16:02
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投稿者:タニグチリウイチ - この投稿者のレビュー一覧を見る
春の来ない冬はないけれど、冬を越さなければ春にはたどりつけない。季節だった時間が過ぎれば春になる。でも人生の途中におとずれた冬の季節はどうやって越せばいいんだろう? その答えのひとつの形を、田舎の村に引っ越して来た少年が経験した、不思議でちょっぴり怖いできごとを描いたデイヴィッド・アーモンドの『闇の底のシルキー』(山田順子訳、東京創元社、1900円)が見せてくれる。
祖母を亡くして落ち込んでいる祖父と一緒に暮らすため、父母とともにかつて炭鉱のあった村、スーニゲートに引っ越して来たキット・ワトソンは、黒ずくめの格好で悪魔的な雰囲気を持った少年、ジョン・アスキューに誘われて、暗い洞くつで死んだふりをするゲームに参加するようになる。最初は子供によくある「死」への好奇心ゲームだったはずのに、番が回って来て「死」を経験させられたその日から、キットの目に、100年以上も昔の落盤事故に埋もれて死んだ子供たちの姿が見えるようになってしまった。
行く先々に現れては「死」の匂いをふりまく幽霊たち、だんだんと老い衰えて
いく祖父、そして酒飲みの父親に反発して家を飛びだし、行方不明になってしまったアスキュー。閉塞感にあふれた村で出会う寒々しいできごとのなかで、ともすれば萎えそうになる気持ち、引き込まれそうになる「死」への誘惑を振り切って、暖かい春へと向かおうとするキットの姿が心に響く。悲しいことを乗り越えて進むための勇気をくれる。
愛と奇跡の物語『肩胛骨は翼のなごり』で感動の喝采を浴びたアーモンドが紡ぐ死と再生の物語。多感な少年には勇気を、悩める大人には力を与えてくれるだろう。
(タニグチリウイチ/書評家、新聞記者 http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/)
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廃鉱跡の洞窟で子供たちは「死」という名のゲームを繰り返す。
「死」からよみがえったぼくには、とうの昔に死んだ少年炭鉱夫たちが見えるようになった・・・。
光と影のように相対する2人の少年が闇を潜り抜けて成長する話。
ストーリー展開の面白さだけで引っ張っていくというよりは、断片的な描写や暗示の積み重ねで読者の想像を喚起するような文章。荒野の荒涼とした風景、弱っていく祖父への気遣い、普通の人とは違うものが見えることといったモチーフに、この作者の他の作品とも共通する不安な雰囲気がある。
もうひとつ強調されているのは物語の力で、この本の終わりのほうでおじいちゃんがぼくに贈り物をくれる時の言葉に端的にあらわされている。
「おまえにあげたいのは、この品々にこめられている心なんだ。世界を生き生きと見せてくれる物語や、思い出や、夢なのさ」
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家族・友人への愛情
豊かな想像力
読み終わったときに残る心地良い余韻
説明は要らないと思います。
読んでください。
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三番目に好きなアーモンド本。キットが…キットが可愛いんだ。指の血をなすりつけるところの科白で「お前の血が俺の体内に入る」とかそんな表現がありましたが、「血液型違ったら大惨事だねえ」と思った記憶が。そもそもそんくらいで血は入らないだろう。
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生と死と幻想が混ざり合う小説。
寂れた炭鉱の故郷に越してきたキットと、そこで行われていた死のゲームに加わっていた少女アリーと、ゲームの中心にいたアスキュー。
死のゲームに選ばれ、少年たちは死に無になる。あるものは嘘をつき、あるものは笑う。けれどキットは違い、アスキューもまた違った。
稀有な才能をそれぞれ持っていて、優等生と見なされるキットは物語の才を、生き生きとした少女アリーは女優の才を、アスキューは絵の才を。
