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シュルレアリズム展で購入。「シュルレアリスム」、「メルヘン」、「ユートピア」をテーマにした3回の「講演」録。『シュルレアリスムとは何か』と題しつつも、3つのテーマを包括した説明がいまいち尻切れトンボ。が、1つ目の「シュルレアリスム」は、入門的概説としては、それなりに理解しやすい。とは言え、文庫でお値段1200円。決してコストパフォーマンスがよいとは言えない。
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シュルレアリスム。メルヘン。ユートピア。
この三つの単語をそれぞれに調べ、外縁だけはわかったような気でいましたが、この三つを繋げる作業をしていなかったなあ、と思うに至りました。歴史的観点から、そして民族的観点から、多彩な方面から色々なことを見ることが必要かな・・・とも。
入門編としては良い本だと思います。
この三つを繋げられれば更に。
(2011.09.04)
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シュルレアリスムに興味をもったときに一番最初に読んだ一冊。
最初のシュルレアリスムの項目はとても分かりやすい。
語り口調で書かれており、親しみやすい本だった。
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シュルレアリスムとは、現実そのもの+本能だけど客観という理解で合ってるのかしら?さらにメルヘンとは、ユートピアとはとあわせて今まで思っていた理解と異なる考えを知りました。やや散漫ではあるがなるほど感あり。
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ほんのさわり程度の内容だが、わかったような気分になる。まあ話はわかりやすいし、とっつきにくかったシュルレアリスムがなんだか楽しくなってきて興味がわいてきたから、この手の本としては成功しているのじゃなかろうか。
シュルレアリスムの訳語は「超現実」だが、それは「現実離れ」とか「非現実」を意味しない。この「超」はいわば、「超スピード」的な使われ方であるという。シュルレアリスムが示す「超現実」はあくまで現実と地続きにある、しかしある点で現実を越えてしまって普段とは見え方が違ってきたりする、そういうもののことを言う。それ自体、現実に内包されている。
シュルレアリスムのまずは定義から、そして発見の経緯へ―こっちのほうが話としてはおもしろい。
文学の実験として行われた「自動記述」、それは普段の書くスピードをだんだんとあげていって、最終的には手が自動で動いているような状況をつくりだす、いわば「書く速さの実験」だった。
「書く速さ」をあげていくと文章からはまず主語が消え、そして動詞までも消えていく。残ったのは無秩序に並列される物と物、概念と概念のオブジェ世界。そこに客観だけの世界が築かれる。
「自動記述」は物を書くことが少なからず自動的であることを思い出させた。「自動記述」はランボーのいった「オン・ム・パンス」(だれかが私において考えている)の体験でもある。
絵画の世界にも「自動記述」の概念が及んで、その流れでコラージュやフロッタージュといった技術が生み出される。
エルンストは「人間というのは創造する力をもっているという一種の神話を信じていたけれども、それはウソではないかという。(略)そして、創造するんじゃなく、創造されるのだという」。そこまでいってしまう。
「本来あるべき場所から物あるいはイメージを移して、別のところに配置したときに、そこに驚異が生れる」ことを「デペイズマン」と言う。
こうして絵画の世界では主として「デペイズマン」のほうに注目してシュルレアリスムと呼ぶ風潮があるが、作者は「自動デッサン」と「デペイズマン」というふたつの流れを分断して考えることはできないという。
まあなんか不思議なことに、「デペイズマン」なんてのをやっていたら物と物が無秩序に並べられて、その風景がもともとの「自動記述」に似てきたと。そんな風なことらしい。
でもってシュルレアリスムと隣接する概念として、「メルヘン」と「ユートピア」を扱う。
メルヘン=おとぎばなしとは。
メルヘンと童話はまったく別ものであり、童話は「子供」という概念がうまれた比較的最近になって成立したもの
