紙の本
東大生はバカになったか
2002/04/08 15:16
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投稿者:ケンゾー - この投稿者のレビュー一覧を見る
過激なタイトルである。東大生はバカになったか。こう言われてみると本当に東大生がバカになったかのような気になってしまう。
だが、よくよく考えてみるに、たしかに東大生の全体的な学力は落ちたのかもしれないが、依然として、昔と変わらぬ高い水準の学力を持っている学生がいるのも事実であり、全体的な学力が落ちたからといって、バカになったとまではいっていないと思う。
では、なぜ、立花氏がこのようなタイトルをつけたかというと、基礎教養や学生の学問に対する意識の低下にたいする警鐘的な意味あいがあったのだろう。事実、著書で述べられているように、本来学んでくるべきはずの科目を習得せずに大学に入学してくる学生がいるのも事実である。それは非難すべきことだとは思うが、はたして、立花氏がいうように目くじらをたてるほどのことであろうか? 彼らは補習により、それを補うことをしているのだから、事前に学んでこなかったことは非難されるべきだが、その点は評価すべきことなのではないだろうか。
この本が出たことにより、教育的な議論が活発になり、日本の教育の水準が上がるのならそれは大いに歓迎すべきことである。
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「低レベルのゼネラリスト」という言葉が印象に残った。言葉の意味を理解しないで印象だけで判断するとそうなってしまうのだな。
他分野が良い発想を与えてくれるというのは納得。視野を広げていこう。
仕事上や会社のことなど、様々な疑問の答えの一端が見えた気がする。それをつきつめていきたい。
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http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167330163 ,
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163578507
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大学受験前に、文系と理系を分ける。受験科目に不要な教科を学習しなくなり、その後は大学でも専門分野を中心に企業の求める人材を育成する事になる。思えば、実学から離れた教養を学ぶのは義務教育だけではないのか。従い、日本人に教養を求められても、制度として身につけにくいという環境要因がある。では、どうすれば。本著で書かれているのは、結局は自習に尽きるという事。その気概が低下し、自ら将来ニーズを忖度、決め打ちするような人生観を持ち、故に幅広い教養が身に付かない。
教養の一つであるエピステーメーについて言えば、エピステーメーの基本は書物を読むことにあるが、教育過程において読まされる本など知れていて、その何倍もの書物を読まなければならない。テクネーはもっと辛辣であり、高度なテクネーを身に付けさせてくれる機関は大学以外にもあるが、より狭い領域で機械人間を育成する場と化しており、いずれにしても、労働生産性のために人間が育てられている。
コンドルセが教育の目的として述べている。教育の目的は現制度の讃美者を作ることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことだと。確かに。従順に従い、最大のパフォーマンス、テストで高得点を叩き出す事が自己目的化し、何やら、それはそれでと割り切った価値観が現代人に透ける。労働者はまるで、僅かな余暇と給餌のために、資本主義に陵辱される事を感受してしまったかのようだ。東大生は馬鹿にはなっていないが、イデオロギーを転覆する活力もその可能性を求める気概も無く、今や既存システムにおいて余暇と給餌の最大化を得やすい只のステータスである。勿論、例外はあるが。
本著では教養について、他にも色んな表現が試される。マックスジェーラー「マクロコスモスたる世界をミクロコスモスたる人間の精神的人格中枢に押し込むこと」実用的な知識は含まない、実学は教養ではない。本当に大事なのは獲得された知識ではなく、知の獲得過程で醸成された知的、道徳的な人格だと。
立花隆は言う。教養を持つ人間を育てると言う事は時代を超えて手渡していく人類社会の遺産の教える側から言えば相続人を育てると言うこと、学ぶ側からすればその相続人の一人になる資格を得ると言う事だと。
実学を求める消費される人格育成とは、相容れない。何のために学ぶのか、自ら考え直す機会になった。