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評価内訳

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高い評価の役に立ったレビュー

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2011/11/12 09:18

第二次大戦時、アメリカに住んでいたトーマス・マンにとって、日本とは何だったのか

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書がその1冊であるトーマス・マン日記は、その分量だけでも極めつきといえる長さを誇るが、20世紀を代表する作家の手になる持続的で、正面から自身の作品と世界に向き合ったその内容においても極めつきの文書といえることは間違いない。
 現在、紀伊國屋書店から刊行されているこの世界的文豪の日記は、最初に出た『トーマス・マン日記1933-34』が1985年刊であり、一番新しい『1951-52』が2008年刊であるが、マンが亡くなった1955年まで日記はつけられ、原著も刊行されており、ただいまも翻訳進行中である(と思う)。完成すれば、最も長く、最も貴重なドキュメントの一つとして最大限の評価がされるはずだ。
 もちろん現時点においても、8冊になる訳書が貴重であるのは言うまでもない。なにしろ一番厚い『1940-43』の巻など1280ページもあり、そのほかの巻もすべて700ページ以上にのぼる。しかも本文は2段組みであり、丹念に編者によってほどこされた大量の原注は相当に細かい文字組みである。本文と注の部分すべてを合わせた収録分量がどのくらいか計算するのが恐ろしくなるくらいだ。
 私は以前、1997-8年ごろ、その時点までに刊行されていた日記を拾い読みしながら覚束ないかたちでマンにおける日記の意味を考えたことがあったが(それは主としてマンの同性愛者的側面にふれたものだった)、今世紀に入り、別の観点から、この日記に関心をもった。
 それは第二次世界大戦時における日本、つまり日本の戦争について、外部からどのような視線がそそがれていたかを、いろいろな日記のなかに読みたいためであった。その時点において人々はどのように日本とその戦争を見ていたのか、考えていたのかを、日記という同時代のドキュメントを通して知りたいためだった。トーマス・マン日記はその資料の一つということである。

 さてヒトラーのドイツからあやうくのがれたマンにしてみれば、戦争におけるドイツの帰趨が最大関心事であるのは当然であって、この日記を読んでいくと、やはり圧倒的にその記述が多い。この当時、彼が居を定めているアメリカという国の敵はドイツだけではない。太平洋を舞台に日本とも激しい戦火をまじえており、マンが読む新聞にもその情報は逐一載っていたことだろう。だがマンの日記に日本のことが書かれるのは、ドイツのことにくらべて実に少ない。
 それは当たり前だとは思いながら、なんとなく日本がないがしろにされているという気持ちが消えない。どのような記事がアメリカの新聞に載ったか不明だが、マンの日記には、たとえば硫黄島の激戦も、東京の空襲も、また沖縄戦の記述もない。
 日本のことが日記にそれなりに登場するのは、やはりドイツが片付き、世界にとって日本だけが残された唯一の敵となってからである。
 とりわけ決定的なのは原爆の投下であり、それに続く戦争の終結である。
 《分裂させられた原子(ウラン)の力が作用する爆弾がはじめて、日本への攻撃に使われる。》(1945年8月6日)
 《新聞は原子爆弾と、多くのユダヤ人学者が登場するその発明の物語の記事を満載している。》(8月7日)
 《原子爆弾による広島市の不気味な破壊について。》(8月8日)
 《二番目の(あるいはいくつめかの)原子爆弾、長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲。ロシアと日本の戦闘、満州国で展開。》(8月9日)
 《日本の降伏について不確かなうわさと電話情報(レイデ)。確認されたのは、スウェーデンとスイスを通じて「天皇の命により」降伏の申し出があったことと、唯一の条件が天皇家の存続ということ。》(8月10日)
 《日本に対して、勝者の命令に同意できるようにするためにミカドの存続が許される旨と、民族自身でのちに天皇家の存廃を決定していいという条件が示された。》(8月11日)
 《日本の回答が待たれる。どうやら内部に深刻な闘争があるらしい、少なくとも精神的な。天皇の自殺もありうると言われている。》(8月12日)
 《食後、新聞各紙。日本はまだ決断しない。》(8月13日)
 《午後遅くラジオをつけっ放しにしておく。日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる。》(8月14日)
 《新聞は、諸都市で大衆が激しい喜びをぶちまける様子を伝える記事であふれている。日本、悲劇的にしてグロテスク。陸軍大臣の自殺、支配者に対する奉公に足らざるところがあったためだという。皇居前には、赦しを請い、身をかがめるおおぜいの人々。そこには、敗北を一時的なものと考えよ、決して、決して忘れるな、復讐せよ、などといった、いかにも無分別な公然たる脅迫がある。》(8月15日)
 こういったマンの日記の記述を通して、アメリカの新聞報道の内容、様子がそれとなく判断できるとともに、マン自身の日本への理解度(それは彼が生まれ、育った国に対するものとは全く違う)もまた識別できる。
 ともあれ1945年7月までの日記を拾い読みしながら私が感じたのは、日本についての記述の希薄さというものだった(全然ないわけではないが)。そしてなんとなく、その希薄さを切り裂くように原爆の閃光がある、というイメージがある。

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低い評価の役に立ったレビュー

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2002/08/13 22:15

紀伊國屋書店は、この『日記』の刊行だけでも、存在意義あり!

