紙の本
世界には別な神がいるのかもしれない。
2002/01/08 18:15
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投稿者:海野弘 - この投稿者のレビュー一覧を見る
〈異端〉とは、〈正統〉に対することばだ。その場合、私の信じているのが〈正統〉であり、そうではないのが〈異端〉だ。深夜テレビで全米プロバスケットボールを見ていたら、去年優勝したロサンゼルス・レイカースのシャキール・オニールが試合後にインタビューを受けていた。ミルウォーキー・バックスが相手で、大いに苦戦しましたね、といわれて、オニールは、あそこは〈異端〉だからね、といった。どういう意味かと聞かれ、オーソドックスではない、ずるい手を使うからだ、といった。しかし、〈正統〉であるわれわれに勝てない、とオニールは胸を張った。
西欧世界ではキリスト教が〈正統〉である。それ以外は〈異端〉だ。キリスト教では、神は唯一である。だがそれに対抗する別な神がいたらどうなるのか。すべて唯一の神のもとにあるキリスト教に対し、別な神もいるという考えがある。それは、光と闇の二つの神が争う二元論の世界である。
この本では、キリスト教という一神教から〈異端〉とされてきた二元的な宗教が掘り起こされる。ヨーロッパの東の方ではボゴミール派、西の方ではカタリ派という〈異端〉が大きな広がりを見せた。そしてカタリ派に対しては十字軍が召集され、厳しい弾圧が行なわれた。〈異端〉はほとんど地下に埋もれ、忘れられていった。
著者のユーリー・ストヤノフはブルガリア生れで、ロンドンのウォーバーグ研究所などで活動している。さまざまな〈異端〉の一つの中心であったブルガリア出身であることが、このテーマ研究への情熱の源泉なのだろう。埋もれた資料を発掘しつつ、〈異端〉の深淵に下りていこうとするストヤノフの姿勢がすばらしい。
なぜ〈異端〉を掘りおこそうとするのか。〈異端〉、別な神を信じる人たちにも、この世で共に生きる権利があるのではないか、と思うからである。キリスト教とイスラム教の激しい対立の中に生きる私たちは、〈異端〉への十字軍ではなく、〈異端〉との和解を夢見るのだ。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.01.09)
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本書は、ヨーロッパ世界を席巻したグノーシスに連なる世界宗教史を、通史として見通した画期的歴史書である。グノーシスとはギリシア語で「知識・認識」の意で、この物質的現世を超越した人間の本来的自己としての神性の認識、その本来的・元型的故郷に関する神聖な知識を意味している。
グノーシス主義は、世界を二元論的に捉えた思想で、物質世界の創造は、非物質的・永遠・不可触・不可知の神的最高存在によるものではなく、デミウルゴスと呼ばれる下位の神によるものだと見なし、人間の霊魂は、デミウルゴスにより肉体に幽閉されたものだと見なした。
このようなグノーシス的思考法は、歴史的因果関係の有無を問わず、洋の東西に確認される宗教経験の一形式であり、現世を否定視する度合いには強弱があるけれども、インドのウパニシャッド哲学から、ギリシアのプラトン主義やオルフェウス教などにも認められる。
本書ではヨーロッパの「グノーシス宗教史」を、その背景としてのイランのゾロアスター教や、マニ教などから説き起こし、さらにビザンツ世界の異端的宗派、10世紀のブルガリアのボゴミール派、そして南フランスを席巻したカタリ派に至るまでの、連続した流れとしてダイナミックに捉えることに成功している。間違いなく、現時点で邦語で入手できる最良のグノーシス的世界宗教史の決定版であり、類書の少ない貴重な資料である。
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ボゴミール派 カタリ派の思想は未だによく判らない。両派の書物は全て焚書にされたから、何かの拍子で発見されない限り永遠によく分からないままだろう。
思想として分からなくても、その源流を掘り下げることで見えてくる部分もある。この本はそういう本だ。カタリ派の二元論的キリスト教の源流が、原始キリスト教会最大の異端だったグノーシス主義に求められるのではなく、遠く中央アジアのマニ教より連綿と続くものだった、としているのも、ヨーロッパに於いては中央アジアと密接な関わりを持つバルカン半島が異端の揺籃の地だったからだ、としている。
バルカン半島の歴史は深い。中世に置いてはカトリック教会を代表とする西ヨーロッパと、ピザンツ帝国の狭間で翻弄されそれでもなお独自の文化を守ってきた地域だ。この地で育まれたボゴミール派は、やがてオック語を話す南フランス(オクシタニア)へと渡りカタリ派となる。何故南フランスなのか、これは当時のこの地域は独自の文化を持っていたためだと言えるだろう。この頃のフランス国王の所領はパリ周辺でしかなく、また南フランスは北フランスと明らかに文化的に対立していた。バルカン半島の異端はイタリアを越え、このオック語圏へと流入した。但し、何故人々が異端に傾倒したか、それはこの本には書いていない。読了後それを想像するだけだ。
古代史から15世紀までを扱っているため、この本はなかなか駆け足である。正直丁寧に紐解く本ではないため読了まで時間がかかってしまった。にもかかわらずこの本の重要性は、ヨーロッパの思想史で重要な意味を持っていたバルカン半島を読者に想起させる、そしてまた異端信仰とはヨーロッパのみで生まれたものではないことなどを改めて印象づけることに成功しているからだ。そしてまた、私が古代から中世の思想史を読むのかと言われれば、それはかつて有ったものの中に、現代の閉塞感を打ち破る鍵があるのではないかという期待感のためだ。
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この本の著者ユーリ・ストヤノフとは2015年にコロンビア大学での学会で会った。というより同じセッションでの発表で、内容があまりに面白いもんだから自分が何しゃべるかすっかり忘れてしまったほどだった。ヨルダンでの単性論派文書の調査から帰ってきたばかりでPCの盗難にあってタイヘンだったという話を打ち上げの飲み会で面白可笑しく披露してくれた。俺の二元論異端の本は日本語にも翻訳されてるんだぜと言うので、ほなら読んでみるわと答えて帰国してから読んでみたのがこれ。
まず驚くのは論旨がクリアカットなこと。一切脇道には逸れずどんどんと話が進んでゆく。チベットに仏教が入る以前のボン教にはズルワーン教からの影響があるとか(73頁)セルボ・クロアチア語族はイラン起源だとか(181頁)、思わずほ、ほんまですかと呟いて前のめりになるようなこともさらっと何気なく片づけてある。といっても(前者に関して言えば)自分がツェーナーを読んだのも30年以上前なのであれ以来それなりに研究が進んでいたとしても当然なのだが。
さすがに本論のボゴミル派の話題になると断言口調は少なくなって並行して異説も紹介されるようになるが、いきおい先行研究の洗い直しという論調に傾いてくる。ひとつには資料的な新発見がないこともあるだろうが、要するに著者の目的が、例えばディミータル・アンゲロフのような民族主義に傾斜しすぎたと批判される既存の分析を再検討するところにある(因みにユーリ・ストヤノフはディミータル・アンゲロフと同じブルガリア人である)ことを考えれば当然であろう。
しかし著者本来の意図は、文書が散逸し教団として消滅しても、豊穣な二元論的神話解釈はバルカンの口碑に継承されて近世まで生き残った(と想定される)ことを再評価するところにあると見ていい。このことは学会でもしきりに強調していた。それが近代の神智学に代表される秘教主義復興とどのように絡んでくるのかというのは並外れて興味深い研究テーマとなる。自分がユーリの発表に思わず聞き惚れてしまったのも無理はない。