紙の本
「身体の欲望」が「生命のよろこび」を掠奪している。
2003/10/27 13:57
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投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
痛みは麻酔で、寒さや暑さはエアコンディショナーで、糞便は水洗トイレで、死は病院で、死体は火葬場で、ゴミは所定の曜日・場所に置けば、いつの間にか清掃局が片づけてくれる。かように、現代は、「快適」「心地良い」「アメニティ」の類の言葉で構築された「無痛文明」社会である。
「苦しみ」や「つらさ」や哀しみ、不快なものは、ことごとく隠蔽され、あるいはスポイルされてきた。
しかし、無痛文明を享受しているのは、いわゆる先進諸国の一握りの人々であり、−もちろん、ぼくも含まれているが−、それを支えているのは、圧倒的な多数の人々の犠牲によるものである。
あたかも、洋上を渡る豪華な客船の推進力が、暗い船底で櫓を懸命に漕いでいるあまたの奴隷であるように、そう、思えてならない。
人間を道具と同じように、役に立たなくなったら切り捨てたり、強者−弱者、勝ち組−負け組という単純な対位法がまかり通っているのも、無痛文明が生んだデバイドの一つといえよう。
作者は、情け容赦なく無痛文明を糾弾する。さらに、現代人を蝕んでいる無痛文明病の症例をこと細かに説明し、治癒の仕方まで伝授している。しかし、この病はヘビードラッグや癌細胞のように、いや、それ以上に厄介。なぜなら、痛みよりも快楽を感じさせ、一度罹ると、治りにくく、禁断症状も猛烈に表われるからだ。
人間は「人工的環境のもとで」「自己家畜化してきた」。作者は物質社会の根底を成しているものを「身体の欲望」と呼んでいる。そしてこれが「人間自身から、『生命のよろこび』を奪っている」と。「生命のよろこび」とは、「達成感や高揚感」ではない。「外部からの誘導や教示ではなく、みずからの意志と必然性によって、みずから忠実に自己変容したときに、予期せぬ形でおとずれるものこそが『生命のよろこび』なのである」。エロスとアガペーの違いのようなものか。
また、この「生命のよろこび」を得るためには、「絶対孤独」を貫かなければならないと。要するに、愛なんて幻想で、絶対孤独であることをごまかすためのものだと。自己と他者の心が通じ合うなんてことは、あり得ない(ほんとは、みんな、そう思ってるんだけど)。「死にいたる病」ではないが、絶対孤独を確立できてこそ、自分の死への恐怖も克服でき、無痛文明を凌駕できると。ひょっとして、出家しろとでもいいたいのだろうか。
島田裕巳の『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』に引用されている村上春樹の言説を孫引きする。「(アメリカの連続爆弾犯)ユナ・ボマーは、高度管理社会に生きる人間は『自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセス』に組み込まれている」
そういうことなんじゃないかな。
反論の術は、いまのところ、ない。「あんたは、そんなことをするために、生まれてきたんじゃないだろう」と、作者から鋭い切っ先を突き立てられたような気分だ。
この本は、森岡生命学の集大成であり、まさに、それは、精神の踏み絵である。
紙の本
絶対孤独のアジテーター
2003/10/20 11:02
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投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画『マトリックス』はメガ・コンピュータの支配の外に飛び出したところは、もっと酷い世界であることを示唆している。無痛文明の中に閉じ込められ脳化社会であろうと、自己家畜化であろうと、誰かがこの世界に責任を持ち操作しようが不安に苛まれるよりマシではないか。『自由からの逃走』は古典的な常識である。「現実界の砂漠へようこそ」と笑える人は強い人であり尊敬に値するが、いざ自分を指させば痛いのも嫌い美味しいものを食べたい楽したいと、その自堕落振りを受け入れる世界が虚妄であろうと手放す度胸がない。億単位の人々が廃墟の中で生きていようが繭の中の微睡みは、超越的な存在が作動している限り安泰だ。誰かによって仕組まれた虚構の世界におかれ常時監視されている方が安心であり快適ですらある。監視という付加価値を付けてデベロッパーが住宅を売り出す営業が好調だと聞く。
それでいいのか? そんなヴァーチャルな安穏さで、人は幸せを感じる事が出来るのか? そんな問いは大概な人が保っている。だが答はノーコメント。「生き方を問うな」。既得権を手放し、自己解体も受け入れて、キレイサッパリと何にもないところから、発信すれば、聞耳を立てよう。
「私が私である」自同律の不快をぶら下げて永久革命を唱えながら、そのピリオドのなさが逃げ場となって、蒲団にくるまり、時には銀座で一杯やって、未完の大作をものにした哲学者も、最早、この国の各分野の動脈を握っている団塊の世代から未だにリスペクトされている野次馬であることに誇りを持つ思想家も、市民運動を立ち上げて市民を葵の御紋で思考停止した活動家も、政治家も、神頼み、仏、尊師に信を置いて何かに縋る人も、癒しも、お呼びでないと絶対孤独の立ち位置で森岡正博は吠える。
