紙の本
サブカルチャーという場所からの反戦論
2008/05/17 22:12
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
9・11のあと、実に多くの発言が、実に様々な人びとによって公にされた。そして、もはやそのことにすら驚けなくなっているのだが、そのいずれもが、あまりにも似ていた──端的には、アメリカが発信する自体の捉え方・語り方に──こと、そのことは、たいへん危険な徴候であったということ、そのことを思い返しながらそのことに気付けるのならば、それはいつであっても遅くない。そして、TVや論壇で、今なお、同様のステイトメントが反復されている現状を思う時、サブカルチャーの立場から、愚直に発言を続けた大塚英志の結城と努力は、今改めて評価すべきだろうし、「評価」などと脳天気なことに留まらず、すでに「戦時下」であったことへの危機意識を新たにし、(日本国民として荷担してしまうことになる)この「戦争」に対して、「NO」と言う、あるいは言う勇気を持つこと。これが、本書の理想的な読者のあり方だろう。もちろん、思考が単一の何かに収斂していくことそれ自体もまた、危険な徴候には違いないのだが、ひとまずは本書における大塚の懸命の「説明」に耳を傾けてみてはどうだろうか? もちろん、その後の判断は、読者個々人の自由に属するのだから。少なくとも、「戦時下」にある我々は、こうした問題に向き合ってみることが必要だし、その契機として本書の「アジテーション」は、今後ますます有効なものとなっていくだろうと思われる。
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「ありきたり」の反戦論
2006/02/25 06:20
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「絶対使わない」とは言わないが、「サブカルチャー」という言葉が、どうにもしっくりこない。昔からそんな言葉は意識せずに、この国や外国の文化を摂取してきた。
「メイン」を「主要・中心」という意味にとると、マンガ・アニメは既にもう「日本の主要・中心文化」の一つであり、実態に合っていない。
そもそも、文化を階級的に「サブ」だの「メイン」だのに分けるのがナンセンスな気がする。そろそろやめにしない?と言いたい。
そのため、「サブカルチャーの反戦論」としてはピンとこなかった。そうではなく、本書は「ありきたり」の反戦論だと感じた。わざとそう形容したが、けなしているのではない。
養老氏の自己流解釈だが、際だつ「個性」ばかりが屹立していては、共通了解(理解)からは却って遠くなる。「ユニークな反戦論」を否定はしないが、「ありきたり」の反戦論が主流で構わない。
大塚氏が言ってくれた、ということが大事なのだろう。
その意味で、「口を慎んでいる」文学者達に、著者が期待感の反動として苛立つ気持ちも、少しなら分かる。「少し」としたのは、私の方は期待感が萎んでしまっているからだ。吉本隆明氏にとっての小林秀雄氏みたいな影響力が、今の「文学者」にあるのかどうなのか、怪しい。
著者はその中から、柄谷行人氏のある言動をやり玉に挙げる。それを不必要だとは言わないが、柄谷氏の言を「ユニークな反戦論」として、受け止めてもいいような気もした。
むしろ、著者のフィールドの関係者の方達が、9.11以降の「戦時下」に敏感であるのなら、そこに可能性を見いだせばいい。このマーケットは、文学の比ではない。そして、もっと表現や演出方法を磨いて、良質の作品を送り出して欲しい。
例えば新世紀の『機動戦士ガンダム』シリーズは、「非戦」をテーマに掲げたのだが、どれだけ伝わったのかは心許ない出来だ。
本書に収められたショートストーリーも、わるいが面白味はなかった。
不満ついでに言わせてもらうと、本書は著者によれば、逆説としての《ただのアジビラ》である。だが、アジビラは「ただ」で読める。金を取ろうとするなら「プロ意識」はいるだろう。いや、そんなに大仰なものを要求しているわけではない。けれど、私が「なんだか、とりとめのない雑文集だなあ」と感じたものを、著者自身が裏書きしてどうするの?と言いたい。
《(中略)「思想」や「文学」の問題として戦争を論じていると戦争について何かを語っていながら、しばしばそのことで却って「発言」していない自分にうんざりする。だから本書に収録したエッセイの中にも書いたあとでうんざりした文章が少なからずあるが、敢えて収録した。》
