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20/3/10
人間がじっっさいに欲しているのは幸福であることの根拠を持つことなのです。そして、人間がいったんその根拠を持てば、おのずから幸福感は生じてくるのです。
幸福感を直接に目指せば目指すほど、彼は幸福でありうる根拠を見失い、幸福感そのものは崩壊するのです。
「最も人間的なことは、人に恥をかかせないようにすることだ」ニーチェ
あることを考えたからと言って、それが実現されるわけではない。それとまったく同様に、あることをもはやかんがえなくなったからといて、それが無に帰してしまうわけではない。
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これはナチスによる強制収容所を生き抜いた精神科の医師の講演をまとめた本である。何故、わざわざ「強制収容所」を持ち出すかと言えば、そのことを前提にせずとも著者の主張は説得力を持ってはいるのだが、その異常な体験において著者が自らの精神活動を観察したことが主張を裏づける大きな根拠になっているのだということが、容易に想像できるからである。著者は、あの「夜と霧」を書いた人である。
個人というものの存在のあり方、それは「なになにすべきもの」としてのあり方と言ったらよいかもしれないものについて、自分はいつも考える。個人のことにしか興味がない、というと隔絶しているニュアンスが強過ぎるが、単純に言って、自分の精神活動以外の精神活動は、インプットされる存在としてはそこにあるけれど、何かしら自分とは独立した精神活動としてあるもの、という認識は無意識に閉め出していることがある。まず、そのことがこの本を読んで最初に思ったことだった。
著者も個人に眼を向けている。それは、難しい言葉で「現存在」としての個人であって、「相在」としての個人ではないという。この本にはこのような実存哲学周辺の言葉がたくさん出て来るが、ひとつ一つの言葉の意味は著者の言葉に置き換えられているおかげで、了解するのに苦労する感じはうすい。勿論、根本的理解とは違うのかもしれないが、何故著者がその言葉を使って何かを語ろうとするのか、容易に理解可能な範囲に差し出されている。それはまた、この著作が講演を基にしたものであることにも関係があるとは思うが、著者の主張が個人を中心とした考えの延長にあるため自分にとって親しみ易いものであることも一因となっている。
この本には、はっとして、メモしておきたくなる言葉がたくさんある。例えば、次のような言葉が、少なくとも今の自分には、警鐘として、あるいは言いたかったことの代弁として、ぐぐっとくる。
「還元主義は現代のニヒリズムです。」
「実存主義にとって真なるものは人間の無ではなく、人間の非・事物性なのです。」
還元主義の限界というものを日頃から感じてはいても、そう思うのは、ひょっとして自分が知らず知らずの内に意識している東洋的宗教観のようなものに由来している「感情的拒絶」なのではないか、ということを多少疑っていたのだが、そのもやもやしたものがこの本によって、吹き払われるように思う。そもそも、そのような、もやもや、がどうして起こるのかをフランクルは説明してくれるのだが、その中心となるのが、「人間を人間たらしめているものは『意味への意志』である」という主張である。つまり人は意味を求める存在なのだ、ということだ。
ここで、自分も含めて多くの科学的態度を取る人々が陥り易いのが、「では人間にとっての意味、つまり今を生きているこの自分という存在の意味はなにか」という疑問の追求である。それが頭で考えても答えのでてくる疑問ではないことは、うすうす感づいてはいても、うまい解決がないまま宙ぶらりんにされている、というのが実際のところではないか。
この本を読むまで、自分はこの問題に対して養老孟司の主張する「存在そのものは体の���題であり、意味を問うことは頭(脳)の問題である。体のことを頭(精神活動)で全て意味付けようとすることは間違いである。」という考えに共感を覚え、そのように自分でも納得することにしていた。フランクルの主張は、この考えの延長上にあるようにも自分には思えるが、それは簡単に言い表すと「自己超越」ということだ。
この自己超越というのが、実は禅でいうところの「半眼」に似たことだと思い至る。悟りとは、考えていないという状態に達した時点で成される、ということだ。幸せになろうと人は希求する。しかし、望みが果たされたところで永遠に幸せになれるわけではなく、希求する気持ちはなくならない。なぜならそれは「考えていないとはどういうことか、と考えている行為」に等しいからだ。そのことをフランクルは、ヤスパースの「人間が本来あるところのものになるのは、彼が自分のものにする事柄を通してである。」という言葉を添えて、こう表現する。
「人間は自己自身を超えて充たされるべき意味に達する。」
その過程が、過程そのものとして意味なのだ、と。過去は決して無ではなく、永遠に存在するものだ、と。その主張に思わず、うなる。
