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一般・・・なんだよね?
SFディストピアもの、に分類してもいいな。
しかし、アトウッドのフェミニズムというのは過激だと思う。
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代理懐胎そのものはもうびくともしませんが、舞台設定が素晴らしいです。いやあもう、ぞっくりとさせて頂きました。
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侍女の「物語」
人は物語を自分に向かってだけ語ることはない。いつでも他に誰かがいるものだ。(p80)
「侍女の物語」より。前にどこかで、人間の言葉の能力というものは、常に「相手」がいることが前提となっている、ということを聞いたことがあります。独白でも文章でも、聞き手がいるからその人は話したり書いたりすることができる。この文章のあとアトウッドは「名前のないあなたに」この物語を語ろうと続けています。実際の誰かに向けて語るのでは危険だから、と。この文章の辺りは、物語上の「侍女」というよりもアトウッド本人が語っているようにも思えてきます。たぶんだけど、この前に出てきたポルノ雑誌を燃やすシーンは実際にアトウッドが目撃したのではないか?そういう現実を見てアトウッドは何かを「複数のあなた、匿名のあなた」そう、世界に語らずにはいられなかった、のではないかと。
アフガニスタンなどの女性たちも、ひょとしたらこのような心理状態ではなかったか?と考えました。
以上です。
(2011 03/13)
待つことについての文
主人公が置かれている現在の社会の仕組み、それから主人公が遭遇した過去の回想、そういうものがわかってきてそこから立体的に物語世界が立ち上がってくる。
当時の画家はハーレムに取り憑かれていた。・・・(中略)・・・それらの絵はエロチックだと考えられていて、わたしも当時はそう思っていた。だが、今のわたしにはそれらが本当は何の絵なのかがわかる。それらは仮死状態についての絵、待つことについての絵、使われていない人間についての絵なのだ。倦怠を描いた絵なのだ。(p131−132)
19世紀の絵画についての新論? アングルの「トルコ風呂」とかからマネの「オベリスク」(だっけ?)辺りの絵を指しているのかな?
こういう指摘は初めて。それだけに同じ絵でも女性が見ると違うものになるのだなあ、と認識。ハーレムの女性達は常に支配者である男性を待っている。それはこの小説の設定とも合うのだが、「使われていない人間」ともなると、そういう視点を越えてもっと一般的、現代社会全体にも当てはまりそうだ。
主人公(上記の設定を強調するように「オブフレッド」(フレッドのもの)という名前がつけられている)は、自分で何かをすることに意義を求め始めている。
小説の文体というか語り口(最近この言葉多用し過ぎている気がするのだが)は現在の物語の流れと、過去の回想(子供をさらわれる)と、内省とが入り交じって進む。今日この後読んだ「ベンヤミン」の歴史論・・・均質的な時間の流れから切り離された「現在」から「過去」の声を聞く・・・というものの具体例かのように響く。
(2011 03/16)
空を見すぎて…
えーっと、「侍女の物語」ですが、物語内の現在の隔絶管理社会と、それから過去の(ということはこれを書いたアトウッドの現実を反映した)回想が平行して進行しています。んで、今日は回想のところから…
主人公の母親は女性解放運動の闘士という設定で、その娘(つまり主人公)夫妻といろいろ揉めたこともあった。そんな中の母親の言葉に���標題のようなのがあります。母親(すなわちアトウッド??)曰く、男なんて地から浮いているオマケみたいなもの。なぜなら、空を見すぎているから…空というのは未来ということでしょうか…昨日のベンヤミンの歴史論も思い出させます…
男全てがそうではないのだろうけど、自分には当たっている気がするなあ…
ところで(この言葉でいいのだろうか…)、物語内現実では、侍女の一人(主人公ではない)の出産シーン。今まで説明してなかったけど、侍女とは要するに代理母ー子供を産むだけで、産んだら依頼人に子供を引き渡すーというもの。それがこの架空管理社会ではカーストみたいになっているわけです。
(2011 03/17)
動きが出てきた「侍女の物語」
人を人間らしいと思い込むのはすごく簡単なものだ。わたしたちはその誘惑にのりやすいものだ。(p268)
これはナチ幹部の妻の話から。自分は全くすぐ信頼してしまうタチですが、ふむふむ「誘惑」とはね。
というわけで、「侍女の物語」はいろいろ動きの種が出てきました。ストーリー的には、主人公オブフレッドの「主人」である司令官が、主人公に非公式な触れ合いを求めてくる(そこで出てくるのがスクラブルという言葉ゲームなのが可笑しい)とか、主人公の買い物パートナーである同じ侍女のオブグレンから地下組織の話を持ちかけられたり…
