紙の本
美術への耽溺は殺人の動機となりうるか。
2003/10/19 16:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ニシムラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
刊行から約1年が経過しての書評。したがって、すでに本書が著名な美術家の手によるものであり、それが氏の版画作品にも比せられる技巧的で精緻なミステリに仕上がっていることは重ねて述べるまでもない。
私の興味は、美術品が果たして殺人という最も重大でミステリーを孕む犯罪の動機となるかどうかという問題だった。美術にまつわる犯罪といえば、盗作事件、贋作事件、盗難、発見、美術品を媒介とした贈収賄事件などが相場だ。仮に美術品をめぐって殺人が起きたとしても、それは上記のいずれかの犯罪の付帯的事実、いわばオマケとして偶発的に起きる出来事にすぎない。また小説の中では、絵画がアリバイのトリックに利用されたり、彫刻が隠蔽装置に利用されることはあっても、特に主題として中心的役割を担うことはない。
人は美術品のために犯罪を犯すことはできるか。むしろ美術品そのものが人を操り、殺人にまで至らせることは可能か否か。ミステリー小説という形式の中で、そうした犯人の心理や事件としての不可避性を描出することは可能かどうか、という問題。宗教的観念によるテロ事件、政治的使命感による殺人はありうる。美術がそれ自身、思想や宗教に比せられる観念の集合体であるならば、美術的観念を動機とする殺人はどうなのか。それは、作品を創作するためか、保存するためか、鑑賞するためか。本書の犯人は「ロンド」の死んだ作者にも匹敵する稀有な描画技巧を持った人物である。「ロンド」が死者の舞踏を描いたように、犯人は次々と人を殺害し、それぞれを一枚の作品に仕上げていく。人物は作品を仕上げるために選ばれた人体モデルにしかすぎない。犯人が制作を続け、それを発表しつづける限りそのモデルとなる死者は増えつづける。もしも犯人がなにより死者を描くという行為に耽溺したならば、写実的な技法によってその残忍さを美的な水準にまで高めるという精神の衝動としてその材を得るために殺人を続けたならば、美的観念による殺人と呼べるだろう。そして、美的観念に憑かれた(衝かれた)事件を、美的な観念の糸を解きほぐすことによって推理し、その真相にいたることができるかどうか。作者の意図とは全く関係なく、私が期待したのはこの点だった。残念ながら、その期待は十分に満足させられたとはいえない。しかし美術の豊富な知識と美術界への精通の度合いの高さから考えて、美術品をめぐるミステリーとしては最上級に属することは事実だろうし、今後そのような小説作品がこの作家によって生み出される可能性も期待できる。
それとは別に気になったのは、個々の作中物の描かれ方。作者が過去の名画でなく、「ロンド」という架空の作品(もちろんそのモデルとなる作品はあるが)を登場させなければならなかったのは、それほどの意義と人を幻惑させるほどの作品を現実には見出しえないからだろうか。あるいは自身が画家の立場からでは、自作はもちろん他者の作品を魔術的な存在として描くことはできなかったのか。また、主人公の学芸員が本格的な推理をすることもなく、犯人に翻弄される凡庸な研究者としてしか描かれていないのも、実際の学芸員の姿を実際に知っているからだろうが、それを主人公に据えたのも、世間的には高尚で衒学的と思われている美術の世界が、実際には経済と市場原理を軸に動いている他の分野とさしたる違いはないことを承知で、しかし連続殺人という装置を使って大いなる意味をこの分野に取り戻したいという欲求だろうか。作者の創作動機にまで要らぬ詮索をするのは、ミステリー愛好家というより美術愛好家の悪い癖かもしれない。
紙の本
初めて小口木版画というものを知った時、有名な三人の日本人作家がいた。その中の一人、柄澤齊が導く芸術家の魂の世界
2003/02/28 20:37
