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生涯を通じて「生と死」の考察を行い続けた、キューブラー・ロス氏の自伝です。
今まで色んな本読んできましたけど、何が一番良かった?と聞かれれば、この本を勧めるくらいのオススメの一冊です。
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職場の先生がいい本あるから!といって貸してくれたが
激務の中読む時間を作るのが大変で
でも読まずに返すわけもいかず
一生懸命食らいついて読んだ。笑
そして感想。
すごかったなー。
こんな人生、すごい!
情熱を持って仕事をするって本当に素晴らしいなー
でも、後半の、なんともいえない
アレ??あれれ?というような不思議体験・・・
・・・まぁ、まとめると、スピって難しい。
でも信じないわけではないです。
そういう人もいると思うから。
ただ、何回も読み返したい!と思う本ではなかったです。
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尊厳死やリビングウィル、ターミナルケア、ホスピスといった概念がない時代、「死」という存在が恐れられ、医療現場においてタブー視されていた時代、「死」に真っ向から対峙したエリザベスキューブーラーロス。
がん告知なども進み、以前より死が忌避されなくなった現在。
それでも人々はまだ「死」を持て余している。
以前、私の友人の父ががんに冒された。
友人から報告を受けた時、なんと言葉をかけていいのか正直なところ解らなかった。
愛する人を失うかもしれないということは、想像するだけでもとてもつらいことだと感じたし、頑張ってなどと安易に言葉をかけることは出来なかった。
泣きながら、私には知っていて欲しいと話してくれた彼女に、結局私は「無理しないでね。お父さんに私たちがしてあげられることを考えよう」という当たり障りのないことしか言ってあげる事は出来ず、それすらも当事者でない自分の口から発せられると、偽善めいて聞こえ、これが正解なのかすごく悩んだ。
その後、友人の父を見舞う機会ができた。
彼を囲んで、友人と招待された私達は、「病気」や「死」といったものには全く触れず、友人との思い出や、友人にまつわる会話や日常会話をした。
「あなたの娘さんは、あなたの愛に包まれて育ち、こんなに素敵な女性に成長しました」ということを伝えられたらいいと思った。
病床のお父さんは、終始無言で私達の会話を聞き、その表情からは何も読み取る事はできなかった。
見舞いにきて、何も出来ない自分のふがいなさを痛感した。彼の手を握りたい衝動にかられたが、握ってからかける言葉は何が正解なのか解らず、
結局沈黙を貫き通した。
「希望を捨てないでください」と生への執着を促すのが正しいのか
「お疲れさまでした」と死は怖くないものだと示唆するのが正しいのか
心に言葉は浮かぶのだが、どちらも正解ではない気がした。
実際、余命を宣告された後、回復する人、宣告された期間よりずっと長く生きる人もいる。
だから、希望を失わないことは大事だと感じていた。
それに対し、死は怖くないものなどと、経験もしたことの無い私がそんな気休めのようなことを言うのは無責任だと感じたし、希望を捨てることにつながると思っていた。
本書を読んで、友人の父とそこまで面識のない私には、沈黙が正解だったのだと感じた。
本書の221ページにリンダという少女がでてくる。白血病におかされ死の床にあった彼女は両親の計らいで見ず知らずの人間から励ましのバースデイカードを大量にもらったが、彼女が本当に求めていたものは、たとえ善意であっても見ず知らずのものから押し付けられた好意ではなかった。
彼女は両親や親戚からの心のこもった見舞いを欲していたのだ。
