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地下鉄サリン事件、そして、一連のオウム騒動……
あのオウム真理教という団体が行った行為。それには、自分のなかにある嫌悪感は過剰気味に反応してしまいます。
ですが、自分が本当に嫌悪感を隠すことも出来ず、どうしようもない恐怖感に襲われたのは、地下鉄サリン事件そのものよりも、むしろ、その後でした。
オウム真理教が事件に関わったと判明後、各地で行われたオウム信者への不当逮捕の数々。
図書館の本の返却の遅れ、部屋にあったカッターナイフの所持が銃刀法違反。とある駐車場を歩いたと言うことでの不法侵入罪での逮捕。
その事実をマスコミもそれが当然として放映している。
そして、社会もそれを当然のごとく受け入れている。
何故こんな事態になってしまったのだろうか? メディアの流す報道を見ながら当時の自分はオウムという存在より、それを取り巻く世間という存在の方に恐怖していました。
この映画はそれを久しく思い出させてくれ、その恐怖の正体の一部が判った気がします。
どうしてかな?
半世紀前の大戦中に非国民だと言って憲兵隊の不当逮捕が続出した世の中に嫌悪をいだいたんじゃないの?
そして、現行北朝鮮の体制にもかなり嫌悪感抱いてるんじゃない?
昔は、その世論の中、流れに反対すると憲兵隊に捕まる……それが怖いから何も言わない人が大半。だと思っていたけど……今も昔もそうじゃない場合の方が多いんだよね。
言論の自由。その一番の実践者であるはずのメディア……。それがこんなになってしまったら、新聞もテレビも……本当の意味での必要性なんて無くなってる気がする。
今日出された判決を不服に思ったり、麻原氏を弁護するとかではなくこの本で明かされた1行程の文章(麻原氏の言葉)で、自分はこれまでにない衝撃を受けた言葉がありました。
いつの公判だったのかは判らないけれど、毎回毎回あれだけのメディア関係者が麻原氏の裁判には訪れているはずで、彼の言葉の一つも逃さないようにしているはずなのに、麻原氏が
「破防法を適用しなさい。しかし、オウム以外の団体には今後絶対適用しないで欲しい」
と語った事実は、完全に隠蔽されたんだよね。この社会の中で。
あのシチュエーションでメディアの一社たりとも記事に載せない事が、単に報道されていなかっただけ。なんて台詞は通らないよね?
どうやら、マスコミにとって、世間にとって、彼は悪でないといけないらしい。
でも、本当に自分が衝撃を受けたのは言葉をそれを発した人物というのでは無いし、それが報道されなかったことでもない。
この発言に驚いた自分に驚いてしまったんだ。
こんな事書いている自分なのに、メディア制作した麻原像を植え付けられていたのだから……。
読者、視聴者の知りたい事実のみを枠に区切って報道する。
やらせや、都合のいいようにの編集、隠し撮りしたり。それも溜息がでるが……こっちの方がタチわるい気がするぞ。
事実、嘘は報道していないけれど、切り取り、編集し、映しだす。それだけで、いくらでも好きにイメージを造っていけるんだから。それがさも現実であるように。
この国で、もはやメディアは存在する意義を殆ど失ってしまっているのではないだろうか?
それをふまえて新聞やテレビに付き合っていかなくてはならないのは……めんどくさいね。
オウムの事件は終わっていない。被害者も、加害者も忘れないしね。
これからマスコミからは忘れ去られる一方だけれど、この事件でこの国の状況が露呈したにもかかわらず、どれだけ多くの人が不条理を感じたにもかかわらず、結局はなんだ変化はない今日。
その事にまた改めて気づいて欲しい。
このままで終わってしまうと……この国はどんどん悪い方へ進んでいくぞ。
なんて、こういう事を語るときも、自分は世間、警察、オウム、その他をまとまりのあるものとして捉えていた……。
それぞれが個人である。その事をつい忘れかけてしまう……
そんなに広い範囲だけでなく、世界に一番数多くあるであろう、夫婦という小さな団体。
その中でも、人として、一人の個として見てもらえにくくなってしまう立場に置かれてしまう。どうしてだろうね?