近代的な自我、個人の悲しみや喜びを描かない集団的な物語
時代と場所が非限定的(主人公の名も)
森が重要である。文化と対立するものとしての森。
「ファンタスティック」とは現実的レベルで考えて、説明しえない何事かが起ること。それに対して「フェーリック」とはそもそも、我々の現実とはまったくちがうレベルの世界、別世界の出来事をいう。
作者いわくシュルレアリスムとは「現実のなかにフェーリックをめざめさせようとする考え」。
〈ユートピア=理想国の定義〉
島。防壁がはりめぐらされている。町は直線道路が上下左右を区切る幾何学的な構造。管理社会。家の形・大きさも平等化・画一化されている。自然を矯正したり橋をかけるのが好き。土木工事も好き。ユートピアには時間=歴史がない。個性がない。裸が好き(矛盾みたいだけど!)。衛生観念が行き届いている。照明が多い=暗闇がない。デオドラント。貨幣経済を好まない。
規則性・反復性・合理性によって社会が営まれる。作者いわく、ユートピアは「時計・結晶・蜜蜂の巣」にそっくりだという。
ユートピアの反対として、アジア、自然、迷路、母権。
こんなにユートピア的な国はないという作者の、現今の日本批判は口が酸っぱいよー。
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■シュルレアリスム
×写実的な表現を否定
○オブジェクティブ=客観を押し出した思想。
※シュール・レアリスムと思われがちだが、切るとすれば、シュルレエル=超現実、椅子無=主義とされるべき。なので、日本で使われる、「シュール」という言葉はもはや意味が違ってしまっているようである。ちなみに、超現実と言うのは、超スピードみたいなもので、過剰だというだけであって、現実とは別物といった意味合いではないようである。そのため、あくまで現実との「連続性」をもったものが、シュルレアリスムであるとされる。
「自動記述」:シュルレアリスムの主要要素の一つ。アンドレブルトンなどが実践。ひたすら文字を書き続け、そのスピードを加速させてゆくとやがて簡潔かつ主語のなくなった文が出来上がる。ある意味、集合的無意識にでも到達したかのような一文である。
「デペイズマン=転置」:シュルレアリスムのもう一つの主要要素。コラージュ、レディメイドのオブジェなど、既成のものを置き換える、といったことによってシュルレアリスムを表現している。
■メルヘン
=フェアリーテイル=妖精物語=おとぎ話。
※妖精→運命の象徴。
≠童話
※童話とは、十八世紀以降の概念。そもそも、それまでは大人と区別されるべきでの子供がいなかった。いたのは小さな大人としての子供。そのため子供のための物語=童話はおとぎ話とは性質が異なる。
⇒メルヘンとはそれこそ集合的無意識による産物と言える。それこそ、狩猟時代や旅と言ったように、かつての我々の「記憶」が語り継がれているものである。ありふれた展開と表現しかないが、その分心理描写などもない。淡々と物語が物語られるわけだが、ありふれているのに消えないのはそれが我々の根底にある記憶だからなのではないか?世界各地に似たようなおとぎ話がある理由=集合的無意識=我々の太古の記憶。
※ちなみにメルヘンの特徴として、「非限定」というものがある。つまり、時代は昔であればいつだっていいし、登場人物も誰だっていい。昔々あるところに木こりがいました。というとき、昔はいつか特定されず、木こりも誰だか特定されえないのである。
≠寓話
※メルヘンには寓意=教訓はまるでない。
☆メルヘンの自我のなさ⇒シュルレアリスムの自動記述とリンクする?
☆フェーリックと、ファンタスティック。
フェーリック:我々の世界とは完全に異なる仕組み。別の世界に行く。
ファンタスティック:我々の世界と同じ世界に異質なものが生じる。目の前に、突然、化け物が現れる。
⇒そのため、フェーリックな物語を読んでも我々は驚かないし、ファンタスティックなものを読めば驚きうる。といった点で、おとぎ話=メルヘンはフェーリックな作品と言える。とすれば、この点はシュルレアリスムと異なる。シュルレアリスムはあくまで現実世界に異質なものが乱入するイメージなのでいくらかファンタスティック寄りとも言えるが、著者的には、もはやブルトンの自動記述によって記されたものはフェーリックとして捉えられるらしい���その点には納得できるが、そうすると、シュルレアリスムは現実とはまるで性質の異なるものとなってしまうわけだから、非現実的だという風に撮られてもおかしくない気が?
