紙の本
禅とは何か、仏教とは、宗教とは何か
2004/06/09 05:11
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投稿者:明けの明星 - この投稿者のレビュー一覧を見る
漱石の『門』を読んだことがありますか? まだの人は読んでみてください。漱石は聖書を読んだか分かりませんが、仏教のほうはいろいろ勉強したみたいです。とくに禅については、漱石の小説を読んでいると、ちょくちょく出てきます。
『門』では、主人公が禅寺へ行って参禅するんですが、いくらやっても何も変わらず、けっきょくそのまま戻ってきます。「悟りを開く」とか「彼岸に至る」というのは、どうも、よほど思いきったことであり、たいへんな覚悟がないとダメなようです。ぼくのような凡人は、「向こう岸にいったら、二度と戻ってこれないんではないか」と思って、思いきって彼岸までエイッと行くということができないわけです。「永遠回帰」というやつですね。そういう意味で、『門』の主人公には、ものすごく共感したのです。
有名な公案に、「仏とはどういうものか」と訊かれて、「乾いた糞のカタマリだ」と答えるのがあります。禅というのは、こういうことを言うのだから、非常に変わった宗教なのだなあ、と思いました。
僕は仏教のこともろくに知らないのですが、この『禅とは何か』を読んで、大きな感銘を受けました。目次を書き抜きます。
第一回 宗教経験としての禅
第一講 宗教経験とは何か
第二講 何を仏教生活というか
第三講 仏教の基本的諸概念
第四講 証三菩提を目的とする禅
第五講 心理学から見た禅
第二回 仏教における禅の位置
第一講 宗教経験の諸要素
第二講 宗教経験の諸形
第三講 宗教としての仏教
第四講 リョウガ経大意
第五講 神秘主義としての禅
目次を見れば分かるように、禅だけに話を限定せずに、仏教や宗教という広い視野で、わかりやすく述べてあります。
「縁起」というのは円環ということと思います。この本のどこかに釈迦が説法をして、後に弟子になった人物に花を手折って見せた、という逸話がありましたが、花も円環をしています。こういう部分で、ぼくは非常に感銘を受けたのです。
とにかくお勧めです。たいへんに深いことがたくさん書かれています。講義を速記したものだということで、そのために、口語的で、分かりやすい部分もあり、またかえって、整然とまとまってないという意味で、分かりにくい部分もあると思います。いずれにしても深い知恵が織り込まれた本です。
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たまに読み直す本。禅とは何か?ひとによっては読みにくいと感じるかもしれませんが、わたしが読んだ中では鈴木大拙さんのこの一冊がおすすめです。
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理系/科学という括りの中だけに生きていた小僧に、文化や歴史や宗教、あらゆる外の世界への固い門をまるごと開いてくれた。宗教というものを、特定の教義や宗派としてではなく、古来から普遍的な人の心のもつ働き『宗教経験』として、根本から説いている。いまの時代、自分が特定の〜教と付き合うなんて考えられないわ、という人でもあまり抵抗を感じずに読めるのではないでしょうか。
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禅は大乗仏教の一派であり、南インド出身の達磨が中国に入り教えを伝えて成立したとされている。
禅の考え方は面白い。正しい考え方を保つというのは非常に労力がかかる。
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禅と仏教との位置関係とか気になっていた所の説明が為されていてよかったと思います。禅は体験、経験を重視する宗教であることが改めて分かりました。
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禅を世界に広めた鈴木大拙が、英語で書いたものを翻訳した逆輸入モノ。西洋人向けにかかれているので、変な話ですが、かえって解りやすい。思考のループにはまって抜け出れない人向け。
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禅宗の入門的解説書なのだけれど、文章が読みにくい。意味が難解というのではなく、改行や句読点の位置が適切ではなくて、日本語の文として、かなり読みにくかった。同じ文章の繰り返しが何度も出てくるところは、さすがにちょっとひどいと思う箇所もある。
しかし、話しの内容は、もともと、一般向けに講演された内容を筆記したものであるということもあって、かなり日常に近い言葉で簡明に説明がされていると思う。講演は、昭和2〜3年のものということなので、だいぶ昔の話しだけれど、普遍的なテーマばかりが語られているので、まったく古い感じはしない。
一般的な禅の教義の解説をしているのかと思いきや、著者独自の考え方がかなり色濃く出ていて、これは随分、ありきたりな解説書とはかけ離れた本なのではないかと思う。
仏教は、知と情、という二つのものから成っていると大拙氏は語っている。禅宗というものをどこまでも知的な宗教であるとしながらも、その話しの中には、「情」という側面から考えを進めている内容が多い。
「こう言う人もあると思うが、私はこう思う」と、自分自身の解釈をはっきりと述べている。著者の考えには突飛と思えるところもあったけれど、共感出来るところのほうがより多くあった。
なんらかの条件による心の激変はすなわち宗教的意識の発芽を意味している。すべて人間は自己分裂を感じ始めたところに宗教心の芽ばえがあるのである。(p.16)
いったい禅宗はどこまでも知的な宗教であるからして、これにはいるには何にせよ幾ばくかの知識が必要である。他力本位の宗門ではこの知識ということを全然排斥するが、しかしその知識を排斥するところまではいってゆくには、かえって無非常な知識と非常な努力とを必要とするのである。知識の無用が考えられるのはただでき上がった人、回心の人々から見ての話なのである。(p.20)
われわれが人の言うことを聞いて信ずるということは、その言うことが本当であり、論理的であるということだけで、必ずしもそれを信ずるということにはならないのである。まず言うことが本当でなくてはならぬが、その外にその言っているところの者の人格が、その真実の中に加わって来ることが必要である。(p.28)
釈迦は四十九年一字不説と言うけれども、四十九年間説法せられたという点より見ると、やはり表現に言語を籍らなければならなかったことは分明である。われわれには思索が必要である。しかもただ物を考えただけでは駄目で、これを何かの形式で表現発表しなければならぬ。人間というものは、何かで自分の考えというものを伝えるものである。(p.48)
馬鹿と大天才との区分をつけようとするならば、大馬鹿にも大天才と同じ因子があるかも知れない。ただ天才はそれを表現することを知っているが、それをもたない者が大馬鹿となる。二つの岩があって一つの岩には彫刻者は美しき像を彫り出した。他の一つの岩は何にも手が着かぬゆえ依然として元の岩にすぎない。ここを考えてみると、馬鹿にはまだ自分を表現するだけの力の持ち合わせがないというだけのことである。だから表現というものをしなければならぬ。知るというだけに止めてはな��ぬ。(p.50)
われわれはいろいろと重重無尽に、次から次へと無窮にわたっているところの、この網の目の関係に立っているのであるから、その関係だけがあって、それ以外には何もないと言ってもよいのである。それを一切空であると仏教は教える。(p.130)