人生の意味ともつながる問題だが、人間の本質は自由である、ともフランクルは言う。そして、それは誰にも奪えないものだ、と。奪えるのは、肉体を含めて「所有」だけだ、とも。この言葉は重い。著者の生きて来た過去そのものがその言葉の証明になっているからだ。しかし、ここで、「では自由とはなにか」と再び問う。一般にそれが「なになにから自由」という形で了解されているのではないか、と問うのだ。彼の主張は、自由は「なになにへの自由」という形で了解されなければならない、というものだ。そのことの動機となるのが「意味への意志」なのだ。強制収容所で「生きて帰らなければ、この苦痛に耐えることには意味がない」と思うか、「この苦痛、あるいは死にはどんな意味があるのか」と問う自由な意志。その違いを彼は主張する。深く染み入る言葉だ。
著者の主張の背後には「一神教の神」というものが厳然として存在していることは明らかで、その点は自分にとって距離を置きたくなる考えだが、この本で主張されているのは、静かな「教え」であるとも、自分には感じた。暗転の向こうに神がいようがいまいが、それが何人であろうとも、人生は明るい舞台の上でだけ起こることであり、宗教観とは関係のない文脈としても理解できる、ということも著者は教えてくれる。舞台の上の演奏は一瞬のものであるが、だからといって意味がないのではなく、また演奏したことが消えてなくなる訳でもない。その残ったもの、演奏された音楽ではなく演奏したということそのもの、それが人生の意味なのだ。そして、それは演奏が終わった時に初めて残るものなのだ。
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ユダヤ人強制収容所で過ごしたことのある、
心理学者ヴィクトール・E・フランクルの作品。
『夜と霧』『生きる意味への問い』
が有名。
「難しいものをよまないと、頭がふやける」
といわれたので、読んでみました。
・・・
!?
難しい。
理解できた部分だけ述べます。
人間存在の時間性の構造の話。
過去は過ぎ去るものではなく、
永遠に残るもの。
だからこそ、
常に今の自分の行動で何をすべきかが問われていると。
この話を、砂時計を比喩にしたのが
分かりやすかった。
落ちた砂は無くならない。
積もり、自分を形成していく。
そして、今の行動という砂がさらにその上にのり、
未来の自分をつくる。
『過去の行動が今の自分をつくり、
今の行動が未来の自分をつくる』
ってのに共感。
生きることに意味を失わず、
意志を持って生きる意味を問いかける
うん、深い
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人間は「意味を求める存在」である、という主張は、おおむね共感できるが、アメリカ流自我心理学/個人心理学の臭いがして、全面的には賛同できない。
とはいえフランクルの思想は強制収容所を体験して到達したものなので、そう思うとやはり重みを感じてしまう。
実存主義の流れも受けており、この本は随所に興味深いものがあった。
講演をまとめたものなので非常に読みやすいが、論文も読んでみたい。
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人間は意味を求める生き物。ではその意味はどこから得られるのか。
以下、本文で心に残った部分のメモです。
p7.
人間は、動物とは異なって、何をなさねばならないかを本能から告げられることはないし、また現代の人間はもはや、何をなすべきかを伝統から告げられることもない。その上、人間はもはや、自分が何を本当に意志しているのかを知らないうように思われることもしばしばである。それだけに人間は一層、他人がなすことだけを意志しようとするか、あるいは他人が意志することだけをなそうとするか、のいずれかになる、と。前者は画一主義に至り、後者は全体主義に至るのであります。
p.14
自己実現を目標に据える者は、次のことを見落とし忘却しているのです。すなわち、人間は結局のところ意味を満たすー自分自身の内においてではなく、自己の外、世界において意味を充たすーその程度に応じてのみ自己を実現することができるということです。言い換えれば、自己実現は目標として設定されるものではなく、私が人間的実存の「自己超越」と呼ぶところのものの副次的結果として生じるものなのです。「自己超越」という言葉で私が理解しているのは、人間存在は自己自身を超えて、自己自身ではない何かー何かあるものや誰かある人、すなわち満たされるべき意味や自己が出会う人間存在ーに自己を差し向けるという根本的事実です。「人間は、本来あるところのものに成らなければならない」というピンだロスの命令は依然として有効です。しかし厳密に言えば、この命令は、カール・ヤスパースの次の言葉を補足することによって初めて有効なものになります。すなわち、「人間が本来あるところのものになるのは、彼が自分のものにする事柄を通してである」。自己実現の代表的主張者であるアブラハム・マズローも同様の見解を表明しているます。「自己実現を直接的に追求する人々は、人生の使命から切り離されて、実際に自己実現を達成することはないというフランクルの経験は私のそれと一致する」。
p.28
われわれは無意味感の蔓延する時代に生きています。こんなわれわれの時代には、教育は、単に知識を伝えることだけでなく、良心を洗練することをも心がけなければなりません。その結果、人間は、状況のひとつひとつに内在している命令を聞き取ることができるほどに耳ざとくなるのです。十戒がかくも多くの人々にとってその妥当性を失っているように見えるこの時代には、人間は、人生が直面させる一万の状況のうちに暗号化されている一万の命令を聞きとることができるようにならねばなりません。そのときには、まさにこの彼の人生は新たに意味に充ちたものに思われるようになり、またそればかりか、画一主義や全体主義ーーあの実存的空虚の二つの併発症状ーに対する免疫性も彼自身に与えられることになるでしょう。というのは、良心の覚醒によってのみ、人間は「抵抗」力をつけ、その結果、まさに人間は画一主義に同調したり全体主義に屈服したりしなくなるのですから。