父親からの暴力を受け、死にとらわれ恐れを隠すアスキューと、それを助けようとするキット。キットは彼を助けるために物語を書く。
彼から呼ばれた洞穴の中で物語を進めていくたびに、幻と夢と現、そしてひとつの大陸が凍りつき割れる古代が混じりあってゆく。
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小さなシルキー。
かつての落盤事故で死んだ少年鉱夫の幽霊。暗闇の中、地中深くにいるもの。
けれどそれは恐ろしい存在ではありません。
光り輝くもの。きらきらしい存在。
彼には手を触れて慰めてやり、光のもとへ連れ出してやりたくなるような愛らしさが――。
おばあちゃんが亡くなって以来、ふさぎこんだおじいちゃんと一緒に暮らすために両親とともにかつては炭鉱のあった村、ストーニーゲイトに引っ越して来たクリストファー・ワトソンは、風変わりな雰囲気を持ったジョン・アスキューに誘われて、廃坑の中で先祖代々その村で暮らしてきた家庭の子供たちだけで行われる「死」という名のゲームに参加するようになる。
クリストファーは最初、それはただのゲームに過ぎないと思っていた。
しかし、村の墓地にある百年ほど前に炭鉱で起きた落盤事故の犠牲となった子供たちを悼む記念碑には、覚えのある数々の名前が刻まれていた。
それは「死」のゲームに参加していた友人たちの名前。そしてジョン・アスキュー、享年13歳。クリストファー・ワトソン、享年13歳。
同じ名前、同じ年齢の子供たち。彼らは曽祖父たちの兄弟だった子? それとも、自分自身?
今生きてる僕たちは、本当は死んでいるの?
夜、暗闇に目を凝らせば、周囲には沢山の死者たちが。彼らはクリストファーの心を闇の底へとひきずり込み、やがて冬がやってくる。
急速に老い、病んでゆくおじいちゃん。すばらしい才能を持ちながらも、父親から虐待を受け、周囲から孤立し、やがて姿を消すアスキュー。そして、地中の暗闇の中で死んでいった沢山の子供たちの囁きが、厳しくなってゆく冬の寒さと共に「死」の気配を濃厚にしても、クリストファーは暗闇をたっぷりと抱えたこの世界を超えた先に、美しい光があることを信じて“物語”を紡ぐ。
「肩胛骨は翼のなごり」のデイヴィッド・アーモンドが描く、陰鬱な冬の中での死と再生・心に響く春探しの物語。
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闇こそ必要なもの。廃坑の町で死という名のゲームを遊ぶ子供たち。キット、アスキュー、アリー。
闇に魅入られる者がいる。夜をたのしむ者がいる。闇は孤独かもしれない。冷たいかもしれない。死のにおいがするかもしれない。しかし闇は豊饒でもある。
「あたしは夜が好き。世界が眠ってしまった夜は、なんでもできそうに思える」(『肩胛骨は翼のなごり』110頁)
アーモンドは一貫して夜の世界を描く。夜の言語は詩的だ。アーモンドは詩のように描く。夜の世界を。孤独な魂を。そして、孤独な魂が孤独でなくなる瞬間を描く。
キットは野蛮な少年アスキューを中心にしておこなわれる死という名のゲームを遊ぶ。闇に魅入られる。登場人物たちの語る言葉は呪いではない、祝祭でもない、そう…たぶん、魅入られし者のつぶやきなのだ。
しかし闇があるから光の歓びもあるのだ。闇を抱ける者だけが真に光を求めるのだ。闇を共有することができる者を見いだしたとき初めて魂の共感ができる。
「これがおれたちの世界だ」おじいちゃんはいった。「そうともさ、暗闇もたっぷり抱え込んだ世界だ。だがな、それを超えたところに、この歓びがあるんだよ、キット。この美しい光が」(20頁)
(2005年01月16日読了)
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前作「肩胛骨は翼のなごり」ではふわーっと感じたものが、よりはっきりしたと思います。人間はいずれ死んでいくけれど、それは終わりではなくて命は引き継がれている。希望なんでしょうか。
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昔あった炭鉱事故で亡くなった子供達の姿が見える二人の子ども、キットとジョン。ぼけてゆくキットの祖父や「死のゲーム」を通して、過去が現在に蘇ってくる感じを読者に与えてくれる。ジョンの絵の才能、キットの作文の才能がすばらしい。