そんな中、メモすべきは、司令官の妻の庭の記述(これまたベンヤミン的)、昔のファッション雑誌から連想される鏡に無限に映る像の記述、「救済の儀」(っていうけど要は公開処刑)に関しての可能性の記述(そこにさらされていないだけで不安に感じる)などなど。
こういう世界が現実化しないことを祈ります…ってか、アフガニスタンなどでは現実だったんですけどね。うむ。
(2011 03/19)
言葉の逆流と夜の闇
もう長いあいだ誰ともちゃんとした会話をしていないので、言葉がわたしのなかで逆流するのが感じられる。(p339)
これはこういう特殊状況でなくても、日常生活で感じられるところ。普通には「言葉を飲み込む」とか表現しそうだけど、「逆流」だと流れていったサキが気になりますね。
それから、夜の闇について。第11章「夜」(ちなみに、この小説の奇数章は全て「夜」という名前がつけられていて、比較的短く、主人公が夜に回想したり考えたりする内容になっています)の始めに…
どうして夜の闇は、日の出のように昇ると言わないで舞い降りるというのだろう? 日没のときに東を見れば、夜の闇が舞い降りるのではなく、昇るのが見えるというのに。(p349)
と書いています。今度見てみよっと…それはともかく、人々が「闇」と名付ける様々なものは、実は人間生活に端を発して訪れる…とこの文章から自分は考えました。
ふむ。
その他…
その1、この架空管理社会はクーデターによって成立したのだけど、それを容易にしたのがお金のカード化らしい。今の世の中でも進行中の…
その2、これはこの小説では避けられないテーマだと思うけど、クーデターが起こって女性の資産が全て近親男性に移行するということになった時、主人公の夫は早くも女性保護者的発言が出てしまった���いう場面。これ読んでいる時には、全く男ってのは…と笑えますが、実際にこんな考え→こんな社会になるのは容易に起こりうる…ということなのですね。だからアトウッドが物語を書き続ける理由もあるわけで…
(2011 03/21)
ジョブとタバコ
さて、「侍女の物語」も残り1/3くらい。ここらへんまで来ると一気読みの衝動にかられますが、こういうところこそ落ち着いて読み進めましょう。何か穴ボコ見落とすかもしれないから…
で、標題ですが、まずジョブの方。この架空管理社会ではもちろん女性は仕事を取り上げられてしまったのですが、そこから「ジョブ」という言葉の連想が続きます。それによれば、仕事という意味の他にしつけの悪いネコかなにかがトイレじゃないところにしちゃった「粗相」という場面でも使われるみたいです。一方では聖書のヨブ記。ヨブはJOB。
さて、タバコの方ですが、主人公オブフレッドは司令官の妻セリーナ・ジョイからある取引の報酬?にタバコを1本(もちろんこれも取り上げられている)もらいます。自分の部屋に向かいながら主人公はタバコを吸う感触を想像します。前に言った、女性作家には感覚の鋭い人が多い…というのも何かの決めつけになるのかな…でもやっぱりこの人は鋭い。うむ。結局、主人公はタバコを吸わずにマッチをとっておいたのか…書いてない…伏線に違いない。うむ。って、前にもそんなふうに考えて全然違ったこともあったっけ。
ちなみに「ある取引」が何なのかは小説を読んでのお楽しみ。
(2011 03/23)
女性地下鉄道
えと、「侍女の物語」ですが、いよいよ読了間近か?今400ページ台。今日のところは、やっぱりこういうところにはある「特別なグラブ」。司令官などの権力者が主人公オブフレッドを連れてきたのは、そういうグラブ。そこでかっての悪友モイラに再会し、その脱出失敗記を聞く。そこで出てくるのが標題にある「女性地下鉄道」。これはかって黒人奴隷の逃亡を助けた組織の存在をふまえているそうです。結局モイラは国境で捕まってしまうのですが、それは現在のメーン州辺りに設定されているらしいです。
(2011 03/25)
「侍女の物語」ディストピア小説でない小説との比較論
待つのもこれが最後なのかもしれない。でも、わたしは自分が何を待っているかわからない。(p527)
「侍女の物語」読み終わり。最後の章の「夜」(200年後の「注釈」除く)の冒頭部分から。ひょっとしたら、架空管理社会・ディストピア物語という外観に惑わされるけれど、この作品「女性主人公のタタール人の砂漠」ではないか?という気もする。それはラストシーンがそう感じさせるのか? で、「タタール人の砂漠」の主人公や、この間のサヴィニオの小説の主人公みたいに男性主人公は家を出て何か何処か駆け抜けていくけど、女性主人公は「待つ」?? この小説内のモイラなどは駆け抜けていくけど、より一般的(というべきかどうか)にはこの主人公みたいに「待つ」。そして闇の中か光の中へ。要するに死へ。ということか?