■ユートピア
ちなみに、西洋と東洋で、性質がまるで違うようである。
東洋:フェーリックな世界。つまり、まったりのんびりとした空気の桃源郷。⇒女性原理。
西洋:管理社会。法や区画が整備された社会。⇒男性原理。
※著者は、西洋のユートピアが体現された社会こそが現代の日本社会だと考える。
※ちなみに、西洋のユートピアはトマスモア以前に、プラトンなどでも描かれている。
※ユートピアは管理社会なので、「個性」はあってはならない。数値などで均一化され管理される。
ユートピア⇔迷路。
※実際には、プラトンなどが管理された国家という意味でのユートピアを唱えたのは、逆に管理国家が侵害される危機があったから、とも考えられる。
☆サドとフーリエ
サド:悪い意味でのユートピアの体現者。管理社会を推し進めれば、人間は「部品」になる。人間が組み合わさって椅子になったり歯車になったりするが、これは明らかに嫌なものである。つまり、ユートピアも推し進めれば最低なものとなることを証明。『ソドムの百二十日』
フーリエ:ユートピアをすべて徹底的に無邪気に肯定。すべてを宇宙的に捉える、さらには、性なども開放する、といった具合に、つまり、全てを徹底的に自由に開放してしまえばむしろそれこそむしろ徹底的に管理されているとも言える、自由であればあるほど自由はなくなるのである。という、二つの極みを貫いたのがサドとフーリエ。
■考察、感想。
著者の視点は鋭くそういった意味では面白い。この一冊は、シュルレアリスムで統一されるようである。ユートピアを乗り越えるものとして、あるいは対置されるものとしてシュルレアリスムは考えられるし、シュルレアリスムの土壌としてメルヘンが考えられる、とすれば、この三つは繋がってくるという意味合いで三題囃は成功しているとも言えるが、著者は基本的にストーリーを考えずに話をされるそうで、そのせいでか知らないが、結局作者が何を伝えたいのかがさっぱりわからないという結果となっている。純文学ならこれでいいのだけれども、教養図書としてはたしてそのスタンスはどうしたものやら?と感じる、評価が真っ二つに分かれそうではある。まあ、シュルレアリスム理解の柱をくれたのはありがたいけれど。自動記述とデペイズマン。つまるところ、客観性による現実打破。だが、それが、フェリックに繋がっていくとしたら、連続性はどこへといくのか?だがそれが太古の記憶へとつながるのなら、確かに今の世界システムとは異なるがかつてあったであろう世界システムという意味で、歴史的に連続しているとも言えるのか?そしてそれは常に現在=ユートピアと対置されうる性質をもちうるのか?とまで考えるとなかなか面白味のある議論だよね。
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3回にわたる講義録。「シュルレアリスムとは何か」「メルヘン」「ユートピア」に分けて。文学としてのシュルレアリスム関係の本はこれが初めてだったけど、かなり興味深く読んだ。これで終わるだけじゃなく、他の関連書籍にも興味が広がり、楽しい。
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新宿で「遊ぶシュルレアリスム」という展覧会が開催されているということで、シュルレアリスムについて知りたくて読んでみました。
芸術についての知識が皆無な俺でも分かりやすい言葉で書かれています。
だがしかし、俺の読み方が悪いのか「シュルレアリスムって何?」という疑問を解決できませんでした。
「辞書に書かれているシュルレアリスムや、一般に認知されている『シュール』とは違うんだよ」
というところから始まりましたが、それに対する明確な答えが示されていなかった感じがします。
著者はシュルレアリスムを専門に研究しているから「これがシュルレアリスムだ!!」と一行で説明することはできないのだろうな、と思います。
しかし、自動記述やデペイズやコラージュなどの概念はなんとなく掴めた気がします。
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現実的でありすぎるがゆえのシュルレアリスムという解釈。
超現実とは現実を超えて、別言すれば現実をかけ離れていることではなく、その逆だと著者は言う。ここは辞書的解釈とは異なる点。
現実の中にシュルレアリスムは既に存在している。
連関するメルヘン、ユートピアについての論及も面白い。
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[ 内容 ]
