紙の本
生きるのと死ぬのとではどちらがたやすいか
2003/08/03 09:02
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投稿者:星落秋風五丈原 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宮城谷昌光氏の小説に「月下の彦士」がある。
有力貴族が、時の帝に怖れられ、無実の罪で一族皆殺しの危機に見舞われる。貴族と交流していた、彼とは血縁関係にない二人の男が、
たった一人残された彼の息子を守ろうとする。その時、一方がもう一方に言う。
「孤児を守り立てる(生きる)のと、死ぬのとではどちらがたやすい」。
すると片方が答える。
「死ぬ方がたやすい。孤児を守り立てるほうが難しいに決まっている」。
「死んだ彼とのつきあいの長さから、あなたには難しい方を引き受けてもらう」と問うた側は言い、果たして彼は、偽者の赤ん坊を抱き、自分と共に殺させることで、本当の跡継ぎの命を救う。
生き延びた方は、その真実を信頼した人以外誰にも告げず、
ある人達には裏切り者と思われても、それをじっと耐え、子供を成人まで育て抜く。
この短篇もまた、生き抜く事の難しさを描いた作品だと思う。
確かに、いつもいつも「生きていく方がたやすい」と言い切れる事情ばかりではない。過ぎてみれば、「生きてきた」の一言で片づけられる人生でも、そこには本当に切り立った崖も、底なし沼も、迷路もある。
それなのに、なぜ人間は、生きる事を選ぶのか。
藩衰亡を防ぐため追腹を禁じられた石田又右衛門の、来し方行く末を辿る事によって、この問いへの答えが淡々と書かれる。
又右衛門に対して、人間達は周囲の事情に左右され、態度を変えるが、ただ一つ、変わらないものがある。自然である。
表題作では、菖蒲。「安穏河原」では、川。そして「早梅記」では、梅。変わらぬ営みを続ける自然と、変わり続ける人間の対比。節目節目に現れ、人間達を見つめる自然の眼差しは、神の視点なのだろうか。
いずれも現在→過去→現在に映る視点で描かれた短篇を読んで、ふとそんな事を考えた。
紙の本
支えになるもの
2002/09/04 20:32
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投稿者:岸本真澄 - この投稿者のレビュー一覧を見る
順調だった人生が崩れ、不幸の波が押し寄せる。けれども最後に救いがあり、味わい深い。久しぶりに読後の余韻に浸った。
第127回直木賞に選ばれた乙川優三郎(おとかわ・ゆうざぶろう)氏の「生きる」(文芸春秋刊)。3つの時代小説が収められているが、その表題作を紹介したい。
藩主の恩に報いるために「追腹(おいばら)」(=殉死)をせねばと覚悟していた男が、家老と密約を結んだために思いとどまる。事情を知らない人々にさげすまれ、その影響は家族にも及び、息子や娘の夫が自殺してしまう。体が弱かった妻も苦労の果てに亡くなる。娘は夫を失ったショックで気が触れてしまい、行方不明になる。
男は愚直なまでに密約を守るが、一方で次々に見舞われる不幸や周囲からの誹謗(ひぼう)中傷におののく。強く生きてゆく自信や気概が失せ、ついには病に伏せる。
〈どうせ恥辱に塗れたまま死ぬのだから、恨みつらみを吐き出してやろう〉。男は密約を迫った家老に宛てて手紙を書き始める。が、そうするうちに見えてきたのは自分の弱さだった。〈何もせず、ただ恐れ立ち尽くし、嵐が去るのを待っていただけではないか〉。男は尊厳を取り戻し、胸を張って生きるようになる。しかしその後も、男に対する中傷はやまなかった…。
物語は感動的な結末を迎える。その始まりと終わりを菖蒲(あやめ)が暗示する。
菖蒲は男の家で、幸運をもたらす花とされていた。その生育が例年になく遅れていることに、男は不吉な予感を持つ。果たして悲劇が始まる。結末近くでは、雨上がりの庭で、男が菖蒲を眺める。
メリハリに満ちているわけではない。1人の男の生きざまが淡々と描かれている。決して格好良くはない。それがかえって、さもありなんと思わせる。
現代に追腹はないけれど、理不尽と思えることに耐えなければならない局面はある。そんなとき、人は何を支えに生きてゆけばよいのか。示唆に富む秀作である。
※レビュー筆者のメールマガジンがあります。関心を持った方はバックナンバーをご覧ください↓
http://www.melma.com/mag/74/m00044374
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好きな作家の新刊とはいえ、このタイトルにはやや照れた。しかし、苦境を生きる現代人にとって、なつかしき日本的経営を貫いた精神に通ずるこの時代小説の潔さは見逃せない。
2002/03/22 13:00
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
コストパフォーマンスの高い本でもあると思う。長い歳月にわたり練られた構想のもと、「畢生の大作」と力を注がれ書かれた小説が最近目立つ。緻密なプロットや多彩な道具立て、旺盛な取材に基づく情報に洗われたあとで、結局ここに書かれた人の生き様を述べるのに、こうまでページを尽くす必要はあるか、この定価設定は? …と思わせられることもある。
