紙の本
心洗われる最高のエッセイ集
2003/12/28 12:01
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投稿者:とみきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
74編のエッセイのうち、最初の6編を読んだ時点で、本好きの友達にメールを送っていた。「いい本見つけた。絶対お勧め」。
何しろ文章がものすごくいい。詩人荒川洋治は、散文を書いても詩人である。心地よいリズムと詩的な余白。さりげない表現の向こうに、心が、世界が伸びやかに広がる。
テーマは、読書にまつわるものを中心に集めたと「あとがき」にあるとおり。エッセイとは身辺雑記を書き散らしたものでないことが再認識できるのが嬉しい。また、「僕が、僕が」と書かなくても、というより、かえってそういうことを書かないほうが、著者の人となり、心のありようを浮き彫りにすると感じる。多弁は時に、何も伝えない。
引用したいものばかりなので「読んでみて」と言うしかないのだが、心温まる一編を紹介したい。「きっといいことがある」(本書pp198-203・初出「嗜好」558号・2001年3月)。
世にも奇特な店主住枝さんが谷中に開いている居酒屋「檸檬屋」にまつわるエピソードである。店主は自由人で、いたりいなかったりする。お客さんが厨房に入ったり、差し入れをしたりする。看板も出していないので、来るのは常連のみ。店に来るのが目的でなく、住枝さんに会いに来るついでに店に寄るのである。「会いたい」と思わせる人なのだ。
住枝さんは抜群の記憶力と、人の幸せを誰もまねできないほど喜ぶ才能の持ち主である。素人なのに、若い人が「住枝さん、できました」と書いたものを持ってくると、実に的確な批評をする。そして、「ある若い人がある賞をもらったことを、遠方からの電話で知ると、彼はうれしさのあまり終夜、一人で谷中の路地を歩き回ったそうだ」という具合である。困った人や弱い立場の人のために、自分がへとへとでも力をかしてしまう。彼のそういう人柄が、客の中にも広がってゆく。
ここで、「人の善意をもらおうと思ったら自分から行動すべきだ」「現代の人々はこういう心のふれ合いを忘れている」などといった「べき論」「評論家調」を一切ふりかざさないのが荒川洋治の魅力。淡々と描かれる情景から、荒川洋治が大切に感じている気持ちが、こちらの心にしんしんとしみ入ってくる。
この本は、1998年発行の『夜のある町で』の弟か妹のような本としてつくられたという。遅ればせながら、そちらも読んでみなくては。
身の回りを見る透明な目と柔軟な心が、読む者の心を洗ってくれる、私の2003年読書を締めくくる最高の1冊。
紙の本
言の葉のたゆたい
2003/10/08 18:46
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投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
詩人荒川洋治さんの珠玉のエッセイだ。
どの言葉も詩のようで思惟に富んでやわらか。
「畑のことば」から抜粋:
年をとるとどうなるか。ことばとは別のものになる。…省略。
声をかけられて、たとえば田畑のなかから、ふと立ちあがるとき、顔がみえなくても、そこにはいわくいいがたい表情があるものである。また何もしていないときでも、そこから、そのひとから、静かな声のようなものが届けられるような、そんな感じになる。
人が放つ言葉の意味合いに荒川さんは言及する。
おとなが発する言葉に感心し、
積み重ねられた年月からほとばしる博識に感嘆する。
言葉が人間の中心にあって、主役になって働くことにたいして。
そしてさらにおとなになるとどうなるか。
つまり年をとるということ、
年をとるということは、その言葉の持つ意味合いと働きが別ものになるという。
即ち、抜粋として挙げたこととなると荒川さんは思うのである。
つまりことばよりもやわらかなもの、ゆたかなものが、新しく加えられるというのだ。
それは人生が、その仕上げに向けて創り出す光景のひとつであると。
年老いた父と母が庭でくつろいでいるときなど、互いにかわすまなざしの中にことばよりもやわらかなものをみいだすことがある。
