紙の本
脱・家族の住宅。
2003/03/20 23:45
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投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「住宅という『ハコ』と家族という『現実』がどうやらズレてきているらしい」。なのに、いまだに「nLDK」がデファクトスタンダードとなっている住まい。「nは家族から1を引いた数で個室の数を表します。nLDKとは、夫婦の寝室と子どもの数の寝室+共有スペース」のことをいう。この基本プランである「公団住宅の51C型」が導入されたのが、1951年。なんと半世紀もの間、変わっていない。
本書は社会学者である作者と建築家・山本理顕の対談を中心に住宅と家族について述べられている。建築家が「建てるまで」を問題としているのに対して、社会学者は「建ててから」を問題にしている。そのスタンスの違いがある時はぶつかったり、ある時は一致したりして飽きさせない。内容がかなり重複している箇所も多々あるが、好意的に解釈すれば、その繰り返しが作者のいわんとするところの理解を深めてくれる。
「家族という単位はもはや終わりつつある」のに、なぜ、当り前のようにリビングがあるのか。夫婦別室で寝ている夫婦がかなりの割合なのに、なぜ、寝室は夫婦を前提条件に設計されるのか。少子化、高齢化、シングル化が明らかに進行している中で、「シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められ」ているのに、最も対応が遅いのが、行政と住宅であると。
住宅は建築家にとって作品であり、それは生活者の意見の侵犯を許さない一種のサンクチュアリである。また、建築家及びそれを取り巻く御用建築ジャーナリズム、コンペ形式にしても、それを採択するクライアント(たとえば住宅公団など)側に、結局見る眼がなかったことも大きかったようだ。
「家族のコモンスペースは必要不可欠であるが、それはダイニングだけではない」と述べる山本は、「個室群住居」の可能性をさぐる。このネーミングがなにか独房のような冷たい印象を与えるが、徐々にではあるが、このコンセプトは浸透しつつあるようだ。
「フェミニズムがいちばん対抗し、破壊しようとしてきたのは『家族は愛の共同体』という神話。公団住宅の鉄の扉は、臭いもののフタだった」
「家族は闇だ、家族というブラックボックスは、行動よりももっと危険な無法地帯かもしれない。これまでは、そこにずっとフタをしてきた。そのフタの内圧が高まって、もはや抑えきれない力が噴出して外にもれてきた」
その具体例として、アダルト・チルドレン、ドメスティック・バイオレンス、介護などをあげている。「家族を開く住宅」が、家族を束縛しているさまざまな重荷を解放してくれるのだと。さらに、「血縁でもなく地縁でもなく社縁(会社の縁のこと−註:引用者)でもない『選択縁』」に応える住居でなければならないと。
「選択縁」とは「新しいコミュニティ」であり、個人がそれぞれ年代・性別を超えて好きな人同士と暮らす生き方である。ちょっと前に流行った社会学用語でいえば「うす口の人間関係」なのだろう。
相変わらず勇ましい作者の口調だが、実に、問題の核心を突き、うまいことをいっている。同感せざるを得ない。
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以前、仕事場兼自宅が1Kでとても狭く、仕事机の横に布団を敷いて寝るという状況がとてもイヤでした。
そこで「次に引っ越すときは寝室と仕事部屋と2つあるところにしよう」と考え、実際2部屋あるところに引っ越したのですが、仕事をするのも寝るのもやっぱり一番居心地のいい部屋が最適なようで、結局またしても寝室と仕事場は一緒になってしまうというワケのわからないバカな経験をしたことがあります。
部屋というものはなかなか当初の思惑通りには使用されないものですなあ......。
さて、この本では社会学者である上野さんが、家と家族のあり方について、建築家の山本さんとあーでもないこーでもないと熱い議論を交わしています。
今現在、アパートやマンションの間取りとして主流になっている○LDKという形態は、1950年代に公団住宅が建て始められたときから変わっていないそうです。
家族のありかたがこれだけ変化しているのに、なぜその容れ物である住宅は変わらないのか。
言われてみれば確かに。
そもそも半世紀の間デザインもコンセプトも変わらない商品というのはマーケティングをおろそかにしている結果ではないか、と上野さんは山本さんを責めます。
上野さんは言うまでもなくフェミニストですが、フェミニストにありがちな「一人で自立して生きろ!」を強要するわけではなく、ただ「家族」という生き方にとらわれずに育児や介護という問題も含めていかに周囲と共存・依存関係を作っていくか、ということをここでは真剣に論じています。
実は結構めんどくさい家庭環境で育ったワタシは、ヒッピーのコミューンみたいなものに憧れたこともあるんです。最近では、それはそれで問題も多かろうからやっぱりツガイ暮らしがいいのかな、とまた考えが反転しつつありますが。