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず、この本を書店で見たとき、桐野夏生『ダーク』恩田陸『ねじの回転』塩野七生『ローマ人の歴史』とともに年末を過ごすための大作が揃ったなと思った。カバーは、一目見ただけで前から知っていた木版画家の柄澤齊の作品と分ったが、著者名を見て驚いた。なんと、柄澤齊自身が書いている。版画の技法書ではない。小説、それもミステリという。版画の個展などは何度も見ているが、こんな作品を書いている気配は全く無かった。噂も聞いたことが無い。突如現れた大作、しかも外観だけでも傑作を予感させるのに、出版社がミステリ専門の会社とは。意外性ということで云えば、近年のベストだろう。
過去に一度だけ、個展会場に三日間展示され、全国美術館評議会が主催する絵画大賞受賞という高名な賞を受賞したまま姿を消した絵画『ロンド』。それは縦1m、横2mほどのテンペラと油彩の混合技法で描かれた三つのパネルからなる三連式の、その姿を記録した写真は一枚も無いという幻の作品である。作者は画家の三ッ桐威。彼は受賞を拒否したまま、個展の数ヵ月後、助手が運転する車で事故死する。それは1980年、作家46歳の時である。その助手は責任を感じて自殺。以来、『ロンド』を見た者はいない。
この小説の主人公は、津牧寧紀。1970年生まれの30歳。素描、版画、挿絵、写真、グラフィックな印刷物の収集で知られる多薙市立美術館、通称SHIPの学芸員で展覧会の企画担当である。彼の人生を決めたのは、『ロンド』だった。それを観ることができた人の証言から作品にのめり込むことになった津牧の努力の甲斐もあって、半年後にSHIPで三ッ桐威の回顧展が開かれることになった。そんな時、三ッ桐威の娘 渚も知らないと言っていた『ロンド』が現れる。作品は何処にあったのか、誰が所有していたのか。本当に存在するのか。時を同じくして、津牧のところに舞い込んだ江栗靖彦からの一通の手紙、それは志村徹という無名の画家の個展への招待状だった。三ッ桐の後継者と自称する男の一日だけの個展。会場となった江栗の家で彼が見たものは。
事件に巻き込まれたのは、津牧の恋人 丹野みどり。23歳の彼女は、三ッ桐の友人で銅版画の巨匠 深山顕一郎に、中学生のときから薫陶を受ける天才銅版画家。SHIPの前任者竪島冬樹が海外留学したため、その後任として美術館でアルバイトをしている。二人を見守る深山とみどりの美貌の母 梓絵。みどりを慕う三ッ桐の孫の衛。犯人を追いかける刑事の根地呂。
中で、著名な絵に倣った見立て殺人が起きるが、その章には殺人のモデルとなった作品が掲載されている。それがさりげない見せ方で、余白の取り方といい、どこか版画を思わせる。柄澤齊は1950年生まれの小口木版画家で、この本のカバーや本扉の作品も彼のものである。彼の存在は、作家の創作意欲を湧かせるらしく、既に小池真理子『水の翼』のモデルになっている。数多い現役の小口木版の作家のなかでも、命を彫りこむような、もっともらしい版画家で、その小さな世界は驚きに満ちている。
自身もコラージュ作品集『冥い天体』や版画集『死と変容』『七福神』、画文集『迷宮の潭』などを書いているが、小説の書き下ろしは初めてのはず。しかし今回の作品には、柄澤が版画家であるという知識などは不要だろう。深みのある文章、破綻のない構成、古典的な人物造型、溢れかえる芸術の香気、どれをとっても一級品である。ミステリという謳い文句や、出版社名に拘らないほうがいい。この本とは別に、柄澤の木版画を入れた豪華限定本もあるという。貴重な小口木版画を手にしたい人には、思い切ってこちらを勧めたい。
投稿元:
レビューを見る
この本は、学生時代の友人に勧められて読みました。
読み始めたときは、正直、読みきれるかどうか半信半疑で。何しろ、637ページの単行本で、文字は小さいし、その上、作者は現役の高名な版画家でこれが処女作、帯には『薔薇の名前』と並び称されてる、ときてるのです。ちょっと引きませんか?