投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 紀伊國屋書店出版部は、この『日記』を出しているだけでも存在意義がある。
 一九八五年から第一巻の刊行が始まり、八八年、九五年、〇〇年、〇二年のペースで、ようやく五冊まできた。残りは、四六年大晦日までの分で、遂に完結予定である。訳者、版元両者に頭の下がる仕事だ。
 四五年四月三十日、ヒトラーが自殺した。この日のマンは以下のようなことを書いている。
〈[『ファウストゥス博士』の]「第二十六章をよどみなく書き進める。散歩。食後、ムッソリーニのあわれな最期について新聞で読む。ヒトラーがまだ生きている否かはまったくどうでもよくなった。ヒムラーはデンマークかリューベックにいる。無条件降伏を表明することができ、そのさい自分の命が助かることを、おそらくはまだ望んでいるただ一人の男である。
 みじめなリベントロプはドイツの「パルティザン」に捕らえられたとのことだ。ミュンヘンではなお狙撃兵との戦闘。ナチ幹部のあいだで相継ぐ自殺、ドイツ女子青年同盟最高指導者、位は将軍。
 ——お茶に二人のスイス人、「新チューリヒ新聞」特派員とスイス領事。目前に迫ったドイツ再建をめぐるアメリカとロシアの競争について。——晩、ブッシュの回想録を読む。——新しい「フランクフルト新聞」の創刊号、二面に『ボン書簡』〉。この短い日記に訳註が七つも付いている。そのためにおそらく時間がかかるのかもしれない。
 翌五月一日に「(略)——ヒトラーの死が、ヒトラーがみずからその後継に任命したデーニツにより、ドイツ国民と軍隊におごそかに伝えられた。(略)しかしヒムラーはヒトラーをとっくに死んだものとして取り扱っており、ロシア抜きの和平を申し入れた」。
 みられるように、とてつもなく面白い読物でもある。図書館は全館揃えて欲しい。

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紙の本

第二次大戦時、アメリカに住んでいたトーマス・マンにとって、日本とは何だったのか

2011/11/12 09:18

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書がその1冊であるトーマス・マン日記は、その分量だけでも極めつきといえる長さを誇るが、20世紀を代表する作家の手になる持続的で、正面から自身の作品と世界に向き合ったその内容においても極めつきの文書といえることは間違いない。
 現在、紀伊國屋書店から刊行されているこの世界的文豪の日記は、最初に出た『トーマス・マン日記1933-34』が1985年刊であり、一番新しい『1951-52』が2008年刊であるが、マンが亡くなった1955年まで日記はつけられ、原著も刊行されており、ただいまも翻訳進行中である(と思う)。完成すれば、最も長く、最も貴重なドキュメントの一つとして最大限の評価がされるはずだ。
 もちろん現時点においても、8冊になる訳書が貴重であるのは言うまでもない。なにしろ一番厚い『1940-43』の巻など1280ページもあり、そのほかの巻もすべて700ページ以上にのぼる。しかも本文は2段組みであり、丹念に編者によってほどこされた大量の原注は相当に細かい文字組みである。本文と注の部分すべてを合わせた収録分量がどのくらいか計算するのが恐ろしくなるくらいだ。
 私は以前、1997-8年ごろ、その時点までに刊行されていた日記を拾い読みしながら覚束ないかたちでマンにおける日記の意味を考えたことがあったが(それは主としてマンの同性愛者的側面にふれたものだった)、今世紀に入り、別の観点から、この日記に関心をもった。
 それは第二次世界大戦時における日本、つまり日本の戦争について、外部からどのような視線がそそがれていたかを、いろいろな日記のなかに読みたいためであった。その時点において人々はどのように日本とその戦争を見ていたのか、考えていたのかを、日記という同時代のドキュメントを通して知りたいためだった。トーマス・マン日記はその資料の一つということである。