このことから、友人の父と交流のない私が、彼にかける言葉など持てるはずがなかったのだと解った。
実際、私は普段から両親となら死に関することを話し合うことが出来ていたのだ。
母は人工呼吸器による延命は望んでいないという事を既に明言しているし、父からはお葬式で��して欲しい曲を伝えられている。
両親が病床にあるさいには、友人の父にはかける言葉を持たなかった自分にも、おのずとかけるべき言葉が浮かんでくるはずだ。
そして本書を読んで、死を受け入れること=希望を捨てることではないということを知った。
むしろ、死を受け入れ、精神の安定を手に入れてからこそ、回復する可能性が生まれるのかも知れないと感じた。
死を頑に否定することこそ、死に囚われているのかも知れない。
また、エリザベスの宗教観も共感することが多かった。
宗教そのものに拘泥し、表面上で敬虔な信者の、教えに矛盾した行動に不信感を抱いている自分の考えに近いものを感じた。
また、本の後半で語られるエリザベスの霊感に関しては、ばりばりの理系の私には理解するのは難しいものがあった。
しかし、彼女が嘘をついているとは思わない。
例え、彼女が見たものが、彼女の脳が作りだした幻影であったとしても、確かにエリザベスの心には彼らは存在したのだろう。
考えさせられたのは、エリザベスの正義についてである。
彼女はとても強い人間だ。自分を投げうって弱い人間に手を差し伸べられる素晴らしい人だ。
本書では、エリザベスの死にゆく患者との対話や公開セミナーに対し「患者を食い物にしている」という批判をする医者や、エイズの子供達の養子として育てる施設を作ろうとした際に反対し、彼女に対しひどい仕打ちをした住民たちが悪者として描かれている。
私は誰かを悪者として糾弾することを躊躇ってしまう。
一見悪い事をしている人や私にひどい仕打ちをしてくる人に対し、実は原因は私にあるのでは、自分も似たような事をしてないかと自問自答してしまうからだ。聖書の「他人の目のおがくずを指摘する前に、自分の目の中の丸太を取り除きなさい」という言葉を遂行しようと、悪い事をしている人を無理に肯定しようとしている私と、さらりと悪い人として書いてしまうエリザベス、どちらが自然体でどちらが正しいのか。
悪人と、心が弱い人を隔てる境界線はなんなのか。
本書の260ページにおいて、治療が上手くいかず死に行く患者に冷たく接する医者が出てくる。彼はほとんどの同僚から嫌われていた。しかし、彼をかばうナースがひとりいた。彼女だけは、彼が、死に行く患者を助けられない自分に意気消沈しているのを知っていた。
その医者は悪人ではなく単に弱い人間だったのだ。
また、本書において描かれる、エイズ患者を家で保護しようとするエリザベスにひどい仕打ちをする近隣の住民達。
かれらは悪人なのだろうか?
エイズに対する知識が無い彼らは、クリスチャンでありながら、感染をおそれエリザベスを追い出そうと家に火まで放つ。
過剰すぎる行為ではあるが、彼らは自分と自分の家族を危険から守りたいあまりに、道を見失った弱い人にも見受けられる。
事実、同じようなことは私たちの周りにも潜んでおり、いつそちら側の人間になってもおかしくない。
放射能での風評被害など良い例だ。
本書の122ページにナチスの収容所においてひどい目にあったゴルダという女性が出てくる。
彼女はこういう。
「あなたもいざとなれば残虐になれるわ。ナチスドイツで育ったらね。ヒトラーはわたしたち全員のなかにいるの」
収容所から解放された時、ゴルダはナチスに対する憎しみと怒りに苛まれた。ヒトラーと同じだった。彼女はいう。
「せっかく救われた命を、憎しみのたねをまき散らすことだけに使ったとしたら、わたしもヒトラーと変わらなくなる。憎しみの輪をひろげようとする哀れな犠牲者のひとりになるだけ。平和の道を探すためには、過去は過去に返すしかないのよ。」
一方、エリザベスは完璧な人間だったのか?