それにしても、やっぱり多様性のある社会の方がワタシ的には生きやすいですね。(04.4.20記)
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・家族の人数-1LDKに代表される、
家の構造ってこんな理由でこんなになってたんだ、という驚きが多々。
・ただ、その事実以外の議論は少々疲れたな。
そもそも家にあまり興味がないせいだろうか
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どうして建築家は建てた後の調査をもっとしないのか。本当は建てた後の人間がどのように行動するかを分析することも大事なのでは?という時代の流れ、学問の広がりをとらえた本。というより、広げていく本というべきか。さらに言うべきは家の設計プランが中にはいるべき家族を規定するという考え方も限界が来ているということ。住まい方は住まい手がきめるべし、と。もはや住居とは建築家が上から与えるべきものではなく、こういう家族がこういう風に住むべきという正しい家族像というものも幻想に過ぎない、ということだろうか。そもそも家族の形自体が変化を続けているのだから。山本理顕・隈研吾らとの対談を通して社会学と建築学の相乗効果を目の当たりにできる興味深い一冊。建築ばかりやっていると狭くなりがちな視野をぐいっとひろげてくれること請け合い。
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社会学と建築学両方からのアプローチらしい。カテゴリは社会学でいいんだろうか。
分野の越境が上手くなされている作品は好きなので、一度は読んでみたい。
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これは、建築に進んでから読んだけど、かなり楽しかった!!
建築の視点から見ても普通に読んでも。
山本さん、上野さんのファンになりました。
後で新建築で対談の写真を見て、ちょっとイメージと違うなあと。
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2007.4/7
おもしろいが、同じことが何度も繰り返される。対談で上野千鶴子の機嫌がよろしくない様子が窺えると、読んでいるこちらも気分がよろしくなくなる。
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上野千鶴子の語り口は結構面白いな、と思います。支持者じゃないけど、読み手としてはわかりやすくて、それでいて
素人に迎合しているわけではない点はかえると思います。
私的に、「n-LDK」の話は面白かったです。
このnは家族の人数マイナス1。このマイナスは夫婦が一つとしてカウントされているからだ―という話です。夫婦は一つ、というよりも妻のパーソナルスペースは無い、というジェンダーやフェミニズムを語る筆者ならではの話なんですが。
裏を返せば家中が居場所となる主婦。外に開かれる場所に居るのか、主婦だけは家の中「だけ」が居場所なのか。
家庭によってそれは様々であるわけですね。
それでなくても住宅難だし、なかなか全員が住みいいスペースは取れませんよね、実際の家庭では。
ましてや夫婦別寝室なんかもそれは裕福な場合の話だよなぁ…とも。
結果的に導き出される展開として、シングルのよさが強調されてるのも面白いです。あー、こういえばね、そうだね、と。
夫婦別寝室で特に交流もなく穏やかに暮らしてればそれって同居人だし、選択的シングルで生きてきた人とある程度の年齢を過ぎたら変わらないじゃん、とね。
建築の歴史(一般家庭の広さ、間取りなど)の話もあったので、社会学に限らず色んな方面に興味のある方にオススメです。
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集合住宅の起源と家族の標準化の歴史について初めて教えてくれた本。現在生きている都市の成り立ちを知らないと、背負うローンの意味も分からない。
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家族と住居はセットになっているはず。そこに注目して「建築」を考察することは当然。言われているように、建築家は必ずしも家族を念頭に置いて住居を作らない。行政も第四のエージェントを交えるような形で計画を進めない。思想にも縦割りが入りこんでいるのでしょうね。
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タイトルが気になって読んでみたみた。
「パブリックセックスとプライベートセックス」
ハコ関係ないけど、この言葉がものすごく頭に残った。
あとは色々な家族の形と建築家が創りだした家との関係を探っていくのが面白かった。
老後の心理問題で一番大きいのは、自分が弱者になったという変化を受け入れられないということ。
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学生時代「郊外化」をテーマに調べる中でこの本を読みました。
山本理顕さんとの対談がとても面白かったです。