言葉とは言の葉である。
四季の移ろいのように人生は青き春から朱夏へ、そして白秋から玄冬へとたどる道すがら、常に言葉はその中心となり主役を演じ、繁る葉であり続ける。
しかし、玄冬を迎える時、その言の葉は枯れるのではなく別のものへと昇華して行くのだろう。
もはや言葉はたんなる言葉でなく、それよりもやわらかでゆたかなものへとたゆたって行くのだ。
何と美しく思惟に富んでいる言の葉達であろうか。
3年の間に発表したエッセイの中から74編を自らが選んだものである。
どれも氏のやわらかな詩人としての言葉が紡ぎ出すもの達。
座右の友として折に触れて読みたいエッセイ。
紙の本
忘れられない言葉
2003/10/04 22:21
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投稿者:碧岡烏兎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
荒川洋治の文章を読み終えると、話しかけたくなる。目の前に著者がいないのがもどかしい。毎週ラジオで、森本毅郎と息の合った対話を聴いているからだろうか。実際、本書に収められた話題の多くは、ラジオでも耳にした。
いわゆるネタが同じでも、おしゃべりと文章はまるで違う。ラジオで聴いたときに印象に残るのは、二人の掛け合いや笑い声、聞いたことがある固有名詞など。ラジオは区切られた放送時間を意識しているのか、起承転結のなかでは、起承まではゆっくり話しているが、あとは掛け合いになったり、急ぎ足になりがち。文章では、当然、荒川が選んだ言葉、とりわけ文章を締めくくる一文が強く印象を残す。
だが小説も詩も読まれなくなったいまのような時代には、名前が「読める」か「読めない」かは一大事である。(「読めない作家」)
犀星は永遠や遠い過去だけを歌う人ではなかった。昨日、今日、明日という身近な日のそこにあるものを真剣に見つめた。だから今日からも明日からも、昨日からも詩が生まれたのだ。(「きょう・あした・きのう」)
昔の詩人のたまごたちは、そんなことばっかりしていたのである。おばかさんといえばおばかさんだ。基本だけで生きていたのだ。(「価格」)
こういう言葉づかいを詩人ならではと評するのはたやすい。しかし、詩的な言葉を、本来論説的であることを主眼とする批評や書評でつかうことは両刃の剣になる。批評はあいまいととられ、詩は文章の装飾とみなされてしまうからである。本来、批評家ではなく、詩人である荒川は、詩が散文の一部分とみなされることに危機感を抱いているようだ。
「詩のことばはフィクションである」という理念を放棄したとき、詩はあたりさわりのない抽象的語彙と、一般的生活心理を並べるだけの世界へとすべりおちる。「詩のことばはすなわち散文のことばである」とみられることへの恐怖心を、とりのぞく。そこから新世紀ははじまるべきだろう。(「詩を恐れる時代」)
こう述べながらも、荒川は批評、書評に詩的なことばを使い続ける。恐怖心を打ち払うために、あえて散文の言葉を詩の言葉として用いているようにみえる。おそらく、詩人にとっては、使われる場所が散文であろうと詩であろうと、あるいは会話であろうと、言葉は、記号であるだけでなく、それ以上にフィクションである。つまり、言葉じたいが詩である。
保田與重郎について、荒川は「他人にはまぼろしと見えることばをかかえて生きた、市民の一人であった」と書いている(「『詩人』の人」)。他人にはまぼろしと見えるからこそ、過去は忘れられて、人の名前も忘れられても、言葉は忘れられない。言葉は生き続けていく、まぼろしとして。
本書には、そうした、忘れられない、まぼろしのような言葉が、たくさん詰まっている。
烏兎の庭
紙の本
読書への欲求
2003/11/23 13:50
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投稿者:eitok - この投稿者のレビュー一覧を見る