みんな無意識のうちなんだろうけれど……だからこそ、あえて意識してでも、一人の人として見ることが出来るように……
なんていったらいいんだろうね…………
忘れないで下さい
かな?
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対象に影響を与えずにその対象を調べることはできない。対象に入り込まずにその対象を理解することはできない。宗教はだから理解することができない。だから答えは出ない。そういうことを、4年もの歳月をかけてしみこませていく過程を、少し分けてもらえた。難しい。
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ある男が敵対する無意識と無意識の間に翻弄されながら、ドキュメンタリーに、逃げることなく対峙する日々が綴られた本。
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この映画が実際に問題になるときにはよく知りませんでした。オウムに対しても特に何もないですが、オウムから社会を見るという視座は非常に考えさせられます。私もそのように常識とは違う逆の視点を持てるようにしたいです。
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DVD作品『A』の撮影日誌であります。DVDと補い合うようなカタチで楽しめる作品です。裏話や、映像では語られない森氏の心中を知ることが出来る。本だけ読んでも十分内容を理解できます。
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「A」という劇場公開された映画を撮った人で、監督、とはいえ、この本の文章もなかなかわかりやすく読ませる、多才な人だ。浅原が逮捕された後、残されたオウムの人達に密着取材してカメラを回しつづけた、そのルポルタージュ。オウムも、テレビで言われつづけている印象とは全く違っている。
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「思考停止」この本を読んでいる最中、この言葉が何度も頭をよぎった。
マスコミ関係者、テレビを見ていた視聴者、全てが思考停止していた中で渦中の団体の人間が一番考えていた、という皮肉。
その団体がやったことだけみれば、もう紛れもない極悪の団体だけど、事件の全容を見ると正しいのはどっち?という感じがする。
オウム事件だけじゃなくて、今の不祥事や偽装の報道にも、同じような思考停止の構造があるんだろう。
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村上春樹の『アンダーグラウンド』を再読
→某雑誌の最新号で森達也のインタビュー記事を読む
→「そいえばこの人は『A』っていうオウムの映画撮っていたなぁ」
→某お気に入りの古本屋で本書の発見
というつながりで読んでみました。
自分はこの『A』という映画見ていないし、オウム事件の際のマスコミとかはまだそんなに気にするほどの年齢ではなかったので何とも言えないけ
ど、最近新聞を読んだり時々テレビを見る中で感じていた「マスコミに対する不信感」がこの本を読んで少し「理解できた」気がした。
そして、初めて村上春樹が『アンダーグラウンド』の「出口のない悪夢」で
述べていた怖さとかが「理解できた」気がした。
「分かる」というわけではないし、あくまで「気がする」だけだけれど…。
「誰がそう言っているんですか?」「メディアがそう言ってます」
「完全に客観的なドキュメンタリーなんて存在しない」
「テレビを見ている人はそんな情報をほしがっちゃいないんだよ」
・・・…本を読んでいて線を引きたくなる箇所がいくつもあった。
作品のすごさとか、森達也という人のスタンスをこれだけで判断することは
できないけれど、今、この時期に読んでよかったと思える本でした。
時間が出来たら映画も見てみたい。
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内容(「BOOK」データベースより)
―オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう?一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた―!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。
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<―オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう?一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた―!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。>
松本死刑囚は死刑を待つ状態にあり、オウム事件は過去のことになりつつある。しかし「なぜオウムはサリンを撒いたか」という問への明確な答えはでないままだ・・森氏は膨大な時間と労力をかけてこの問に向かい合った。この本を読むことで私達は情報と考えるチャンスを得ることが出来る。私にとって大きかったのは「オウムがわからないままな理由」がわかったことだ。この問題はまだ終わってはいないのだから終わらせてはいけないのだ、と感じた。
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大学の外国文学のテーマが「『死』について」だったのだがその講義の中で森さんの作品に出会い、卒論にも色濃く反映されました。
ちょっぴりズレてる僕には、森さんの視点と重なる部分がかなりありました。
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みなさん、オウム真理教という団体のことをご存知ですか?