 さてヒトラーのドイツからあやうくのがれたマンにしてみれば、戦争におけるドイツの帰趨が最大関心事であるのは当然であって、この日記を読んでいくと、やはり圧倒的にその記述が多い。この当時、彼が居を定めているアメリカという国の敵はドイツだけではない。太平洋を舞台に日本とも激しい戦火をまじえており、マンが読む新聞にもその情報は逐一載っていたことだろう。だがマンの日記に日本のことが書かれるのは、ドイツのことにくらべて実に少ない。
 それは当たり前だとは思いながら、なんとなく日本がないがしろにされているという気持ちが消えない。どのような記事がアメリカの新聞に載ったか不明だが、マンの日記には、たとえば硫黄島の激戦も、東京の空襲も、また沖縄戦の記述もない。
 日本のことが日記にそれなりに登場するのは、やはりドイツが片付き、世界にとって日本だけが残された唯一の敵となってからである。
 とりわけ決定的なのは原爆の投下であり、それに続く戦争の終結である。
 《分裂させられた原子(ウラン)の力が作用する爆弾がはじめて、日本への攻撃に使われる。》(1945年8月6日)
 《新聞は原子爆弾と、多くのユダヤ人学者が登場するその発明の物語の記事を満載している。》(8月7日)
 《原子爆弾による広島市の不気味な破壊について。》(8月8日)
 《二番目の(あるいはいくつめかの)原子爆弾、長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲。ロシアと日本の戦闘、満州国で展開。》(8月9日)
 《日本の降伏について不確かなうわさと電話情報(レイデ)。確認されたのは、スウェーデンとスイスを通じて「天皇の命により」降伏の申し出があったことと、唯一の条件が天皇家の存続ということ。》(8月10日)
 《日本に対して、勝者の命令に同意できるようにするためにミカドの存続が許される旨と、民族自身でのちに天皇家の存廃を決定していいという条件が示された。》(8月11日)
 《日本の回答が待たれる。どうやら内部に深刻な闘争があるらしい、少なくとも精神的な。天皇の自殺もありうると言われている。》(8月12日)
 《食後、新聞各紙。日本はまだ決断しない。》(8月13日)
 《午後遅くラジオをつけっ放しにしておく。日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる。》(8月14日)
 《新聞は、諸都市で大衆が激しい喜びをぶちまける様子を伝える記事であふれている。日本、悲劇的にしてグロテスク。陸軍大臣の自殺、支配者に対する奉公に足らざるところがあったためだという。皇居前には、赦しを請い、身をかがめるおおぜいの人々。そこには、敗北を一時的なものと考えよ、決して、決して忘れるな、復讐せよ、などといった、いかにも無分別な公然たる脅迫がある。》(8月15日)
 こういったマンの日記の記述を通して、アメリカの新聞報道の内容、様子がそれとなく判断できるとともに、マン自身の日本への理解度(それは彼が生まれ、育った国に対するものとは全く違う)もまた識別できる。
 ともあれ1945年7月までの日記を拾い読みしながら私が感じたのは、日本についての記述の希薄さというものだった(全然ないわけではないが)。そしてなんとなく、その希薄さを切り裂くように原爆の閃光がある、というイメージがある。

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紀伊國屋書店は、この『日記』の刊行だけでも、存在意義あり!

2002/08/13 22:15

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投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 紀伊國屋書店出版部は、この『日記』を出しているだけでも存在意義がある。
 一九八五年から第一巻の刊行が始まり、八八年、九五年、〇〇年、〇二年のペースで、ようやく五冊まできた。残りは、四六年大晦日までの分で、遂に完結予定である。訳者、版元両者に頭の下がる仕事だ。
 四五年四月三十日、ヒトラーが自殺した。この日のマンは以下のようなことを書いている。
〈[『ファウストゥス博士』の]「第二十六章をよどみなく書き進める。散歩。食後、ムッソリーニのあわれな最期について新聞で読む。ヒトラーがまだ生きている否かはまったくどうでもよくなった。ヒムラーはデンマークかリューベックにいる。無条件降伏を表明することができ、そのさい自分の命が助かることを、おそらくはまだ望んでいるただ一人の男である。
 みじめなリベントロプはドイツの「パルティザン」に捕らえられたとのことだ。ミュンヘンではなお狙撃兵との戦闘。ナチ幹部のあいだで相継ぐ自殺、ドイツ女子青年同盟最高指導者、位は将軍。
 ——お茶に二人のスイス人、「新チューリヒ新聞」特派員とスイス領事。目前に迫ったドイツ再建をめぐるアメリカとロシアの競争について。——晩、ブッシュの回想録を読む。——新しい「フランクフルト新聞」の創刊号、二面に『ボン書簡』〉。この短い日記に訳註が七つも付いている。そのためにおそらく時間がかかるのかもしれない。
 翌五月一日に「(略)——ヒトラーの死が、ヒトラーがみずからその後継に任命したデーニツにより、ドイツ国民と軍隊におごそかに伝えられた。(略)しかしヒムラーはヒトラーをとっくに死んだものとして取り扱っており、ロシア抜きの和平を申し入れた」。
 みられるように、とてつもなく面白い読物でもある。図書館は全館揃えて欲しい。

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