この本自体は社会学に加担した内容ですから、そのように論説が進められている所もありますが、建築というちょっと違う視点で「家」や「家族」を覗いてみるのも、なかなか面白いと思います。
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▼アイデンティティのリスク・マネージメント
『私はある調査で面白い発見をしました。複数のグループに同時に属している個人が、それぞれのグループの人間関係を隔離していたのです。私たちは、これをアイデンティティのリスク・マネージメントだと解釈しました。ひとつのグループで体面を潰すと全人格の否定になってしまいますが、ある部分で失敗してもほかの部分でアイデンティティを保つことができるよう、リスクをコントロールしているのです。個人はいくつもの関係の集合の結び目として確立するのです。』(上野千鶴子×山本理顕:対談 / 家族を容れるハコ 家族を超えるハコ / P155)
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上野千鶴子節が対談形式でさく裂。彼女を知らない人が読んだら、なんだ!?と思うだろう。
家屋というハード面と、そこに入る家族というソフト面でのとらえ方が興味深い。建築家と社会学者の異文化接触。
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「家族や社会が変わっているのに、住宅はなぜ半世紀も基本プランを変えないのか」
建築家の仕事
建築家は空間を設計します。空間を設定することによってコモンな人びとの集団、すなわちコミュニティを実現しようと考えます。
家族モデルの変遷
nLDKのモデルが(n+1)LDKのモデルに変わるということは、家族の人間関係がなにかしら根底的なところで変化した、ということを示唆してはいないだろうか。たとえば、夫婦寝室という異性愛の性関係を前提する空間がなくなれば、そこに住む家族(いえ・ぞく)は、同性どうしでもかまわないし、血縁関係がない他人どうしでもかまわないということになる。 引用ここまで - 22ページ
「家族の世紀」の終わり
30代前半で女性の非婚率は3割近く、男性は4割
生涯非婚者は人口の2割近くになるだろうとされている
子育て終わり、配偶者に死別離別するとまたシングルになる
シングルは孤独、という思いこみはうそだ。家族とつき合わない分だけ、友人たちと深いつながりをもっている。老後は不安、も正しくない。子どもの数がひとりやふたりでは、老後の不安は子どもがいてもいなくても同じ。なまじ子どもに頼ると、かえって子どもの生活を破壊し、親子関係がこじれるもとになる。いずれにしても、いつかはシングル、になるのが誰の人生にとっても避けられないなら、シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められよう。 引用ここまで - 32ページ
上野 結婚の戦後民主主義は、男の間での女の平等分配でした。つまりどんな男でも一度は結婚できる、女が一人は当たるという。累積結婚率という統計によれば、四◯歳になるまでに、死別、離別を問わず一度でも結婚した人の割合が、六◯年代の半ばに男が九七%、女が九八%を越えた。これが日本歴史上、瞬間最大風速でした(笑)。この後は低下しますから。 - 38ページ
依存的なメンバー
もし社会なるものが独立した成人のためだけにつくられるべきなのだとすれば、「家族」など必要あるまい。しかし、たとえ成人だけからなる集団が存在するにしても、時間と運命によって、つまり高齢化と病気によって、その集団のありかたはじきに変化せざるをえなくなるだろう。
104ページ
首都圏では標準世帯(夫婦と未婚の子)は少数派(三割台)、単身世帯も三割を超えている
全国でも単身世帯は二割
標準世帯が少数化したということは、育児・介護の機能は住宅の内部にとどめることができなくなったということを意味します。介護保険は介護の社会化を実現しましたが、ここに育児をつけくわえて、育児・介護の社会化はもはや必須の条件です。したがって、家族の内部にあった機能を外部に組み込んでいく、つまりコモンの空間に育児・介護という機能を組み込んでいくことが必要になるでしょう。
124ページ
住宅というユニットはそれだけではもはや完結しない
外に開かれる可能性
血縁、地縁、社縁、第四の縁「選択縁」
グループホーム
コモンスペースがデイケアのビジターの人と共有のところもある
これから介護保険で他人がどんどん家の中に入ってくる
個室が集まった僧院型でなくてもいい
個室にベッドがなくてもいい
ベッドがコモンスペースにある場合もある、雑魚寝とか
セックスが関係なければそれでもいい
住宅にもうちょい開かれる要素が入っていい
鉄の扉で閉ざされたものでなく、ガラスで見えるように 縁側的なとか
仕事場を組み込むとか
住居は家族のための閉鎖空間からもう一歩進む
メシ・フロ・ネルの食と性に特化した空間から
ラボ機能を組み込むとか
山本「居住専用の住宅だけが集まった集合住宅は異様だと思います」
上野「介護と福祉は一人では担いきれない」
マルチインカム
下層はシングルインカム、ダブルインカムでもやっていけなくなる
小銭をかき集める装置を住宅に組み込まないといけない