というとあまりにも白々しいのだけれど、でも実際にこの問いに「はい」と言える人間がいるのだろうか、という思いが、この本を読む前と、読んだ後にも、ある種の問題意識として強く心に残っている。
先日、有楽町のビックカメラの画面に指名手配中の元信者の方々の情報が表示されていて、いまさらながらふと、あの人たちは何を考えていて、何をどうしたかったのか、気になって、たまたまブックオフで見つけてこの本を読んでみた。
読後の今なら当然と思えるが、本書に明確な答えなど載っているはずもなく、皮肉にも本書が提示するものは、自己が対峙するものを理解するということが途方もなく難しく(ほぼ不可能)、それなのに世間は表層的で都合の良い、わかり易い情報を鵜呑みにして、ある種、無責任に行動しているということ。
失礼を承知で言えば、きっと森達也という人が特別なんじゃなくて、サリン事件という異常な状況で純粋ゆえに時代の流れとは違う方向に身を置くことになり、そこで日本社会に内在する普遍的な問題に気づいたのかな、という感じがした。
ネットのおかげでマスメディアの影響力が弱くなってきているとはいえ、選択肢が増ええてもやっぱり本書でなされている問題提起はなかなか、解決されないんじゃないかと思う。教育のせいなのか、ライフスタイルのせいなのか、・・・・
いい読書をさせてもらいました◎
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オウム真理教に対して、その信者の一人の荒木浩に対して親近感が湧いた。なるべく、見ないようにしていたものを、しっかりと内からみることの大切さを知った。ドキュメンタリーの映像もぜひ見てみたい。
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映画を観てから読もうと思って、積読くこと約1年。
大型連休にようやく読み終わりました。
内容は基本的に映画の流れを踏襲しているので、副読本として読むと便利。
異なる点は、表現者・制作者である森達也自身が、映画よりも登場人物として前面に出てくるところ。
特にテレビの制作会社との契約解除から、意固地になりながらも、どこかテーマ性に魅かれ、
淡々と撮影を続けるあたりなどは、もうひとつのドキュメンタリーを見ているようでした。
興味深いのは、社会学者・宮台真司による巻末の解説付録。
以下、簡単に要約する。
***
現代社会システムのなかで、私たちいろいろなことを「体験」する。
その体験に解釈を与える作為を「体験加工」というそうだ。
世間ではこの体験加工の早い、即断即決型の人のことが「聡い」と思われている。
そうした視点からは森達也の「体験加工」は驚くほど遅く見える。
しかしこれは、体験加工を留保する、というあえてする不作為と宮台は論じる。
オウムがサリンをまいた、たくさんの死者が出た、という体験の一方で、
オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工する前の、留保によって見えてくるものがある、という。
たとえば、かつて、現在では精神病に分類される振る舞いにも、
共同体のなかで、「狐憑き」や「シャーマン」の役割が与えられた。
しかし現在では、まず犯罪者同様に隔離され、治療対象と化される。
***
本文を読んで思うところはたくさんあったけれど、この解説がとりわけ興味深かった。
眼前の狂人の振る舞いに安易に解釈を与えない、体験加工しない社会の豊かさが見え隠れする。
だが、とはいえ、オウムは、という解釈もまた、人間らしい営みとも思う。
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ある時、Aと村上春樹のアンダーグラウンドをたまたま?同じ時期に読んで、そしてそれぞれの続編を読んだら、法廷全記録を読み…それからいろいろ読み…とにかく事件を忘れないように、と思った。