荒川洋治は詩人として名前を聞いていましたが、実際に本を手に取るのは初めてで、昨夜は一緒に住むようになった女性の帰りが遅くなったものですから、その人を待ちながら、まだソファなどの家具を購入していないため、台所でこの本を読みました。夜の台所を書斎とする人は多いと聞きますが、確かに読書する環境として最適で、特にこの本は思い切り神経を集中する必要もなく、ウィスキーなど飲みながらパラパラとやるにはうってつけです。が、この本を読んでいると読書に対する欲求がとても高まってきて、中でも読む機会の少ない詩を読みたくなり、本屋に早速出かけ荒川洋治ではなく谷川俊太郎の新作「夜のミッキーマウス」を買ってきました。なかでも「103歳の鉄腕アトム」という詩が素晴らしかった。
ともあれ15年間続いた一人暮らしが終わり、二人で生活を始めるということは、「惚れたはれた」だけでやっていけるはずもなく、時にひとりでこうして読書する時間が重要になってくるであろうことを実感しつつあります。この本は私の台所読書のスタートとなった記念すべき本として記憶に残ると思います。
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烏兎の庭 第一部 書評 10.12.03
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto01/yoko/kako.html
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詩人の荒川洋治は、近代日本文学の研究者でもあり、文学をめぐるショート・エッセイの名手でもある。彼のエッセイは、単行本にして4ページ以内のものが多く、センテンスも短いから、鞄の中に入れて持ち歩いて、ちょっとした空き時間に読むのにちょうどいい。「文学」が持つ静かな佇まいや奥行きを感じさせながらも、自我を偏重せずに視線が外に向かって開かれているから心地がよい。というわけで、どんどん読めるものだから、これまでに読んだ彼のエッセイ集を数えてみたら本書が5冊目だった。各編の所々には教訓と呼んでもいい人間に対する洞察がオチのように付いていて、少々巧くまとまり過ぎているものだから、ずるいな〜と思いもするのだけれど、それ以上に、文学が好きなんだな〜、世界が好きなんだな〜と思えるから悪い気はしない。『一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかに何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何かの「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。流されもしない』『なぜなら文学はいまの人たちが関心をもつ世界だけを相手にはしない。もっとひろいところに対象を定めて、人間というものをひろくふかく語っていこうというものだからだ』『「詩のことばはフィクションである」という理念を放棄したとき、詩はあたりさわりのない抽象的語彙と、一般的生活心理を並べるだけの世界へとすべりおちる。「詩のことばはすなわち散文のことばである」とみられることへの恐怖心を、とりのぞく。そこから新世紀ははじまるべきだろう』。
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この著者の本をはじめて読んだが、文学や言葉、人としてのありように対する深い思いが伝わる随筆だった。「文学は実学である」に代表されるように、文学ひいては文化への熱い言葉が心強い。そのほか、少しずつ使われなくなっている日常の言葉のこと、少し前の日本(電話やメールのない時代)で、人と会って話をするとはどのようなことだったかを述べた文章が、とても心に残った。
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短いエッセイが集められている。たいていは見開き2ページの間におさまる長さ、いや短さである。どれも読みやすい。難しい言葉も、小賢しい理屈もない。手元に置いおいて、気の向いたとき、適当に開いたところを読む。これといったあてもなく電車に乗って、なんてことのない小さな田舎町の駅に降り立ったときのように、心の開けてくる感じと、奇妙な懐かしさが目の前に広がっている、そういう趣のあるエッセイ集である。
