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タイトルの通り、足尾鉱毒事件の概略を学ぶにはわかりやすい。
足尾鉱山は、明治10年に古川市兵衛に経営が移った。明治16年から銅の生産量が急激に増え、上流部の松木村で被害が発生し始めた。明治18年に魚類が大量死し、明治23年の大洪水では、足利南東部から佐野南部に至る一帯の農地に被害が及んだ。※明治中期にベッセマー炉が導入されて燃料が薪炭から石炭やコークスに代わったため、亜硫酸ガスが大量に発生するようになった(生態系を蘇らせる)。
明治29年の大洪水では、4万7000ヘクタールの農地が鉱毒被害を受け、被害総額は足尾銅山の年間売上高の10倍の2782万円に達した。被害民は郡役所や県庁に請願したが、翌明治30年からは大挙して上京し、直接政府に請願する押出し行動を始めた。明治33年の第4回押出しの時に、被害民に警察隊が襲いかかる川俣事件が発生した。明治34年、田中正造は衆議院議員を辞職し、その1ヵ月半後に明治天皇への直訴を試みて失敗した。これを機に新聞各紙は鉱毒関係の論説を掲載するようになり、川俣事件の裁判が進むとともに世論の関心は高まっていった。
世論の高まりを恐れた政府は、明治35年に第二次鉱毒調査委員会を設置し、明治36年に委員会は渡良瀬川と利根川の合流点付近に遊水地をつくることを提出した。明治37年、栃木県議会で谷中村買収が可決され、買収工作や反対運動の切り崩しによって村を離れる人が増えていった。正造は、関宿の棒出しを拡げれば遊水地をつくる必要はないと考え、自らの治水論を実証するために明治41年から河川調査行脚を開始し、大正2年、その活動のさなかに倒れた。明治43年、政府が提出した渡良瀬川河川改修工事案が可決され、工事は昭和2年に終了した。
1947年から3年連続で大洪水をもたらした台風の被害を受けて、1950年に足尾ダムが建設された。
1956年、古川鉱業は自溶製錬方式の新型炉と接触式硫酸製造法を導入して、亜硫酸ガスを回収した。これによって政府は煙害が根絶されたことを認め、1960年に古川と損害賠償請求を放棄する協定を結んだ。
1958年、廃石や鉱滓の堆積場のひとつ源五郎沢堆積場が突然決壊して大量の鉱泥が渡良瀬川に流出し、2万数千戸の農家が被害を受けた。
1972年、足尾鉱山は埋蔵鉱石の枯渇と採掘条件の悪化によって閉山を決定した。※輸入鉱による精錬は、第二会社に移される1989年まで続いた。
1977年、草木ダムが完成。表向きは出水調節・発電・用水だが、上流から流れてくる鉱毒を沈殿させる役割を担っている。※高津戸地点での平水時は銅の水質規準0.06ppmを下回ることが多くなったが、豪雨時には規準値をはるかに超える鉱毒水が流出する。
1996年、流域で活動している5団体が足尾に緑を育てる会を発足し、植樹、下草刈り、観測会の行事を始めている。※近年は毎年100団体以上が実施している。