p.29
意味というものは与えられうるものなのではなく、見出されねばならないものなのです。意味を与えることは、道学者のお説教にすぎません。
p.30
善悪の決定ということは、教育者にも精神科医にもできません。それに古い意味での道徳も間もなくその役目を終えてしまうでしょう。ということはつまり、われわれは遅かれ早かれ、もはや道徳を説くのではなく、道徳を存在論化することになるでしょう。つまり、善と悪は、われわれがなすべきことまたはなしてはならないことという意味で定義されるのではなく、人間に委ねられ求められている意味の充足を促すものが善と考えられ、そのような意味充足を妨げるものが悪と見なされることになるでしょう。
道徳はしかし、存在論化されるだけでなく、さらに実存化もされねばなりません。われわれは価値を教えることはできませんーわれわれは価値を生きなければならないのです。
そして、われわれは他者の人生に意味を与えることはできませんーわれわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞として彼に与えることのできるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごとの存在という実例だけであります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えなのです。
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「存在が過去存在の内に永遠化される」
「すべては我々が何を現在の中に、瞬間の中に創り入れるかということにかかっている」
「人間は誕生によって世界の中に生まれるのではなく、死によって初めて自分を世界の中へ生む」
って考え方は、人を「生」へ、「良心」へ向かわせるためのかなり強力な考え方だと思った。誰も見ていないから、いつか忘れ去られてしまうからなんてことは問題じゃないわけです。自分はどちらかというと過去を振り返って、ひゃああああ!あの無駄な時間も数々の愚行も全て永遠化されてるうぅぅ!!って思いの方が強かったけど、この一瞬一瞬の決断を大事にしようという気になった。永遠化されるから何だというのだ、と言われるとそれまでかもしれんけど、そう思うようになったら、そこまで自暴自棄になったらもう駄目かも。
全体的に実存主義以外の主義・手法に対する断定的なもの言いが気になるけど、この部分があるだけで読む価値はあった。
あと、過度の自己解釈には気をつけなきゃなぁと思った。
「仮面を剥ぐ心理学者が、まさに仮面の剥がしようのない何か真実なるもの、真に人間的なるものに突き当たるところでは、仮面を剥ぐことを中止しなければならない。もし彼がそこでもなお仮面を剥ぐことを中止しないのとすれば、その時彼はただ一つの仮面を剥ぐにすぎない。即ち人間における人間的なものを貶め、その価値を引き下げたいという、彼自身にとっても無意識である欲求を暴露するにすぎない。」
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今朝も決まった時間に起きて職場行って帰って飯食って、んで寝る。明日もまたおんなじ一日。これって続けていていいのかな、もっと大事な何かが…いや、そもそも俺の存在ってどれほどの意味が…。
あなたの存在の意味は、あなた自身が感じるべきものです。とりあえず明日は仕事、いったん休め。 そんな風に、認めてくれる一冊。
1905年ウィーンに生まれ、ナチスによって強制収容所で家族の大半を失うも、精神療法医としてウィーン大学、合衆国国際大学特別教授を歴任した著者による一冊。
実に麻薬中毒患者の100%が心の奥底で囚われていた倦怠感、過度の自己解釈癖と無意味感、および「にほかならない: nights als」という決めつけの言い回しに由来するニヒリズムがもたらす精神的荒廃について警鐘を鳴らし、寛容と意味付けを助けるロゴセラピーによる打開の真髄に触れられる一冊。
意味を求める人の性質をして、二千年前に書かれたというタルムードの一節は、大変重要だと感じました。(以下抜粋)
「たとえ、たった一つの魂であっても、それを滅ぼしたものは、全世界を滅ぼした人間に等しいとみなされるべきであろう。そして、たった一つの魂であっても、それを救ったものは、全世界を救った人間に等しいと見なされるべきであろう。」
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「実存的空虚」というタームは、私にとって深く心に突き刺さった言葉であった。毎日毎日、時間に追われて労働をし、くたびれた体を引きずって家に帰って、「今日は何をなし得たか」と問うとき、私の心が返してくるのはまさに「実存的空虚」である(もっとも、帰りの電車で、魂が抜けたように口をあんぐり開けて夢を見ているときも、私自身があちらの世界に行ってしまっているという意味において、まさに実存的空虚なのだが笑)。この本を読みつつ、現代の社会において、このような空虚さを抱えて生きている人は少なくないのではないか、そんなことを考えた。