1200円ぐらいが妥当と思っていた単行本は、まあ1500円ぐらいならばと枠を押し上げられ、2000円〜3000円が当たり前になってきた。「畢生の買物」という感じで身がぼろぼろになる。当然のこと、消費行動を見直すことになる。消費不況の根は深い。それに比べると、この『生きる』の税別1286円、234ページの満足度は相当に高いという気がする。
消費不況を考えるにつけ、グローバルスタンダードに踊らされる前の「日本的経営」をなつかしく思い出す。経営の主体は、利益追求の企業のみに留まらない。内閣や党、学校に病院、行政単位などとありとあらゆる組織を覆っていた日本的なるもののうち、悪しき因習とともに好ましい特徴も、この社会は一緒に葬ってしまったという気がしてならない。「思いやり」「助け合い」が損なこと、ださいことになってしまい、それが組織のねばりをなくしたという分析も可能ではないかと思う。
甘いノスタルジアと感じる人もいると思うが、時代小説のなかに描かれる人の道や人情といったものは、今や現代人という故郷喪失者たちにとって、いつか戻りたい故郷であり、いつか辿り着きたい約束の土地であると思う。乙川さんの書かれる小説には、説教臭がなくおめでたさもなく、上記のような問題意識が根にしっかり張っていることを意識させられ、尚且つあり余る優しさがある。それが今回は、「生きる」という思い切った言葉に結晶せられた。
3篇の小説が収められているが、いずれも武家の心得が強く意識されている。男も女も、年寄りも親も子どもも、ここに出てくる人たちは皆、武家社会に普遍的であった倫理に縛られ、疑問を感じることもあるが、ときにそれを遵守することに喜びを見いだし、まっとうする自分や家族を誇りに思ったりもするのである。「美学」という気負ったイメージではなく、肌になじんだ着物のように、登場人物たちはさらりこの倫理観をまとっている。
表題作「生きる」は、主君の死に先立ち、家老から追腹を禁じられた年配の寵臣の苦悩を描く。当然のこととして殉死を腹に決めていた又右衛門は、忠義ゆえ跡を追う者が多くては藩が立ち行かない、死んだつもりで生きてくれ。追腹は禁制にする…という家老の命に従うのであるが、いざ主君が亡くなると、生き恥をさらしているという白い眼で見られる。若い士官たちへの説得も及ばず、あろうことか娘婿がまず殉死したため娘から義絶を言い渡され、続いて跡取り息子にも先立たれて針のむしろ状態になる。
「安穏河原」は、遊女になった武家の娘と、娘を売った父の両方と親しくなった浪人が目にした父娘の武家としての覚悟を描く。「早梅記」は、出世のために添い遂げることができなかった下士の娘の潔い身の引き方をなつかしむ引退した家老の話。
何が足りなくなってしまったかが沁みるようにわかる作品集。
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平成14年度下半期(第127回)の直木賞を受賞した乙川優三郎の「生きる」を読了。
表題作と「安穏河原」、「早梅記」という三篇の時代小説が収められた作品集である。
「生きる」は主君の死に際して追腹(おいばら)を秘かに禁じられた侍が、不忠者、恥知らずといった非難を浴びながらも生き続けなければならないという、苦しみの歳月を描いた作品。
周囲の冷たい視線、嫁いだ娘からの義絶、妻の病死、そして父親の身代わりのような息子の死、とつぎつぎに襲ってくる苦難の中で、孤独な闘いを強いられる武士の悲哀が切なく胸に迫ってくる。
「安穏河原」は武士としての誇りから、浪人となって零落してしまった親子の物語。
貧窮のなかで、娘を身売りせざるをえなくなるが、そのことを後悔した父親は知り合った若い浪人者に頼んで娘の様子をそれとなく見てもらう。
そして何とか娘を苦界から救い出そうと算段するが・・・。
若い浪人者に託された後半が感動的。
「早梅記」は軽輩から出世して筆頭家老にまでになった武士が、隠居の身となった日常のなかで、失ったものの大きさを思い返すという話。
三篇とも人が生きていくなかで味わうさまざまな苦渋を切々と描いているが、その先にはいずれも一筋の光が射して終わっている。
そしてどの主人公も苦難の中で最後まで武士としての矜持や潔さを失わずにいる。
そのことで、暗鬱な気持ちに陥りそうなこちらの気持ちが、ぎりぎりのところで救われる。
またどの話も、女性が重要な存在として描かれており、主人公の武士に劣らない覚悟と矜持の持ち主というところも大きな魅力である。
読み応えのある小説集だった。
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三部の短編からなる時代小説。短い文章の中に”生きる”事の意義や本質を見事なまでに描き切っている。武士の矜持という一言では言い表す事ができない。共通のテーマは家庭を省みず役目に没頭する役人の末路を描いている。物悲しい終わり方ではなくすがすがしい気持ちになれる。文中に出てくる死期を迎える妻の一言。「何を幸せに思うかは人それぞれ。例え病で寝たきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香りを運んでくればもうそういう季節かと思う。起き上がりその花を見ることが出来たらそれだけでも病人は幸せ。」。一流の時代小説作家の表現は心にぐさりと響く!