で、この物語の語りが入ったカセットテープ(この小説は1980年代に発表された)が発見され学会で発表される、という「注���」。ここは「語り手の言葉が届かない皮肉な結末」ということを前もって知っていたけど・・・うーん、なんだか、こういう学会の論調にアトウッド自身は批判を込めている、のはわかるが、これはこれで仕方がないんじゃないか、とも思う。でも語り手の声が伝わらないので読み手としてはもやもやしたものが残る。「過去の声を聞け」というのはベンヤミンだが、それは相当の想像力(創造力も)ないと聞こえてこない・・・んだなあ。
(2011 03/28)
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読書会のため2読目。これの何がこんなに怖いのか、と考えながら読む。
リディア小母も不気味だし、司令官も男性としての魅力がまるで感じられずよくわからない存在だし。。。
1985年に書かれたこの小説に「地下鉄道」が出てくるのは、コルソン・ホワイトヘッドが出た後に読むとまた不思議だ。
ナオミ・オルダーマン「パワー」も対になるような設定で、こうしてみると、この小説の影響がジワジワと続いているのだな。
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「侍女」が語るその話は、絵空事のようでもあるが、不思議な現実感を伴い、ずるずるとその世界に惹き込まれてしまう。読んでいる自分までもが、彼女とともに息を潜めて、監視と密告と処刑に怯える気分になる。21世紀初め、クーデターにより政権を奪われたアメリカでの話しという設定。。出産率の異常な低下に危惧をおぼえる新政権は、全ての女性から仕事と財産を没収し、妊娠可能な女性を「侍女」として保護し、監視・教育する。国家資源となった彼女らは、エリート層の司令官宅へ、子供を生むために支給され、ひたすら妊娠を待つ。語るのは「オブフレッド」という名の侍女。彼女たちは、身分財産はおろか、名前も奪われる。「オブフレッド」とは、フレッドのもの、という意味。他の侍女も「オブグレン」や「オブウォーレン」となる。人は、名を奪われて支配される。「千と千尋の神隠し」と同じだなぁ、と思ってしまった。最後に「歴史的背景に関する注釈」というのがある。これは、「あとがき」のつもりの注釈なのかと思っていたら、違っていた。22世紀、さる学会において、この「侍女の物語」の発見の経緯や、研究について教授が発表している様子を描いている。読者の疑問に、研究者が歴史的に読み解こうとしている。キリスト教原理主義など、細かいことはわからないけど、この「注釈」まで含めて、全てが「侍女の物語」になるのだと。ショッキングな内容ではあったけど、大変におもしろかった。時間をあけて、また読み返してみたいと思った。
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なんで こんな風に 変な世界になっちゃったんだろ?こんな世界で暮らすのはいやだなと でも じつは ある日突然 世界ってこんな風に変わっちゃうのかも知れない
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ディストピア小説としてはオーウェルの「1984」の方がより読後感がやりきれない。しかし、たとえばカーレド ホッセイニの「千の輝く太陽」などに描かれるイスラム原理主義下の女性たちにとってはこの物語も絵空事ではないと思う。少子化の責任を女性のみに押し付けるというこの過激な反フェミニズムは現代日本にも通じるところがあるのではないか。
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現代カナダを代表する作家の手によるディストピア小説。
出生率が極端に低下した21世紀ギレアデ(嘗てアメリカと呼ばれた地域)では、社会のエリートたる「司令官」に複数の女性が割当てられる。正式な婚姻の相手である「妻」、家事を司る「女中」、そして生殖を担当する「侍女」である。
此処で描かれているのは完全に役割のみを割り振られた女性たちであり(尤も、妻や侍女に面する司令官もまた男性としての役割を演じねばならない)、且つ、個別には相反する役割(妻と家政婦と母親と娼婦とが一致させられようか?)をそれぞれ別の女性に担当させる、男性=支配階級の欲望を具現化した世界なのであろう。
何より恐ろしい事に、他者に(ジェンダーに限らず)何らかの役割を要求する時、我々は同書と同じ事態を要求しているのであり、そしてそれは日常的に行われている。本書はディストピアを描く一方で、現代に至るまで歴史的・組織的に行われて来た「役割を与える」と云う暴力を指摘しているのだ。
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SFギミックを用いて、あるいはSFギミックは別としても、「産む機械」と女性が呼ばれてしまうことに対する、痛烈な批判の書。
アメリカが聖書原理主義にクーデターで倒されて、ギレアデ独裁に。ユダヤ教徒など異教徒は国外追放。
妻が女召使を夫に差し出す。これは聖書に倣って。
さらには妻が、男召使を侍女に差し出す。夫の受精能力を疑って。
果たして夫と侍女の義務以上の情愛は?