ではそのような空虚さを抱える人間が、移ろいやすい時代の中で移ろいやすい肉体や考えを持って生きることは、所詮虚しい営みにすぎず、大いなる過去というブラックホールに吸い取られて雲散霧消してしまうことを意味するのか。
この問いに対してフランクルはそうではないという。
「『われわれが墓場の中にもっていけるものは何もない』のは言うまでもありません。けれども、人生の全体、つまりわれわれが生き、死において生き終えたその人生の全体は、墓場の外に残るものであり、また墓場の外に残るものでもあるのではないでしょうか。そして人生の全体は、過ぎ去ってゆくにもかかわらず残るだけでなく、まさにそれが過去として在ること(過去存在)のうちに保存されて残るのでもないでしょうか」(p.72)。「このように人間には、過ぎ去った事物について、それがもはや現に存在しないことだけを見る傾向があります。そして人間は、それがどのような穀物倉に納められているかを見ないのです。そのとき、彼はこう言います、それらのものは移ろいやすいがゆえに、過ぎ去ってしまった、と。しかし、本当は彼はこう言うべきでしょう。それらのものは過ぎ去ってある、と。なぜなら《ひとたび》時間の中にもたらされたものは、《永久に》永遠化されているからです。」(p.80)
この、人生の全体が、過去として在り、そして保存されて残るのだという視点は、私にとって大きな発見であり、多くの情報や多くのものがまるで濁流のごとくものすごい勢いで流れていく現代社会において、確かな恵みであると感じられた。
また、私は苦悩に出会ったときにどのような態度をとるかについてのフランクルの考え方についても眼を開かされた思いがした。私たちは苦悩し、ときに絶望の淵に至って人生を投げ出そうとすることがあるけれど、そうした究極の状況の中にあってさえ、つまり「破局に直面して初めて、それを最高の業績に転換するよう決断する人々がいる」し、わたしたちは「苦悩を業績に転換でき」る、というのだ。苦悩を業績にするというのは、すごい言い方をするなと思ったが、同時にもう少しこの言葉の意味(特にここにおける「業績」の意味)を探ってみたいと思った。
この本は、確かに簡単な本とはいえない。
easyな人生のサプリメントではない。
私という実存の中心に投げ込まれ、私が在ることの意味を否応なく問われる、人間愛に満ちた劇薬である。
自己実現と自己超越の話や、相在および実存の問題であったり、考えたいテーマや言葉にしたいテーマが他にもいくつかあるが、何度か読んで咀嚼してからでも遅くはあるまい。フランクルの遺したメッセージを反芻しながら、ゆっくり言葉にしていきたいと思っている。
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めちゃむずくて、書いてあることは半分以上わかってないけど、今の自分とは波長が合っていたのか最後まで読むことができた。
解釈が合っているかはわからないけど、私の中にすうっと入ってきたことは
人間は心と体だけじゃなくて、精神にもわけられる。その3つでできている。心は感情に流されるし、体も自分の自由にはならないけど、いつどんなときでも精神だけは自分の自由にすることができる。
その精神で自由に向かっていく、自分が意味をつくっていく。そしてその向かっていくことには責任が伴う。
ということ。
すべてに負けないで自分の精神の自由を信じて「よい」と思った方に歩き続けることは、かなりタフネスが必要なことだと思うけど、できないことじゃないということ。
アウシュビッツを生き抜いた人の言うことだから、本当にそうなんだな…と思う。
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これは決して内容が難しいのではなく、翻訳がよろしくないのだと思う。そもそも、個人的にはあまり読み応えを感じられない。かの名著『夜と霧』の作者・フランクルではあるけれども、だからといって全体的には期待するほど大した内容ではない。ただ数ヶ所、線を引きたくなる箇所が散在する。
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「意味を探し求める人間」が意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのときその人間は幸福になる。しかし、彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力をももった者になるのである。というのは、苦悩は、それ自体としては人間に絶望を生じさせるものではなく、むしろ、意味がないと思われる苦悩だけが 人間を絶望に至らしめるからである。
…つまり、絶望とは意味なき苦悩である、ということである。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
重要なのは、別れを告げねばならないかどうかということではない。われわれは誰しも 遅かれ早かれ必ず死ぬのであるから。むしろ、非常に重要なことは、別れを告げねばならない何ものかが存在するかどうか、われわれが世界に残していくことのできる何ものかが存在するかどうか、自らの寿命が全うされるその日に意味と自分自身とを充足させる何ものかが存在するかどうか、ということである…