一体、彼が拒否する無痛文明とは何か。冒頭でこの言葉を思いついたのは、ある看護婦さんの話を聞いた時の事だと記す。彼女の受け持つ集中治療室に意識の混濁した患者が運ばれて来た。「すやすや眠っている」状態である。適切な治療と看護を施しているから患者はとても幸せそうである。恐らく再び目覚める事はないであろう。点滴を受け彼女のケアによって身体は清潔に保たれ温度は快適に管理された部屋の中で安らかな表情で眠り続ける人間。悩み事も痛みも不安も恐怖もない。快適な眠りの中に居続ける。「結局、現代文明が作り出そうとしているのは、こういう人間の姿なのではないか」、彼女の疑問から派生すると記す。
ただ、誤解されやすいが、既存の言説で権力構造を中心に置いたシステムをマッピングしたニ項対立、管理/自由、帝国/マルチチュード(ネグリとハートの)、と同次元の構図を提示しているわけでなく、恐らく脱構築という言葉さえ嫌う、著者の非常に私小説的な告白から降り立った一人の人間が、内も外も無痛奔流に浸されて自分の影との戦い似たものにならざるを得ない負け続ける遠い道のりだと覚悟しているということである。
ペネトレイターに貫かれて自己形成する「この私」の繋がりが森岡正博なのであり、影も又、神出鬼没である。あらゆるジャンルに触手を伸ばし縦横無尽に語る彼の言説は複雑怪奇かも知れぬが、結局、たった一つのことしか彼は発信していない。予測不可能な一回切りの生命の欲望に中心軸で耳傾け、かけがえのない生を生き抜くこと。そのためには、この無痛文明に対してノンと拒否する。「死ぬのは怖くない、ただ痛いのは困る」と、そんな至福より自堕落な眠りが心地よい人にとっては、この本は単なる紙屑だ。オール・オア・ナッシングなのだ。この本の書評は不可能である。ただ、受け入れるか、拒否するかどちらかなのだ。
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森岡さんの本です。物体的な重量としても内容としても重たい本でした。「こんな本を書いてしまって森岡さんはひどく消耗したはずだ。大丈夫なのか?」と本気で心配した人もいたと聞きます。大丈夫、講演会も興味深かったし、サイトも更新されてるし、お元気そうです。
すごく硬派な現代文明論です。現代社会が抱えている問題を対症療法的に一刀両断したりちぎっては投げちぎっては投げするような本ではありません。現代文明の問題を鋭くえぐることは自分自身をえぐることであり、自分自身もその問題を引き受けて解くことと密接な関係にあると考える立場にいる著者は、問題を提出するだけでおしまいにするようなことはありません。自分自身を安全な立場におかない、そのような文明論であり、哲学書です。
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かなりの大部である。でも一気に読める。ページ数/文字数の割にはさほど多くのことを言っているわけではない。「無痛文明」に対する筆者の思索の流れがそのまま文章化されているというか。たとえばICU治療や完璧な治水。そういった人間を「無痛化」する文明を批判し、その無痛文明の克服と解体を呼びかける。そしてどのように克服/解体ができるか、筆者自ら考え続ける。一部、最近よく言われていてる「身体感覚の取り戻し」に通じる部分もあるが、そこに着地するわけではない。ただ無痛文明と闘うだけでダメだ。闘う自分に陶酔したり、闘いや克服が定常化したりすると、もうそれは無痛文明の罠に陥っている。じゃあどうすれば…?思考のループである。正直言って読んでいて苦しい。著者は生命倫理などの本を多く書いているようで、これも哲学書なんだろうけどあまり読んだことのないタイプの本だなあ。雑誌「仏教」の連載をまとめたものらしい。「仏教」ってのも馴染みのない雑誌だなあ。私なぞは、映画「マトリックス」でいうと、そのままサヤのなかですやすやと中流サラリーマン生活の夢を見ながら発電していたいタイプ(ネオ、よけいなことしやがって…)なので、もう闘い以前にダメダメな無痛化人間である。
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とても興味深い理論が展開されている。特に、死に関する考察は、共感できるものも多かった。でも、文体が自己陶酔に浸りすぎていて、論文というより宗教書のようだった。
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人類は快適さを求めることにより、痛みを知るということを「捨ててきた」
そして、その結果がいま現代社会に大きな歪みとなって顕れている
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現代は、肉体的にも精神的にも痛みを感じさせないようにつくられ、気づかないうちにどんどん進行していってるというのがおおよその内容です。
無痛文明の何が怖いかって、家の中で飼いならされたネコのように生命力に乏しく、危機感のない人間を大量に効率よくつくりだしてしまうというところだと思います。しかも無意識のうちに。