そうではないことを示す記述が本書の422ページにある。
エイズ患者と初めて対峙した時、エリザベスにも感染に対する恐怖が芽生え、そのような感情を抱いてしまった自分を恥じているのだ。
人間は弱い所はあると思う。エイズ患者を目の前にし、なんの衒いもなく抱きしめてあげることは強い心を持たなくては難しい。
悪人と弱い人間を隔てるもの。
それは、善い人間であろうと、弱い自分を叱咤しながら、自問自答を繰り返し、もがいているかどうか。葛藤しているかどうかにあるのだと思う。
エリザベスは511ページでこう言っている。
「神が人間にあたえた最高の贈り物は自由選択だ。」
そう、私たちは常に選択を迫られている。
悪人になるのは簡単だ。良い行いをするか悪い行いをするか、選択するのは自分なのだ。
しかしエリザベスのように自分を犠牲にしてまで、正義と思う道を貫くのは難しい。
弱い人間である私は、善い人間であろうともがいている。
本書にはこうあった。
「逆境こそが人を強くする」
「人生で起こる全てのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風から守るために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。」と。
もがいて、もがいて。
そしていつか来るべき時が来た時、目の前に助けを求めている人が現れた時、手を差し伸べられる人間でありたいと思う。
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大変に面白い。特に後半の臨死体験や、死期の生に開眼していくところのほうが。ただ、そのあたりは筆の走りが速く、
そこにこそ、もうちょっとひいた目線の客観性が欲しかった。
そうしたらこの本の強靱さは何倍にもなるのになあ。
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小説にしろ、ノンフィクションにしろ、書いたものよりその人の生き様の方が面白い。
エリザベス・キューブラー・ロスもそういう人だったと思う。
スイスの裕福な家庭に三つ子の一人として生まれた事から始まるが、その事が新聞に載った時代の背景、環境なども語られている。
裕福な家庭に生まれたものの、父の仕事の補佐をするのが嫌で若い頃に家を飛び出し、てわざわざ他の家でメイドとして働き悲惨な扱いを受けたり、医師として働いても病院や企業の都合で転々としなくてはならなくなったり、太平洋戦争、ナチス収容所を訪問する話、戦後のアメリカの病院事情など時代背景についても興味深い。
彼女はNHKのドキュメンタリーで知った。もう亡くなった後にまとめらた、「最後のレッスン」という番組をたまたま見ていた。
人の死に寄り添い世界的に有名になった博士の晩年は、独居後福祉施設で過ごし、しかし子供や孫に囲まれての「パーフェクト」な最期だった。とあった。実際はもう時間の問題、となってから家族が医師に頼み込んで自宅に戻れたらしい。終末医療も現在随分変わって来ている事を感じさせてもくれる。(本が刊行されたのは2000年代始め、ご存命)
一時期流行したスピリチュアルなムーブメントにも乗っていた事を知り、その辺りは結構読み飛ばしてしまったが、出会いがあったとはいえのめり込んでしまう辺り、やはり一人の弱い女性であったのだろうな、と思った。
彼女の本は色々と参考になることが多いが、どの本も大抵同じような事が書かれており、そして根本にキリスト教があるので、キリスト教信者ではなくこれからもなれない自分とは、どうしても超えられない壁を感じる。
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著者は、三つ子だったので、何でも3人同じものを与えられてきたが、自分の生き方だけは自分で決めると父親の反対を押し切り、医者の道へ進んだ。戦争の犠牲者の看護から臨床状態の心身ケア等、ボランティアで人生を捧げた人である。
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ロス博士の人となりをはじめて知る.力強い筆致から,語られる事実から,これほどまでにエネルギーにあふれ多感で強い信念をもった人間であったのだと改めて思い知らされる.その源は,生い立ちから戦争を経験した青年期までの体験が大きく影響しているように感じる.後年の霊的な体験は,にわかには信じがたいことだが,そういう世界があるのかもしれない.博士はいう.死は存在しないと.起こることは必然であり意味がある.人が学び,与え,受け取るもの,そのすべては愛だ.人生はいのちの意味の解明に目的があるのではない.生きることそのものにあるのだ.そして,これは誰のものでもない,私の人生なのだと.