さらに果たして、妻と侍女の心理的な優劣関係は?
気にかかるのは、自由な世界を謳歌したことのあるわたしが、どうしてこの新管理社会・抑圧に順応するようになったのか?(管理社会はイコールユートピアという硬貨両面はあるにせよ)
内面は別として、基本的には従順な侍女になっているのは、なぜか、ということだ。
全体主義(現在)が民主主義(完成古)にいかに打ち克ったのか。
語り手が娘を出産するあたりで社会がおかしくなり、5年前に引き離され、3年間〈赤いセンター〉で教育され、ひとつき前に司令官に宛がわれたらしい。
たった数年で抵抗の意欲を削がれ、社会制度ががらりと変わり、かつての記憶を持ちながらも抵抗しない生き方を、いかにして強制されたのか。
いや強制されたのではなく、なかば人間の性質を活用した円滑な洗脳だったのかもしれない。
このあたり、現代に通じるものを感じる。
全体を通じて質問状や迷いや宙吊りの段階であり、答えや成果を語り手は持たない。
また、たぶんに脚色されている。のちに語ったものだから。
踏み出した先は、暗黒か、光か。
人のレビューを読んで、個人に対して「組織的に役割を与える」という暴力、という視点を知って、なるほどと。
また、白人社会で書かれた小説だからSFだのディストピアだの社会批判だのと言われているが、中東などの国ではまったく想像の産物ではないという状況も。
なんと新たにドラマ化するらしい。
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侍女、は自由と名前を奪われ、不妊の妻の身代わりとして、夫のために子をなすことだけを求められる女。
ハンドローションがもらえないから、バターで代用する、文字を読ませないように、店の看板もトークンも絵が書いてある、など細かい部分まで世界観がしっかり作られていて、読んでいくとゾッとする。
今も、子供が産めない女性のために、妊娠する女性が貧しい国にはいる。この世界と全く異なっていると言えるのだろうか。
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カテゴリをどう分けていいのかわからなかったのでもうSFにしてしまった。想像するSFとはだいぶ違う。
タイトルから主人に恋をしたけれど妻や周りの侍女から迫害を受けそれでも愛を貫こうとするも主人から裏切られる侍女…みたいなどろどろ恋愛を想像して読んだのだがもうびっくり。SFは嫌いだがこの作品は読めて本当に良かった。
女は産む機械、それを体現した世界。恐ろしいのに一気に読んでしまった。また読み返したい。
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復刊されたのを見かけて、気になって手に取ってみた。
女性が主人公の『1984年』という感じ。
女性の権利がとことん無くなって、政府の高官の子どもを産むためだけの存在として過去を思い出しながら生きることに翻弄される侍女オブフレッドの話。
オブフレッドの語りは現在おかれた状況と、夫や娘と暮らしていた時代~突如財産を没収され、侍女としての教育を施される施設に放り込まれた過去の回想とがとぎれとぎれに続くのだけれど、それがまたじわじわと読み手側に情勢や世界観が見えてくることになり、息苦しさが続いて先が気になって仕方がなかった。
色々読みながら考えさせられ、久しぶりに本を読んでいない時の思考も内容に引きずられる感覚を覚えた。
最後の注釈が救い。
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近未来ディストピア小説だとは思う。でも、いま、リアルタイムでこーゆーことが行われている国もあるように思う。
この小説はたくさんのひとが読むべきで、でもこれが正しいと思う人とワタシは付き合いたくないと思えるくらい、怖い小説だ。
また、世界は終わりに近づいた。
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全体の雰囲気は近未来というより古めかしさ、暗さを感じた。「侍女」の抑制された語り口が、この不気味な世界をよく表しているように思う。
こんなに極端なことにはならないと思いたいけれど、単純に「管理社会」という点で考えれば、現実に起こりつつあることなんじゃないか、とも思う。自由を奪う代わりに、安全(に見えるもの)を提供する、と権力者たちはうそぶく。
行き着くところへ行き着いてしまう前に、声を上げなくてはいけない、流されていてはいけない、と思わされる。
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性的な接触が禁じられ、女性が子を産むための道具とされた近未来社会を舞台にした物語。
主人公となる女性は世界がそのように変革を遂げる前の時代を経験した人物であるにも関わらず、疑問を感じながらも現代に適合している(と思われている)部分が妙に不気味である。
ディストピア小説の世界は、人間から感情や愛情、道徳性や時代の倫理観を根こそぎ奪い、効率性や安全性にのみ配慮した瞬間にユートピアに思えてくるところが恐ろしい。