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紙の本
要するに、世界や事物に対する、未知の見方の開示によって、世界や事物への、新しい意味付けや価値を創造することが、芸術作品の、芸術作品らしさ、すなわち「真理」・「美」である。ということを述べている。
2009/06/24 22:53
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ホキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
要するに、世界や事物に対する、未知の見方の開示によって、世界や事物への、新しい意味付けや価値を創造することが、芸術作品の、芸術作品らしさ、すなわち「真理」・「美」である。ということを述べている。
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このテーマと、物を「物」「道具」「芸術作品」の三段階で論じた議論や「世界」「大地」といったキーワードは、次のようにかみ合っている。
「物」は、人による意味づけや、価値大系の関連に位置づいていないという点では、「芸術作品」が発見して開示すべき、世界への未知の見方を(実はすでに)有している。
そのことは、「物の物性」が「通常のものがそれに起因するあの異常なもの」(p.21)とか「物の本質に属するあの奇異の感を抱かせるもの」(p.34)とか言われていることと対応している。つまり、まだ、意味付けを帯びていない「物」は、逆にいえば、これ以後、付与される意味付けの可能性は無限である。つまり、1個の石なり、棒きれなり、どんな「物」でも、それを「直観する」(p.143)とき、その存在は無限となるのである。
一方、「物」は、人の意味や価値に働きかけずに、「それ自体の内に安らっている」(p.34)点では「芸術作品」と異なる。それゆえに例えば「石は無世界的である」(p.59)と言われるのである。
なお、人が、外的世界を認識するに当たって参照する、意味や価値大系のより合わせよりなる内的世界は、ハイデガーの言う、「尺度と限界」(つまり、無限ではないのである)(p.92)、「諸関連」(物事同士の見方・事物と価値との関連が定まっている)(p.98)である。
「道具」については、次のように言える。
ハイデガーが言う「『世界』」とは、「物の物性」に代表される、存在規定の可能性を無限に有した状態である。しかし、その可能性は、未来においての可能性であって、今現在、物のリアルな存在のためには、その可能性のうちの1つが選択され、他の可能性が捨てられなければならない。
そして、「世界」の多様な可能性の中の、ある1地点に根を下ろし、意味が固定化された状態が、「世界」の対義語「大地」なのである。その、「大地」の典型例が「道具」である。
このように「道具」は、一方で、意味が固定化した物である。
他方で「道具」は、「外部の尺度に従属する物」という属性でもある。本書で、「道具」の評価が妙に低いのは、その従属するありさまが人間に投影された結果である。
「道具」とは、「~~のために存在する物」である。本書の言葉では、道具自身の存在が「有用性の内に消失している」状態である。これを人間にあてはめると、例えば、成績・成果・金銭的価値などの単一の尺度に人間がはめ込まれる、人間性喪失の状態となる。これは、ハイデガーが追究したテーマ、「世界内存在」としての「現存在」とは真逆なのである。
なお、「~~のために」の反対は、端的に言うと「自己固有化」(p.121)である。
こうして、「芸術作品」は、物の物性としての「世界」、すなわち世界や事物に対する、未知の見方を、現在の「大地」に開示することで、世界や事物への、新しい意味付けや価値を創造するのである。
つまり「芸術作品」は、未知の「世界」と、現在の「大地」の間の距離感(「亀裂」)を「調停」し、創造された価値を「据える」のである。
「物の物性」の、無限の存在それ自体は、「奇異の念」を抱かせる「異常なもの」である。それに一定の秩序(意味)を付与し、かつ現在の固定化した意味を新鮮に更新することが、芸術作品の根源なのである。ハイデガーはこれを「日常的な諸関連を変更」する(p.98)と言っている。
ところで、たいていの場合、「世界」は、「未来」と言い換えが可能で、「大地」は「現在」と言い換え可能である。
この「現在」としての「大地」は、それ以前の生活や事物の文脈に規定されているという意味では、「過去」を背負っている。
こうして「存在」とは、「過去」を背負った「現在」と、新たな文脈が生起する「未来」の機構でもある。そのようなわけで、個人レベルでも民族レベルでも、芸術作品が「歴史的」であると言われるのである。
『芸術作品の根源』は、「芸術作品」を通して、存在一般を洞察しようとした書でもある。「存在」は、「過去」「現在」「未来」の、意味付けや意味付け可能性である。このようなわけで、本書のベースを成す存在論が『存在と「時間」』であることが容易に理解されるのである。
なお、「大地」や「真理」の主体は誰か?それは、作品の作者か鑑賞者である。ということは、「世界」「大地」「真理」は、個人的なニュアンスも含む。
本書では、この論点は終盤に「受け手」としてわずかに表れたのみだが、実は、
自分にとっては「芸術作品」を通して他者が価値の源泉であり、他者にとっては「芸術作品」を通して自分が価値の源泉である、という事態も考えられるのではないだろうか?
こうして、本書がかすりかけた「受け手」の概念から、メルロ‐ポンティ的な、自分と他者の存在の両義性の議論へ発展する契機が含まれていたものの、そこまでたどり着かずに終わってしまった。
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