エッセイの内容はほとんど、文学や本に関わりのあることばかり。詩に限らず、本や文学が根っから好きな人らしい。しかし、採り上げられている作家の名前は、かなり渋い。わざと有名な作品をさけたというのでもなさそう。ごく普通に自分の関心の向くまま、心にとまった本を読んで、その話を書いているだけなのだが、この人の書いたものを読んでいると、他の人が、自分の関心や興味より、他人の興味や時代の関心にしたがって本を読んだり書いたりしているのだということが逆に明らかになってくる。
荒川さんは詩人。何年間も大学で講義をしているというのだから、もう少しえらぶったところが出てきてもいいのだけれど、ちっともそういったところが出てこないのは人柄というものだろう。詩を作るだけでなく、本も作る。それもまだ売れていないこれからという才能を見つけては自分の方から出かけていって詩集を作りたいという話を持ちかける。そうやって世に出した詩人も少なくない。全体に短いエッセイが多い中で、詩集を作る話だけは、熱の入り方がちがう。したがって長くなっている。その長さがまた、この人らしくて心地よい。
「表現は全体でするものであり、誰かがいいものを書く、ということがたいせつであり、わざわざ自分が書くことはないのだ。自分が書く時期はおそらく、自分が思う以上に先の話なのである。文章や詩を書く人の中には、その書くことだけしか見えない人もいるが、ちょっと書くことの周囲をみてみると、いろんなものがある。見えたところから先にはずいぶん広い世界がひろがっており、本をつくることもそのひとつだし、本をつくらないまでも、興味深いこと、豊かなこと、楽しいものが書くことのまわりには想像する以上にある。」
かくして、小説で読んだ場所を訪ねては、あるはずの山が存在しないのを発見したり、芥川の年譜にある友人を訪問したという記述から、実際に会えたか留守だったかを想像したり、文庫化されるときに並記される作品の変化(例えば、川端の『伊豆の踊子・禽獣・骨拾い』というのは凄い)を楽しんだりする。なるほど、まだまだ世界には興味深いことはたくさん転がっているものだ、と本くらいしか関心のない筆者のような者にもその豊かさに心躍る思いが湧いてくるのである。
あまり肩肘張ったもの言いをしない荒川さんが「文学は実学である」ということだけは強調する。文学などは何の役にも立たないという風潮に異を唱える。ある種の文学を読むと読まないとではその人の人生はちがってくるはずだという。アナキスト詩人として知られる秋山清の「地べたの上で/そっと背なかをうごかし/全身をおこし/いっせいに立って向こうへゆく」という「落葉」という詩は「みじかいこの幾日がたのしかった」と結ばれる。はじめて落ち葉の気持ちが分かったと荒川さんは書いている。滋味あふれる一篇である。
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川上弘美さんのエッセイ「晴れたり曇ったり」の中で紹介されていたので、読んでみる。
川上さんがこれを読んで「ていねいに生きようと思った」と書いていたところに惹かれたのだから、あたしは今たぶん「ていねいに生きたい」のだと思う。
荒川さんのこのエッセイ(随想と言いたい感じ)を読んで思ったことは、穏やかそうな、よくも悪くも”天然”な感じのする人の文章なのに、
すごく強いなと。
私は自分が物事を白黒決めづらい、曖昧な質なものだから、こんな風に穏やかに、でも強く「私はこう思う」「こういうことはダメだと思う」「間違っていると思う」と言っているところにブチ当たるとドギマギしてしまう。
そ、そんなに言い切っちゃって大丈夫かなぁ…と思う。
でもそれは自分の中で、ちゃんと考えられて書かれたものだから平気なのだろうな。
納得して、こう思うと、ひとつひとつのことに意見を持てることはかなり疲れることだと思う。
心をフル回転させて、自分で多くを感じ取る必要がある。
私にはそれが、あんまり足りていないことだなと思った。
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荒川洋治のエッセイは高校生のときに読み始めて、今回で5冊目。少し値が張るからなかなか買い集めることができない。
エッセイ集「夜のある町で」の妹(もしくは弟)のようなエッセイに、ということで文学の話が多数。
