紙の本
「陰摩羅鬼の瑕」がイマイチだった人のために
2004/02/16 18:31
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投稿者:ひめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
毎回毎回すごく楽しみにしている「京極堂シリーズ」ですが、今回は今ひとつ……面白くなかったというより、ピンときませんでした。内容がではなく、精神的にあまり奥までヒットしなかったかなあ、なんて。
何か、たりない感じ。
あれだけ長いあの小説で、でもまだちゃんと説明されていない部分がある感じ。
そのことが何となくひっかかってて、この本に巡り合いました。
表紙の裏をひょっとのぞいたら、これ京極さんが装丁しているんですね。
じゃあ手にとるはずだ、と納得です。
内容は裏表紙にあるように昔話「猿婿入」をキーにして、「ホットロード」や「タッチ」や「めぞん一刻」では、なぜ主人公に最初に求婚する男性が死んでしまうのか、を探っていくのですが、初出が94年だけあって、最近に著者が書かれたものほど読みやすくはないです。わたしのレベルでは、けっこうくたびれた部分もありました。
でもヒミツは最後に、ちゃんと解き明かされるのです。
なんでもマンガでいい表せちゃうところ、やっぱすごいな。
で、これ読んでから「陰摩羅鬼〜」を読み返すと、俄然感じ方が変りました。
うるうるうる、です。
そしてこの「人身御供論」にあえて書かれなかった答えも「陰摩羅鬼〜」には出てきます。ええーと、P537上段の一番最後の行。うーん、痛いなあ。
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「ライナスの毛布」を手放す事が出来ない僕達がいつか、誰かにとっての<熊>になる日が果たして来るのだろうか。
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この人は矢張り「民俗学者」と括弧で括られるべき人。すごく刺激的で面白いんだけど、逆に面白すぎて胡散臭い。個人的には好き。
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「通過儀礼」を切り口に、昔話から漫画、映画までを独自の視点で解読。
若干強引なところもところどころあるものの、純粋に面白く読めた。
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日本の各地に分布している「猿聟入」と「姥皮」と呼ばれる民話を通過儀礼の物語として読み解き、いくつかのコミック、小説、映画に同様のモティーフが現われることを確認しています。
「猿聟入」は、娘が猿のもとに差し出されるものの、猿が殺され、娘は猿の嫁にならないですむ、という構造を持ちます。これについて著者は、猿が殺される場面が悲劇的だと感じると言い、これを通過儀礼の物語として理解できるのではないかと主張します。こうした解釈では、猿の死は娘が成熟するため供犠と解されることになります。娘が最初に暮らしていた共同体を離れて「外部」へと出ていく際に、供犠が供されることで、娘は成熟を迎えて共同体との再統合を果たすことになります。
ところで、かつてムラに暮らす人びとにとって、村落共同体の「外部」は異界でした。ところが近代に入って、ムラは近代的な行政単位に再編成されます。その一方で、もはや異界としての「外部」を持たない都市空間が出現します。著者は、「都市」から通過儀礼の物語が消えてしまったことで、成熟を拒否しいつまでも「子ども」のままでいようとする人びとが生まれたと論じています。
さらに著者は、通過儀礼に当たる装置が国家による「物語」として作られようとしている近年の動向への懸念を表明しています。その上で、近代における成熟は、国家によって作られた「大きな物語」が提供する役割に市民が帰入することによってではなく、あくまで個人の内面においておこなわれなければならないと主張します。著者は、メディアで大量に複製されている物語が通過儀礼の構造を持っていることに注目して、それらの「小さな物語」が個々人の私的な成熟を助ける可能性に賭けようとします。
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「トーマの心臓」の存在を知ったのはおそらく大塚英志の評論の中での出典からだと思う。そのときはBLモノのハシリみたいな紹介だったか、非常にうろ覚えだがタイトルにインパクトがあったのか、なんとなく記憶に留めていた。
萩尾望都の作品といえば、「マージナル」がぼくの中では一番印象に残っている。原作漫画を読んだわけではないが、NHK-FMのラジオドラマのサントラを細野晴臣が担当していたことが記憶のマーキングとなったのだ。音楽素材としての「マージナル」を通して萩尾望都に辿り着いた逆引きパターンである。その他では、菅野美穂の初主演ドラマでもある「イグアナの娘」ぐらいだろう。昭和24年頃生まれの竹宮惠子や大島弓子などとともに「花の24年組」と呼ばれ少女漫画ブームを巻き起こしたが、ぼくが読んだ少女漫画と言えば、いがらしゆみこの「キャンディ・キャンディ」と庄司陽子の「生徒諸君」と限定的であったため、花の24年組は引っかからなかったようだ。そしてその後のアニメブームによって再認識することになる。「地球へ・・・」とか「綿の国星」とかね。