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医療界にタブーだった「死」と真正面から取り組んでいった精神科医エリザベス キューブラー・ロス。知ったのはアルフォンス・デーケン先生の本からで、最期?の著書となるこの自伝で壮絶で志高く生きられた姿に圧倒されました。
本当の医療としてあるべき姿は愛を持って患者に寄り添う事。どんなに周りから非難されようと、自ら実践し続け患者さん達の心を開き、助けて行く姿、これこそ真の医療者だと思いました。
後半、まさかのスピリチュアルな世界に導かれ、これまた壮絶な後半生を送られたことも驚き。
どんな困難な目にあっても全てを受け入れ、ただただ神を信じ、無償の愛を持って生き抜こうとする姿は本当に尊敬します。
これから医療、福祉関係に進もうとしている人達には特に読んで欲しい一冊です。
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非常に面白かった。感動した。最近、偶然にも同年代の知人の訃報が相次ぎ、死ぬというのはどういうことかと考えていた。
医者という職業柄、死にたくさん直面し、からだが無くなるということ、魂は生き残るのかということ、死んだらどうなるのかということをライフワークとして研究した著者。死んでいく人本人の気持ちに注目した。
彼女自身はどういう心持ちで死んでいったのだろう。
地球に生まれてきて、あたえられた宿題をぜんぶすませたら、
もうからだをぬぎ捨ててもいいのよ。
からだはそこから蝶が飛び立つさなぎみたいに、たましいをつつんでいる殻なの。
ときがきたら、からだを手ばなしてもいいわ。
そしたら、痛さからも、怖さや心配からも自由になるの。
神さまのお家に帰っていく。とてもきれいな蝶のように、自由に……。
多くの人に勧めたい本である。
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大学の先生が個人的に勧めてくれた。「著者はあらゆる意味で恵まれた人なんだろう」と感じた。単位は落とした。
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死を意識するとはどういうことなのか、その一端がが分かる。如何に後悔なく死に行くことができるのか、特に若くして亡くなった子供のエピソードは、心が痛むとともに、心に響く。
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昔懐かしい少女小説のように始まるこの本のエネルギーに何度も泣かされてしまった。
後半はなかなか険しいものがあるが、いずれにせよもっと早く手に取るべきだった一冊。
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■医学、哲学、宗教の域を超え、死をとおして生の意味・目的を探求した医師の熱い人生■
まずタイトル訳が美しい、そして著者の生き方も強く美しい。
著者はスイスで厳格な家庭に生まれ、父に反発しながら自らの理想・信念に従い、人生を切り開いていく。本著は医師であり、死の研究者である彼女が自らの人生を振り返り綴った自伝である。医師として生涯をかけて生と死の最前線でいのちの意味を探求し続けた著者だからこそ、彼女の語る言葉は強い説得力を持つ。
本書は不屈の精神と行動力を持つ著者の波乱万丈の人生を描いた自伝として十分おもしろいだけでなく、僕を次のような疑問と向き合わせた。
僕は何のために生まれてきたのだろう、どう生きるべきなのか、何を目指すべきなのだろう。
これらの問いはいずれも「生」についての問いだ。もちろん答えなんてさっぱりわからない。おそらく死ぬまでわからない。
ただ、人生の終着駅として死を置いてみると、現在地と行き先の心配をせずにはいられない。僕の「死亡」駅にはどんな景色が広がっているのだろう。これは著者はもちろん、一般的にもよく言われるように、“どう生きたか”にかかっていると思う。
著者はこうも言う。
“死にゆく患者のことばに耳をかたむけさえすれば、生について無限に多くを学ぶことができるのだ。”
生についての問いに答えてくれるヒントは「死」にあるようだ。
不治の病、貧困、災害、老衰、戦争…妥当か理不尽かにかかわらず世の中ではいたるところで様々な死が生まれる。にもかかわらず僕はこれまで人の死というものをリアルな存在として正視したことがないことに気づかされる。
TVの向こう側でも構わない。現実に存在する個々の死に目を向け、耳を傾けることで、今ここにある生の意味と重みを実感することができるのかもしれない。
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にわかには信じられない部分もあるけれど、生きる意味とは、死とはなにかについて、一つの答えを教えてもらった気がする。
生きる意味は、成長すること。
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死とは生きること。身近であること。断絶してはいないこと。患者の気持ち、家族の気持ち。自分が死ぬということ。見えないけど確かに存在するもの。
途中、スピリチュアルになりすぎて❓❓❓の部分があったが、それ以外はよかった。