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2月中旬頃読了。とあることから読後感想を求められた推薦本。江戸中期以降の 武士という身分の男。想定は三編三様な状況のなかで 表題の 「生きる」 を描いている。
男のみならず人なら誰しも、この三つの苦悩はだれしも持ちうることだからこそ、乙川氏は描いたのだろうか?職務職責のそれ、連れ合いとのそれ、そしてわが子とのそれ。
自分であれば、と置き換えて読み進めるなら、かなり難しい判断を迫られる状況想定である。・・・・・・・答えは見つからない命題かも。
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<江戸小紋的「いぶし銀」時代小説>
「生きる」「安穏河原」「早梅記」の中編3編からなる時代小説集である。
「生きる」は殿の後を追って腹を切るつもりが、追腹を禁じられ、悶々と悩む老武士の話。「安穏河原」は、浪々の身となり、娘を遊郭に売った父と、売られながらも凛と生きていく娘、そしてそれを見守る無頼の若者の話。「早梅記」は、隠居となって徒然に散歩する日々を送りながら、自分の人生を振り返る元家老の話。
一読した感想は、まずはひとこと、「渋い」。
ストーリーに派手さはない。いずれも、波瀾万丈・血湧き肉躍るといったタイプの小説ではない。
しかし、地味なだけではない。職人的だと思う。時代小説はさほど読んでいないので、この著者が特別なのか、それとも平均的にこうしたものなのかはよくわからないのだが、相当な調べ物と知識の上に成り立っている世界だろう。
色で言えば銀鼠、着物の種類で言えば江戸小紋。さりげなく見せて実はものすごく手が込んでいる、粋な芸を思わせる。
それぞれの作には象徴的な小道具がある。「生きる」には菖蒲、「安穏河原」には河原と紅葉、「早梅記」には香り高い白梅。物語の要所要所に配されていて心憎い。
当時の殉死とはどのように捉えられていたか、浪人の暮らしとはどうなっていたのか、市井の暮らしはどうしたものだったのか。そんなさまが見てきたように描き出される。トリビアを織り交ぜながらもくどくどと説明はしない。それをやっちゃあ野暮なのだ。
実際、細かいところがわからなくてもストーリーは流れていくのだ。そして人情にほろりとしたりするのである。
各作品の内容を好きな順に並べれば、個人的には「安穏河原」、「生きる」「早梅記」、だろうか。
「早梅記」は男の身勝手さが感じられ、「いやいやいやいや、どうよそれ」と思う。しょうぶの袂を引っ張って物陰に連れて行き、「ほんとのところどうなのさ?」と聞いてみたいところである。
表題作「生きる」は、「うぅむ、それはそれは・・・。ご苦労なさいましたね」と思うけれども、老齢の男の感慨が今の年齢の自分には少々重い。もう少し年を取って読むと、しみじみするような気がする。
「安穏河原」は好きだ。本当のところがはっきりしない部分が残り、想像が脹らむ余地があるところもよい。何より、幕切れを締めくくる2人がまだ若く、「ここから本当のことがはじまる」余韻がよい。
*とあるネット上読書会の課題本です。はて、ちゃんと読めているのかいな(^^;)。
*蛇足と知りつつ、本作で知った/興味を持った用語集~。自分は粋じゃなく、野暮だよな、と思いつつ(^^;)。
・重五:端午の節句。九月九日が「重陽」というのは知っていたが、五月五日を重五というのは知らなかった。
・金打:金属同士を打ち合わせて誓いを立てること。武士ならば刀の刃や鍔を使う。
・座頭金:江戸時代の盲人が幕府の監督をうけて貸し付けた庶民金融。障害者保護政策として、高利で貸し付けることを幕府が許していたようである。「真景累ヶ淵」の按摩の宗悦が金貸しをしているのも、こうした流れか。
・裾継:深川の遊���の1つ。
・警動:岡場所の私娼の取り締まり。幕府が認めた遊郭は吉原のみで、それ以外は表向きは禁じられていた。吉原以外の遊郭は岡場所と呼ばれ、ときどきそこには手が入る。捕えられた娼婦たちは後述の奴刑(やっこ)を受ける。
・奴刑:女性のみに科される刑。3年間の年季(享保以降。それ以前は無季であったようだ)で、吉原の遊女奉公をさせられる。
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「生きる」江戸初期に殿様に殉死しないことを劣等感のような後ろめたさを抱いて生きていく老武士の心の悩み。娘が、息子が、そして妻にも先立たれていく。その心のあやが、今の時代でも全く同じであり、痛いほど理解出来ます。「平穏河原」女郎部屋に娘を売った武士と娘の誇り「早梅賦」出世のために愛した女中を捨てた武士が功と名を挙げて、隠居した後の虚しさ、そして運命の出会いの美しさ。藤沢周平の世界に似て哀しく美しい文章です。