謙遜なのかもしれないが、やはり著者自身がうんざりするような文章を、読者に届けて欲しくはない。
辛口のコメントが続いたが、読みどころもある。「ガーディアン・エンジェルス」に対する違和感から《(中略)ぼくたちの側に、「自警団が巡回する町」を変だと思う、その感覚が欠落しかかっている現状をぼくは問題としている。》とする著者の感性には、共感を覚える。
《「反戦」とは「殺されたくない」でも「殺すな」でもなく「私は殺さない」という選択にほかならない》
原則論はそうであっても、全局面で常に「私は殺さない」という選択肢は取りきれないだろう。しかし、ぎりぎりまで「殺す」という選択肢は取らぬよう、努力することは出来よう。
その意味では、《だが「反戦」とは同時に「ことばによる相手との交渉」を選択する、ということでもある。だから「文学」の中での問題のみを語る「文学」のことばでもなく、「現代思想」の中の流行のテーマを論じることばでもなく、目の前にいる「他人」と話し、交渉するタフなことばが回復される必要がある。》を支持したい。
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各誌の連載コラムや、連載小説(サイコの外伝とか)の一部を利用して著者が書いてきた主に戦争論、反戦論を一冊にまとめた単行本(の文庫版)であり、それぞれの章に連続性はないため、好きなところで切り離して楽に読める(むしろ、アメリカで起きた9.11自爆テロ事件が、この本の内容に、結果的に連続性を与えたといえる)。
その中、本書で最も僕にとって重要であった箇所は、「何故、物書きは「戦時下」に語らなくてはならないか」という書き下ろしの章である。
それは僕が単に物書きであるというだけではなく、僕がまだ、物書きに元来備わっていながらが発揮されていない機能を期待(という夢想という説もある)しているという青臭い理由が多分にあるからだろう。
僕は、物書きは自分の文字を載せられる商業媒体を見つけるのが何より先決だと思う。見つけたら、本当は本の趣旨などから逸脱しようが、好きなことを書いてしまっても構わないとさえ思っている。無論、通用すればの話だが。通用させるには知恵が必要だ。
それすら実践しないで、時流に合った発表の場が無い等と吹く輩は本末転倒であって、それは決して現在のような戦時下に限った話ではなく、物書きが伝えるべくを伝えるための常套手段だろうと考える。
一方で、著者の大塚は、もう少し冷静だ。物書きが商業出版を生活の糧として捉え、それとは全く機能の異なるWebサイトにおける発言を、あたかもパブリックであるかのふりをして、アリバイ的に利用しているという客観的な事実を露呈し、戦時下における現実の物書きの煮え切らない態度になぞらえ、問題提起しているのだ。
発言なり原稿に責任を負うなり問われるなりして、いかにもプロの物書きと言えるけれど、言った言わないの保険として、Webサイトは都合よく使われている現実がある。
その内容の極端な例が、戦争の意義であり、憲法解釈であり、天皇問題だったりもする。多くの物書きが、その件に関してはWebで既にお答えしています的発言を繰り返し、メインストリームであるはずの商業出版では距離をとる、あるいは策を練らない戦時下という状況を、出版社サイド、編集者も含めた活字の現場はどう捉えているかという大きな問題がある。最も世論に届かねばならない新聞や雑誌は白紙のまま、テーブルをWebに移して、奇形の構えをとる物書きや文学者に不満が無いかと言ったら嘘になる。
堅気とヤクザを都合よく使い分けるゴロツキが、アウトローの世界では一番たちが悪い。その体で言えば、今の物書きの殆どはゴロツキであり、その延長上こそ、文学の不在や文学における無力感の根幹なのだという見方を、本書は示してくれる。
もっとも、著者の大塚は僕と違って文章が上手なので、こんな下手な例えは使わないし、彼自身の物書きに対する期待や目指すべき異なる体系は本書の随所に出てくる(とはいえ、徹底した柄谷批判だけは、本書の根底に根強く流れているんだな。大塚も柄谷も好きな僕は、相変わらず優柔不断な諸星あたる状態のまま戦時下を過ごしている)。
さて、大塚的に言えば、現在は未だ「戦時下」となる。その定義を展開して、「サブカルチャー」という表題に意味を持たせるギミックを、大塚は狙ったようだ。どうやら、かえってサブカル系の編集体制の方が、戦争や反戦に関する言論の自由度が高いという実感を大塚は洩らす。一方で声優ビジネスの批判は全くのご法度だったそうだが。