わたしはいつも作者のエッセイを読むときに息をあまりしていない。というかできない。
やわらかい言葉のなかにも鋭く突いてくる。迫力があるのだと思う。
わたしは近代文学を全然読んでこなかったから、国語便覧を開きながら、作者の語る文豪たちの名前を引いていった。そういう作業も楽しい。
文学や詩の批評が多いから、「クリームドーナツ」や「メール」のような作者の生活が見えるエッセイも印象に残る。
やはり人の生活というものがすべてだと思う。作品というものはいつの世も、人の生活を見つめているものが美しいし、正しい在り方だと感じる。うまく説明はできないけれど。
文学は実学。役に立つ、立たないで価値を決めてしまってはあまりにもさみしいということを改めて教えてもらった。
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収入の5%以上を本代に充てるのが、読書家の条件―。
イギリスの批評家アーノルド・ベネットの名著「文学趣味」(1909)によると、そういうことらしいです。
読書にまつわる74編のエッセーを収めた本書の中の1編「読書のようす」で紹介されています。
荒川洋治さんのファンである自分は、本書をもう3回くらい読んでいますが、特にこの「収入の5%」がずっと頭の隅に引っ掛かり、月末に本代を計算して首を捻るのが習い性となりました。
というのも、この水準をクリアするのは、なかなか至難だからです。
単行本か文庫本かにもよりますが、いずれにしろ10冊前後といったあたりでしょうか。
収入の少ない自分でさえ難しいのですから、収入の多い人にとって「5%」は大変だろうな、と想像して、私は「あっ」と気づきました。
これは「収入が多くなればなるほど本を読みなさい」という寓意なのではないか、と。
要するに、「経済的な水準が高ければ高いほど、知的水準も高めなければならない」ということなのでしょう。
そんなわけで、読むたびに新たな発見があるのが本書の魅力。
荒川さんは詩人だけあって、エッセーで用いられる言葉にはほんのりとした体温が感じられ、身体に染み入ってきます。
ハードカバー269ページで2600円は私には高価ですが、金額をはるかに上回る価値があります。
再読ですが、本書を含めれば、今月は「5%」に到達するかも。
なんて。
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ここに収められた随筆は、詩人で評論家でもある著が、'01年から'03年にかけて様々なメディアに発表した74篇の「本にまつわる随筆」を編んだ一冊。
単なる書評ではなく、小説や作家への考察、本のある情景や読書について、当時の世相を絡め、時に警告、時に揶揄、時に指針を、しなやかな文章の中にそっと潜める。
この中で、繰り返し読んだのは『文学は実学である』という随筆。
要約すると‥‥
この目で見える現実だけが現実だと思う人が
増えている。文学は空理空論と片付けられ、
経済全盛で文学は肩身が狭い。はたしてそう
だろうか。現在の社会問題が人間の精神に起
因している今こそ、文学の「実」の部分を強
調すべきだ。良質な物語を知ると知らないと
では、人生はまるっきり違う。読む人の現実
を、生活を、激変させる力があるのだ。文学
は現実的なものであり、強力な「実」の世界
なのだ。医学、経済、法律学…、これまで実
学と思われていたものが「怪しげ」なものに
なり、人間を「狂わせる」ものになってきた
ことを思えば、文学の立場は自ずと見えてく
るはずだ。
といった内容。
持って回った文章ではなく、そこに俗臭さはなく、小難しい単語の乱用もない。嘆き咆哮するわけでもなく、気負いさもない。あくまでもさり気ない表現の中に、紙背に、ほとばしる思いを込める。それがこちらの心を大いに揺さぶる。
井上ひさしは、エッセイの正体とは「自慢話をひけらかすこと」だと定義した。それに倣えば「私は本をこんな風に読み、こう理解した、わかりますかな?」と書いてしまえば嫌味で鼻白んでしまう。嫌味さをいかに抜くかが随筆の巧拙を決める。
一気に読むのはもったいなく、夜更けにウイスキーを傾けながら、気長に味わうのにもってこい。「言葉の力」を再認識し、美しい日本語の世界を存分に味わえる一冊。