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いつの世も男は情けないなあとか感想を抱きながら、作家ってのは見てもないような江戸の頃の話を書いてこうまで思わせるんだから、こいつは大した嘘つきだわ、と感心した次第。静かでじわっとくる中編集。ブックオフで買ったんだけど何にも重要でもない箇所に蛍光マーカー引いてあって興醒めした。
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表題作が直木賞。追腹禁止の命を受けて非難や嫌がらせに耐えながら生きる姿は悲しくて。娘にさえ憎まれ真意を理解してもらえないどころか、娘自身の気が触れるという。彼にとってこの世に神も仏も無かったのでしょう。ラストは少しだけ希望が見えるかな?二作目は自分の短慮から娘を売り、その苦境から救うために自ら切腹するも、その娘は…とやはり切なすぎる話。親の勝手に振り回される娘が哀れで、でもそうしなきゃ生きていけなかった…。ラストは私的に男のエゴ満載のお話に思えて好きにはなれず。しみじみ生きるという強さを感じる作品でした。
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乙川優三郎さんの直木賞授賞作品である時代小説『生きる』を読了。3編が収められている短編小説集で読みやすいが生き方を考えされられる物語が収められている。『生きる』では組織を守る為に密かに命じられた約束を守り通すが故につらいお勤めの日々を過ごす男、『安穏河原』では武士としての矜持を守ろうとそれに固執し零落してしまった男、「早梅記」では出世の為にそれまでに世話になり懇ろであった女性をそでにし家柄のよい妻をめとりそれなりに功をなすが過去に未練をもっている男など、ある意味今の時代ではいかんというか駄目な男が描かれているが昭和生まれの自分には他人の話とは簡単に割り切れず考えさせられる部分も少なくなかった。やはりいつの時代でも『生きる』のは難しい。
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図書館で借りた本。
読み終えてすぐは、え、こういう終わり?と納得がいかなかったです。
もちろん、よい本だということは感じたけれど、何がそこまで素晴らしいのか私には理解できなかったと思いました。
でも、気がつくとずっとこの本のことを考えていて、どうして生きなければならないのかということに対して、生まれてはじめてその糸口が見えたような気がしたのです。
今まで、生きることをあきらめてはいけないと、ロビンソン漂流記に強烈な刷り込みをされていたのだけれど、「生きる」を読んでさらに強くなったような気がします。
それから余談ですが…けんの放った「ちくしょう」という台詞がものすごく怖ろしかった!
2話目はもう、涙なしには読めない程。
こんなに泣いたのは何年ぶりだろうというくらい。
もっと早く読みたかったし、例えば去年までに読めていたら今、こんなことにはなっていなかったのでは、なんて感じる程、素晴らしい作品だと思いました。
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中編3編
追腹をテーマにした「生きる」,娘を女郎に売った父と娘の矜持を描いた「安穏河原」,「早梅記」.武士というもののつまらない誇りのありようを,それぞれ形を変えて見せているようだ.それにしても女性たちの潔さ,清々しさは哀しくもある..
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山や谷のあまり無い静かに穏やかに ただ朴訥な武士の暮らしぶりが淡々と物語られていく。直木賞の「生きる」も良いけど「安穏河原」は余韻が残り「早梅記」は白梅のように元家政婦が凛としている。取り立てて凄い技も腕も才覚もない男たちだけど、ひたすらに無骨に生きることしか出来ない彼らにも ささやかな幸せらしきものがもたらされる みたい。物悲しくて哀れな男たちだけど不器用に生きることにも何かしら意味があるのだと感じさせてくれる三つの物語です。
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まだ途中。ブログにレビュー書きました。
http://mariko0202.hatenadiary.jp/archive/category/%E6%9C%AC2019