現実に内在し、ときに露呈する強度の現実としての超現実―シュルレアリスム。
20世紀はじめに登場したこの思想と運動について、ブルトンやエルンストを中心に語り、さらに「メルヘン」「ユートピア」へと自在に視野をひろげてゆく傑作講義。
文学・芸術・文化を縦横にへめぐり、迷路・楽園・夜・無秩序・非合理性などをふたたび称揚するとともに、擬似ユートピア的な現代の日本を痛烈に批判する。
いま、“幻想を超えて生きるには”。
[ 目次 ]
1 シュルレアリスムとは何か(シュルレアリスムという言葉;「超現実」とは何か;ワンダーランドと超現実、そして町 ほか)
2 メルヘンとは何か(メルヘンと童話とのちがい;おとぎばなしの発生;「眠れる森の美女」の例 ほか)
3 ユートピアとは何か(反ユートピアの立場から;トーマス・モアと大航海者;ユートピアさまざま ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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・シュルレアリスムとは、現実を超えた世界ではなく、強列に現実的であること。
・シュルレアリスムの世界は、現実の延長線上にあるということが肝。
・「桃源郷」と「ユートピア」の違いについて。
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とてもわかりやすく、読みやすい本だった。美術の知識がほぼ皆無の私にもよく理解でき、読み終わった後には良い満足感を味わうことができた。シュルレアリスム=超現実、この意味を様々な例を交えた上で説明されていたのでスッと頭に入る感覚で読み進められた。
最後の章のユートピアについては歴史とかなり深く関係しているようで少し複雑に感じたが、それは私の理解力と知識不足。
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現存するシュールは,どうも「シュルレアリスム」とは別物のようで,じゃあ本物の「シュルレアリスム」は何かと言われても,なかなか明快な例は思いつかない。現代では幻想ばかりが摂取され,ブルトンのいう思想は淘汰されてしまったのだろうか,わからない。
シュルレアリスムの解説書としては,明らかにわかりやすく易しい本である。実際にはシュルレアリスムの他に,メルヘンとユートピアについてもシュルレアリスムの延長線上に説明される。
あえていうなら,わかりやすいゆえに危険な本に類いするものだと思う。シュルレアリスムの誤解を解こうというのは良い,しかしこの手の記述は著書の思う世界そのものへと引き込んでしまうことを念頭において読むべきだろう(ユートピアと現代日本の批判のあたりで大体気づくだろうが)。
本書は入門書であるには違いないが,学術書としてはおそらく機能しない。本来の意味でのシュルレアリスムを知りたいのであれば,まずはブルトンの著書に目を通すべきであろうし(それで幻滅する可能性は大いにある),その派生系の流れを自分で辿る必要がある。その辺りは酒井健「シュルレアリスム」が一つの参考として挙げられる。
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シュルレアリスム、メルヘン、ユートピアという言葉が日本において通用している意味とは全くと言っていいほど異なる対象を指している事がよくわかった。
上記の3概念のそれぞれに人々に共通の無意識的なものを露わにする機能が含まれていると考えると、思想としての奥行きの深さが伺える。
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あとがきで巖谷さんも述べていますが、本書『シュルレアリスムとは何か』では、そのダイダロス的迷宮としてのシュルレアリスムにおいて、ミノタウロスの姿こそ見せたものの、その全貌は明らかにされていません(要は宙吊り)。
確かに、語り始めるときっとキリがないのでしょうが、それでも十分にレリーフしてくれているので、とってもためになるしありがたい本でした。
そして、なんと言っても特徴的なのは、この本が講義の内容を文字に起こしたものだ、ということで、その内容自体が幾分か「自動筆記」的であって面白いんですよね。「シュルレアリスム」「メルヘン」「ユートピア」と話題を転じて論じながらも、巖谷さんの言う連続性が垣間見えるような気がして、読み物としても興味深かったです。