例えば、キャラクター小説と戦争の関係を、想像力の可能性という地平に準え、展開した論は本書にも収められている。それはおそらく憲法解釈への方法論へと至る感触がある。大塚自身は自らを護憲派だと明言しており、発揮しきれていない平和憲法の可能性を模索しているようだ。おそらく大塚は、平和憲法の可能性と、日本の文学やオタク的物語の世界観が、実はほぼ同じ速度で推移していることを、ゆっくり説明しようとしている。無論それはまだ未完である。彼にとっての平和憲法の全貌は、まだ姿を現していないからだ。そして、それが今の想像力の限界であることも示唆しているように思う。物語にとってもだ。
オタク文化や子供の世界にどっぷり浸かっていたいけど、大人や世論を説得するための術を身につけてもおきたいと思う若者は、自分がどんな大人になったら良いか迷うものなのだが(僕がそうだ)、本書は、そこに至るいくつかのサンプルを提示しているようにも見える。
その内の一つに、子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞かれたら、どう答えるか。という問いがある。
この問いの答えに、大人が悩む隙を、大塚は危惧する。少なくとも物書きならば、その答えはいつでもスッと取り出せる用意をしておかねばなるまい。答えに悩む時間はあまりない。だって、戦時下であろうがなかろうが、物書きには締め切りがあるんだから。
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読み終わり。今回のは、今まで読んだ角川文庫から出ている著作のなかでは、いつもよりかなり強く訴えている内容だったと思う。彼の言説はそのひねくれているところなども含めて好きなので、読んでて面白かった。少々読むのが遅すぎた感があるけれどね…。
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今年の憲法記念日の憲法改正論議を見て、昔買って積読していたこの本を取り出してきて読んだ。
作者がこの本を書いたのが、9・11直後の2001年から2003年の間。
憲法原理主義を自称する作者が、自分の連載する角川のアニメ雑誌にあえて通常の連載を休載して9・11とその後戦争に突入せんとする社会を問うたのは、文学や論壇が沈黙し、本来の役割を果たしていないからという。思想家としてではなく一人の有権者として、「戦争は嫌だ」と声にすることを自分の読者層である若者に語る。
この本を読むと、憲法改正論議が確実に現実化しつつある今日でも、この10年前の時点と状況は全く変わっていないのではないか、と思わされる。
僕は、「サブカル」の定義がよくわからない。本来は通過儀礼として存在するカルチャーが、一部の「大人になりきれない大人」のために存在しているように思っている人も多いと思う。しかし、作者は、手塚治虫などは同時代的には相手にされていなかったのに当たり前のように戦争などの社会問題を題材にしていたのに対して、現代の小説やアニメが社会問題のメタファーであることを拒み、何も反映しないファンタジーに徹していると述べる。
ここで主張されていることは、宇野常寛の村上春樹論でも述べられていることだ。実際大塚自身も、海辺のカフカを引いて、村上春樹が認めたイデオロギーの転向としての「身体論」=「何も象徴しないファンタジーが現実を糾す」言説の危険性を述べる。物語や思想が色を失い、科学的な描写ばかりがリアルになり、ファンタジー性が徹底される。
論壇は、「戦争は嫌だよ」だという「実感」を足場にして公共化する言語を提供できていなかった。だから、作者は語りかけることによって、「一人一人が、周りの人とこの問題を言葉で語ろうよ」と訴える。私は、ここにサブカルの強みがあると思った。ハイカルチャーはサブカルを「無視」できるが、サブカルチャーはその膨大な知識を足場にしている。そして、ある一部のエリートを除けば、子供たちは大衆的サブカルチャーから「自分の物語世界」を広げていくというのは抗いようのない事実である。(そういう意味では、児童文学や絵本、童話の持つ意味もまた、考えねばならない。)
最後に、印象に残った一節。
資本主義のシステムと民主主義のシステムを正しく機能させる足場は、やはり目の前にいる誰かとの日々のやりとりであるべきだ。