しかし、読み始めるといつの間にか、物語が奏でる音楽のようなものを感じ、その中を私も漂いだしました。
モチーフは、「ロンド」という名の「死」をテーマにしたといわれる幻の絵画。この絵に取り付かれた人々が次々連続殺人事件に巻き込まれていく。主人公は、その殺人事件の目撃者に指定され、事件に関わることを要求された美術館学芸員。彼もまた「ロンド」にあこがれ続ける一人です。そして、そんな彼の目の前に差し出された第一の死体は、ジャック・ルイ・ダヴィッド作「マラーの死」そのままだった・・・
物語は、精緻な構成のもと次々展開していくのですが、この作品の大きな特徴は「美」でしょうか。
構成も、文章も、そう、死体の描写さえ美しい。
そもそも、ミステリの中では、死体も、殺人現場も醜悪なものと決まっています。その、常人には醜悪な「死」を「美」と考えて殺人を引き起こすのがサイコキラーなんでしょうが、いまだかつて、私は、読者として殺人現場の描写に美を感じたことはありませんでした。しかし、この作品では、殺人現場は、勿論おぞましくはありながら、美しいのです。又、そう感じさせなければ、この作品は成り立たなかったでしょう。
私はこの中に出てくる絵画の一枚も実物を見たことはありません。そういう私に、作者は言葉で絵を見せてくれ、音楽を聞かせてくれ、死と美を見せてくれる・・・「ロンド」に取り付かれたサイコキラーのいざなう世界が、私にも慕わしく思われるほどに。なんだかとっても不思議な感じでした・・・
とても抽象的な感想になってしまったのですが、私には、この物語は目の前に広げられた一幅の絵であり、心に流れる歌でした。
もしかしたら、作者は、一枚の版画を言葉で掘り進んだのかも・・・・・
薦められて読んで、とてもよかったと思います。
投稿元:
レビューを見る
とにかく、くどいまでの描写が目につく。作者は本職の版画家らしいが、それ故に視覚に訴えかける書き方をするのだろうか。情報量は多いのに何が書かれているかは分かり難く、読み辛い。ただ、この話の要である絵画『ロンド』の描写になると、それは利点として活きていて、見た者を狂気に陥れるというその絵画が「さもありなん」と思えるほど、ぞくぞくとくる。この場面は読み応えがあった。
投稿元:
レビューを見る
美術屋のある種芸術家の深遠まで浮き彫りにしている作品。厚さに関して読後2時間映画を見たような疲労しか残さないのは、濃厚な死と狂気の空気を孕みながらも清涼さを兼ね備える文体と、真摯な文章のおかげだろう。出会ってよかった一冊。星ひとつはこれからの期待。
投稿元:
レビューを見る
見立て殺人だ~。しかも犯罪を芸術にしようという主張の見本そのもの。殺人を芸術に昇華しちゃうというのはどうかと思うんだけどね。現実の話じゃないのでいいか(当たり前)。
終わり三分の一くらいで、もう犯人は分かっちゃうんだけれど、そこからが凄い。芸術家の執念というか狂気というか、もうどろどろ。「ロンド」にまつわる因縁なども絡んできて、ここまで来るとホラーかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
日本のエッシャー、という印象の版画家・柄澤斉。
1日しか展示されなかった幻の絵「ロンド」をめぐる
文字の描写で絵が見えるような不思議な感覚の物語
http://ameblo.jp/mirrorka/entry-10264366048.html
投稿元:
レビューを見る
読みすすむうちにこれが初の小説作品だという事実が信じられなくなってきた。専門である木口木版画の作品からも、既存の美術作品を自家薬籠中のものとする才能は伺われるが、それは美術家としてのもの。抑制を効かせながらも視覚や聴覚に訴える比喩を駆使した硬質な文体で、ずしりと持ち重りのする長編推理小説を最後まで読ませる筆力に対しては、帯の惹句に『虚無への供物』『薔薇の名前』という名作を引き合いに出すのもあながち不遜とはいえないものがある。
「絶対音感」というものがあるが、作者によれば「絶対視覚」というものまた存在するらしい。「どんなに複雑な形でも測ったように紙の上に描写できるし、どんなに曖昧な色でも再現できる能力」それが絶対視覚である。しかし、あまりに精度の高い目を持ち、それを表現できることは客観的になり過ぎ対象に向かって愛情が感じられなくなる。「そういう人間が自分の力を鼓舞するためには愛情に代わる執念を燃やすカンフル剤がいる」。愛(エロス)でなければ死(タナトス)の出番だろう。