そんな萩尾望都の「トーマの心臓」をミステリー作家の森博嗣がノベライズしたものをブックオフで不意に見つけてしまったものだから、原作漫画未読のまま興味津々で読んでしまったわけだ。
ぼくはずっとこの「トーマの心臓」というタイトルの心臓の意味が気になっていた。ミステリー作家の森博嗣だけにぼくは以下のようなことを読みふけりながら想像していた。
事故か自殺で死んだことになっているトーマは、実はトーマそっくりのエーリクと双子の兄弟で、お互いその事実を知らないまま、エーリクが心臓疾患で心臓移植が必要な状態になり、トーマはなんらかの事情でエーリクに自身の心臓を捧げ命を絶ったのだろう、と。
まあこれがまったくの妄想であったことは、森博嗣のノベライズを読むだけでも容易に理解できるが、では「トーマの心臓」の心臓とはなんだったのか、という疑問は森博嗣のノベライズだけでは理解することはできなかった。それよりも、舞台をなぜあえて日本にしたのか、ということの方が気になったが、それはここでは深く追求するまい。
そうして、原作漫画の「トーマの心臓」をブックオフで探す間、とりあえず大塚英志の評論を再度読んでみようと思ったので探してみた。すると、「人身御供論」という評論に「トーマの心臓」をテーマにした章があったので再読することにした。
ここで、大塚英志は心臓の意味を冒頭で言い当てている。
萩尾望都『トーマの心臓』は例外的なケースに属するという点で注目すべき作品だ。この作者が〈供犠〉という主題に自覚的であることを確認するには、題名に含まれた「心臓」というキーワードの存在を指摘するだけでこと足りよう(人身御供はその心臓をえぐられ神に捧げられることで供犠たりうるのだから)。この作品のタイトルはこの物語の主題あるいは読みほどかれる方向を作者自身が暗示しているといえる。
大塚英志によれば「トーマの心臓」における心臓とは供犠として差し出されるものであり、それはユーリの成熟の���償であったとしている。つまり、ユーリが成熟する物語のために御供死としてのトーマが必要だったわけである。トーマの死によってユーリの成熟の物語は発動し、その象徴としてタイトルに心臓が冠されたと考えるのが妥当なようだ。
そうして、ようやくブックオフで文庫版の漫画「トーマの心臓」を108円で購入し、小さなコマをチマチマ読んだわけだ。しかしながら、少女漫画に慣れないぼくは非常に時間がかかった。さらには文庫版の小さなコマ割りにあまり得意ではないぼくはさらなる遅読を強いられることになったのだ。
原作漫画は、ヨーロッパの全寮制男子校を舞台にトーマという少年の死から始まる愛の物語だった。少年の恋愛を取り上げているのでBLと言われても仕方がないが、描かれているテーマはもっと深く、キリスト教的な教義を元にして生と死、愛と憎悪などを問題提起していて非常に真面目な物語であった。
誰からも愛される美少年トーマと誠実な学級院長ユリスモール(ユーリ)の関係、その関係の末のトーマの死、そしてトーマと瓜二つだが性格はまったく真逆のエーリクの登場で、ユリスモールの人生が大きくねじ曲げられることになる。しかし、その背後にオスカーという謎ある同級生が関係していく。彼らの1年間を通して、少年が大人になっていくための葛藤や軋轢が実に見事に描かれていると思う。
「死を持って愛を尊ぶ 」と誰かが言ってたのか定かではないが、少年たちには過酷な問題提起がなされっていると思うけれど、彼らはそれぞれに困難な生い立ちも含め、そしてそれぞれの愛を内包させてひとつ成長できたのだろう。
これは、少女漫画におけるビルドゥングスロマンの傑作だと感じた。
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またしても大塚英志を読む。もう大塚英志に次ぐ大塚英志である。しかし、なぜだかこの人の著作は「なんだかここに私にとってとても重要なことが書いてある気がしてならない」という焦燥感をかきたて、その思想の全体像を把握したい気持ちがわいてくる、とっても不思議な存在なのです。まあ相性の問題という部分も多分にあるのだけれど。
さて前近代的共同体が解体し、「通過儀礼」が存在しなくなった近代社会において、人はいかにして成熟しうるのだろうか。その成熟は「国家」という大きな物語に同一化することで可能かもしれないが、それを選ばないのが戦後民主主義を選択した日本のギリギリの倫理であり、だとしたらどうすればいいのか。大塚英志は「ライナスの毛布」としてのサブカルチャーを持ち出し、前近代の通過儀礼を反映する昔話と構造的に対比させながら論じていく。
初読の印象は「あっ、読むタイミング間違えたー!」だった。初期〜中期(と区切っていいのかわからないけど)大塚英志の著作の根底に流れているのは、常にこの問題である。通過儀礼を失った私たちの成熟の問題。サブカルチャーも、消費社会も、少年犯罪も、その拘りすべてがここから端を発しているような印象を受ける。だからこそ、もう少し早めにこの本を読んでおけば、昔の大塚英志の著作をよりスムーズに読み解けたと思った。しかし一番最初の入門編というには、やっぱりややひらめき的な議論が多いかなという印象は受けつつ、そのドライブ感が魅力なのだけれど。しかし、ホテル・ニューハンプシャーの読みは本当に面白かった。これを読んだせいで、あらゆる物語の読み方がここに規定されているビルドゥングス・ロマンに左右されてしまいそうな感染力がある。(私だけかも…)