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学生時代に物理学から真木ゼミに転向した先輩からいただいた。
当時は よくわからなかったが、
何度か読み返して、そのたびに 少しずつ
あぁ、これはあれを言ってたのか、そういうことだったのか、
ということが 増えてきて うれしい。
たぶん わからないなりに 大事にずっともっている本だと思う。
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「知恵 のあるものは
心のある道を選びそれに従う。
そこで彼は無心に眺めたり喜んだり笑ったりもするし
また見たり知ったりもする。
彼は人生がすぐに終わってしまうことを知っている し、
自分が他の皆と同様に
どこにも行かない事を知っている。」
見田先生は私たちの住む 「この世界が実存と意識の中でどのように存在をしているのか」 American Indianの呪術師が捉えていた ナワールとトーナールの説明にも挑戦してくれている
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地平線の彼方へ 異世界と明晰と感性との出会いを通して生き方を解き放つ想像力の翼を獲得する
見田先生が真木悠介名で書いた本。学生時代に読んで、《世界》に気づき、「世界」と、どう向き合うか考えるきっかけになった一冊。
【目次】
Ⅰ 「共同体」の彼方へ
Ⅱ カラスの予言
人間主義の彼岸
Ⅲ 「世界を止める」
〈明晰の罠〉からの解放
Ⅳ 「心ある道」
〈意味への疎外〉からの解放
結 根を持つことと翼を持つこと 他
時に立ち止まり、異なる世界に心を馳せる…そんな時間が私たちには必要だと思う。いや求めていることだと思う。
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人間と自然が共生する世界観、能力主義の近代を超える世界観
はいいとして
コミューン?
新たな社会形態の構想としてのコミューン?には違和感がある
村作るのと国作るのと企業作るのとでは違うだろうと
=====
真木悠介「気流の鳴る音 交響するコミューン」を読み返していた。まあカスタネダが偽書とかそういうのは置いといて問題意識としては嫌いじゃないんだけど、なぜこの内容がコミューン論にならなければならないのかがよく分からない。カスタネダの本はコミューンの本ではなく、個人がどう生きるか、どう自然と関わるかという本だ。それをコミューン論につなげていくのは、当時の時代的なものというか、当時70年代の現代社会のへの行き詰まりに対抗するには、そこから独立した別のもう一つの社会を構想するしかなかったのだろう。しかし村も国も資本主義経済も全部違うレイヤーだし一緒に語れるものでもないよなーと思う。
ひるがえって今では、山とかで若者が共同生活するっていっても、そんなに現代社会にアゲインストな感じでもないし、社会側も昔よりは許容的になってるし、昔のコミューンとは違ってまあぼちぼちゆるゆるやれるんじゃないだろうか。
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比較社会学であり、文化人類学であり、民俗学であり、哲学であり、色んな様相を持ちながら、至高の文学であり、知の巨人の視点を見ている感じでした。内容そのものも、生きることそのものについて、深く深く掘り下げられていて、何かストン、とコペルニクス的展開で驚かされたり、とにかくすごい本。何より、編まれる言葉が見せかけではない夢のような寓話に仕立てあげてしまっているその想像力と底なしの知性に脱帽です。これは魅了されちゃいますね。
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インディオ(アメリカンインディアン)の価値観などを題材にした哲学的な本。理解できない部分もたくさんあり、難しく感じた。最後の短い旅の記録は面白かった。
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南アメリカのインディアンで「呪術師」とか「戦士」と言われている老人との交流から、現代人との対比で社会を見極めようとする試みを描いたもの。老人の言葉に成る程と思うことが沢山あって考えさせられる。「時間に対しては、時間で支払う」「お前はおかしな奴だなあ。質問さえすればわかると思っている」「次第に言葉、しかも地域によって違う言葉でしかものを感知できなくなくなっている」「指揮者の激しい動きが滑稽に見えるということは、音楽を理解していないからである」「明晰とは、一つの盲信」「私とは、境界線を切って外とわけ、囲い込むこと」「死刑囚が美しいものに気づくのは、余計なものを捨て去ったから」
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哲学という魔力は不思議だ。
そして、難しい、暗号である。
だけれども、その尻尾をつかみたいのです。
…つかめないや。
物事の考え方が変わる本でもあります。
もしかしたら今いろいろな問題も
ある種先住民の方に
学ぶ要素はあると思うのよね。
狭い檻にとらわれていきがちな我々には
特にね。
だけれども、これは繰り返し読んでいく本だと思うの。
その断片を体にしみわたらせることで
自分が変わっていく気がするの。
難解なので要注意。
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「どんな時にも心あるみちを行く。」
カルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズを
真木先生が体型的に再解釈した本です。
理屈や言葉でがんじがらめになってしまった時、
この本を手に取ると、いつも一筋の風が流れる。
とても楽な気持ちになれます。
生命の喜びは、遠い場所や時間の果てにはない。
いつも、この場所に。
ここにあると、実感させてくれる
大切な本です。
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山岸会とか紫陽花邑といったコミューンの話から、人類学者のカスタネダが4冊の本で紹介したヤキ族の老人との生活で学んだことなど。この「世界」からの超越(彼岸化)、〈世界〉からの超越(主体化)、「世界」への内在化(此岸化)、〈世界〉への再内在化(融即化)といった話は面白かった。
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比較社会学の本とのことだが、私としてはあまり内容が入ってこなかった。
事前にこの本の元となったこの本にも出てくる人類学者カルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズ?というものを読んだ方が方が良いらしい。
読んでいて気になった部分は以下の二カ所で
"「その男は自分の一生で見ることもなく、ただ年をとってきただけだ。」ドン・ファンはいう。「今彼はこれまでにもまして自分を憐れんでおるだろう。彼は勝利にひきつづく敗北ばかりをみてきたから、四十年をむだにしたと感じてをるんだ。勝利することも敗北することも同じだってことが彼にはけっしてわかるまいよ。」「おまえの友人にとっては努力が敗北に終わったからそれには価値がないのだろう。わしにとっては勝利もないし敗北もない、空虚さもない。すべてのものがあふれんばかりに充実しておる。」
"
"「おまえは人を好いたり人に好かれたりすることに気をつかいすぎるぞ。知者は好きになる。それだけだ」
"
このドン・ファンの考え方が、現代の過度な競争社会と、SNSなどITが発達したことによって他人からの(への)評価が過度に気になってしまう我々への強烈な反論になっているように思う。
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真木祐介のペンネームで書かれている、見田宗介氏の著書。
1977年に発行された。
自分は1975年生まれなので、ほぼ同い年くらいの本だ。
ドン・ファンやドン・ヘナロという名のインディオの生活から、現代社会を生きる知恵を探る試み。ドン・ファンはカスタネダというアメリカ人にインディオの知恵を授けていく。そのカスタネダの書いた本を通して、著者はエッセンスを抽出していく。その結晶が本書。読後、著者の素晴らしい知性に圧倒された。ドン・ファンの教えは決して易しい内容ではないが、それを非常にわかりやすく概念化していく。著者の世代の知識人(エリート)の知性の高さには本当に驚かされる。
元々この本は、ジャーナリストである神保哲生さんと社会学者の宮台真司さんがやってる「マル激・トーク・オン・デマンド」にて、見田宗介氏の追悼番組で知った。宮台さんは見田宗介氏の弟子にあたるらしく、現在宮台さんが発する言葉の節々に、この本の影響が垣間見える。
自分は普段から宮台さんの発言に触れているので、この本の内容はスッと腹落ちした。それは、マル激を20年近く見続けているからだろう。いきなりこの本を読んだら、結構難しい内容だったと思う。
とりあえず読み終えたが、それほど長い本ではないので、また何回か読み返すと思う。都度、内容を頭に入れて身体で実践できるところまで内在化しないと、すぐに忘れてしまう。「今を生きる」ことや「生きている奇跡」を味わう、という感覚は、日々の忙しさに振り回されていると忘れてしまうので。
これを機に、見田宗介(真木祐介)氏の別の本も色々と読んでみようと思う。
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バイブル。大事な人には、これを読んでほしいと渡し続けるだろうし、わたしはこの本と生きていきたい!ずっと出会いたかった、ずっと待ってた、とふしぎなことを思ってしまったくらい。
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今年亡くなられた見田宗介さんの名著。大学時代に出会い、人生の節目節目で何度か読んできた座右の書で、読むたびに新しい発見がある。 常に自分のものの見方が狭い枠組みに囚われているかもしれないことを思い、そこから外に出ようとする営みをやめないこと(「翼」)。言葉にできない、より大いなるものに感覚を開き、そこに根ざすこと(「根」)。そういう姿勢を持ち続け、「心ある道」を歩いていきたいと自分も思う。
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真木悠介さんが、カルロス・カスタネダの4冊の本をヒントに、比較社会学の構想を美しく描いた本です。この本は何度も読み返しています。特に混乱した時に読むと、すごく風通しの良い思考の通り道を与えてくれます。知者、ドンファンの言葉は、どれも豊かさに富んでいて、現代世界の凝り固まった考えを突き崩す明晰さを持っています。
ただし、あまり深入りしすぎると、ドンファンシリーズは、帰って来れなくなる危険があります(笑)