『薔薇の名前』ならアリストテレスが書いたと言われながら行方の分からない「喜劇論」が話を引っ張っていく原動力となる謎、ヒッチコックのいう「マクガフィン」である。本作品では魔術的リアリズムで死の相貌をとらえる天才画家三ッ桐威が描いた『ロンド』がそれにあたる。古い祭壇画に用いられた様式である三連式のパネルに描かれた「夜の暗い森の中で、輪になって踊る人々を描写した絵画」は踊りの中に描かれた多くの人物を通して、「古い鏡のように自らの記憶を発見する、集合的な死の肖像」と評されるが、限られた少数の人間しか見ることを許されず、その在処が杳として知れぬ幻の名作である。
その幻が不意に現れようとしたとき事件が起きる。最初の殺人現場の描写を読んでいるうちに、ああ、これはダヴィッドの『マラーの死』だな、と想像がついた。所謂「見立て殺人」。推理小説ではよく使われる手法でヴァン・ダインが使った『マザー・グース』をはじめ古今東西の推理小説を飾り立てるための道具立てとしては少々手垢がつきすぎている憾みなしとしない。しかし、わざわざ殺した相手を名画そっくりに飾り立てて展示し、しかも後にそれを自らの手で描き、作品として発表する犯人は己の技術に絶対の自信を持っている。それは、かつて名声を恣にしながら若くして逝ったカリスマ的画家三ッ桐威の後を襲う芸術家としての自負に支えられた殺人である。
エラリー・クィーンの国名シリーズには「読者への挑戦状」という趣向があったが、ことは推理小説に限らない。表現を志す者には自分の表現する物が凡百のつまらぬ観客の理解を凌駕するものでありたいという欲求と同時に、極々少数の者でいいから完全に理解されたいという欲望もまた存する。「逸脱と放縦を綯い合わせて縄を作り、世間という名の谷に渡した上できわどい芸をやる。右に落ちれば表現者、左に落ちれば犯罪者だ」と作中の老版画家は語る。多くの探偵小説にいやというほど繰り返し登場するメッセージを残す殺人者は、芸術家の戯画である。批評家に認められることで作品は芸術となる。探偵と犯人はウロボロスの蛇の如く永遠に互いの尾を咬み合う存在である。
現役の版画家でもある作者だが、描くばかりでなく描かれたものを表現する能力にも長けているらしい。主人公である美術館のキュレーター津牧の筆によるカラヴァッジョをはじめとする美術批評は秀逸である。作中に頻出する美術評を小煩く思うか、面白いと感じるかは読者によってちがうだろう。とまれ、ラテン語まで持ち出してアナグラムを操ってみたり、音楽や料理にも蘊蓄を傾けてみせたりするあたり、衒学趣味(ペダントリイ)の系譜を引いているのは間違いないところだ。
『九相詩絵巻』からは夢野久作の『ドグラ・マグラ』を、カラヴァッジョの『ホロフェルネスの斬首』からは女装した美少年がサロメになって踊る塔晶夫の『虚無への供物』を連想させられた。昔の武蔵野の面影を残す丘陵地帯に立つ「巨大な波に押されて海原を航海する船」に擬せられた美術館は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や『薔薇の名前』の舞台になった山の上の僧院を思い出させる。酸鼻を極める屍体を載せ、暗黒の大海の中に今また新たな船が出帆した。
投稿元:
レビューを見る
豊穣な言葉で、溢れんばかりのイメージがふんだんに塗りこめられた作品。「死」そのものを描いたとされる幻の絵画作品「ロンド」を巡る、恐ろしくも美しい物語である。
次第に悪夢へ堕ちていくような前・中半は、これはもしかして稀代の傑作なのではないか、と思わせる期待感があったが、下世話で合理的な謎解きに延々と終始する後半は、それだからこその激しい失速感しかなかった。
ラストは美しく締めくくられてはいたが、途中の失速感を取り戻すことはできなかった。
合理的な謎解きを求める向きもあろうが、僕としては、不条理でもいいので全体を神秘と怪奇な色で覆い尽くしてほしかった。サークルはいろんなところにできる、などと言ってほしくなかった。下世話な館長などみたくもなかった。衛の造形とか、ちょっとラノベチックすぎて冷めてしまったわ。