自分がどんどん無痛文明にとりこまれていくのを感じます。そこから抜け出すのには打ちひしがれるほどの痛みに耐えないといけないのかと思うと勇気がでません。
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「現在自分に関係している」もの の見方が変わる本で、内容は繰り返しの近いことを書く書き方なので分厚くてもよみやすい。
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甘えるな、巻き込まれるな。
仏教の言葉でいう『自灯明、法灯明(マハー・パーリ・ニッバーナ・スートラより)』です。
痛みはあって然るべきもの。
生きることとは、痛みや苦しみとどう向き合うかであり、
良く生きることとは、痛みや苦しみを感じ、活かすことだ。
苦痛緩和という甘えが、社会を蝕んでいる。
それにしても、著者が(読者を含む)他者を見下している感がヒシヒシと、どころかガンガン伝わってくるところが凄い。
そう、この本は真正かつ神聖なるマゾの方の為の本です。
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この本は難しい。書いてあることではなく、どう評価するべきかが難しい。
例えば、こうやってレビューを書き賞賛するということは、本書をきちんと読んでいないことの証左にもなってしまう。
逆に安易な批判は嘲笑の的である。この本は、有り体な批判ならば全て飲み込んでしまう力がある。
だからどう書けばいいかわからないし、正解は書かないことかもしれないが、思うところは強烈なので書くことにする。
この本は僕にとっては一生ものになり得る。しかも、400ページを超える分厚い本であるが、その内の第四章と第七章、この2つだけでその価値がある。
この2つの章の底にあるのは、著者である森岡先生の個人的な経験・価値観であると思われる。しかし、ここが凄く響く。
この本全体がそうであるが、とりわけこの2つの章は読んでて気分が悪くなる。決して爽快な気分にはならない。手足を縛られ、無理矢理目を見開かされているような状態になる。第四章は特にそうだ。
第七章は絶望させる。森岡先生はハイデガーの議論によっては森岡先生自身が抱えていた「死への恐怖」を克服できないといい絶望したというが、僕にとってはその森岡先生の絶望こそが絶望的であり、ハイデガーを前にした森岡先生より更に絶望したと言えるかもしれない。
とにかく、良い本ではあるが気分は良くならない。読後の爽快感とか、蒙が啓ける感じとかは一切ない。そして「良い本」だと同定して済ますことへの罪悪感も抜け切らない。
どう処理していいかわからず、発売から10年近く経とうとしているので批判的なレビューも漁るが、クリティカルなものになっているとはあまり思えない。まいった。
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自分の人生を悔いなく生き切るために自分と戦う人間が、それと同じ戦いをしているもうひとりの人間と出会ったとき、そしてその二人が自分自身と闘いながらも、同時に、いのちをかけて相手と戦い合ったとき、この二人の深層アイデンティティはお互いの目の前に容赦なくあばかれ、その結果、二人はそれぞれの自縄自縛から抜け出していくための扉をそこに見出すことだろう。
このような二人の関係は、けっして共犯関係とならない。なぜなら、関係性はお互いの見たくないものに蓋をし合って気持よくなる関係ではなく、その逆に、お互いのいちばん見たくないものを最後の最後まであばいていって相手に突きつけ合い、互いの自己の変容へとつなげようとする関係だからである。お互い相手に興味関心があり、相手のことを大切だと思うがゆえに、相手に敢然と戦いを挑んでいく、そして同時に自分自身とも戦っていく、そいう関係性。自分の人生を悔いなく生き切るために、自己を問い直し戦い続けていこうと覚悟をしている人間同士が、お互いの姿勢に共鳴し合い、尊敬し合いながらも、徹底して相手と戦っていく。至福と地獄のあいだを揺れ動きながら、その相手と徹底してつきあっていこうとする。愛が芽生えるとすれば、それはこのような関係性からではないのか。
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意欲的な著作。文体がすごく通俗的な感じなのは読みやすさと言う点からはいいかもしれないが、どんどん漢語の新語を作り、しかもその一つ一つがセンスに欠ける感じが否めないのが残念なところ。最もこれは思想書ではなく、全編アジ演説なのだと思えば納得がいく。
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宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で印象的、というか、とても嫌な感じがしたのは、冒頭で千尋の両親が豚になってしまうところである。主人公の千尋に感情移入する前に、多少ともその両親に同一化して見ていた評者は、自分が豚にされるような気がした。
本書も似たような衝撃から始まる。人類とは「自己家畜化」した種だという主張である。これは著者の主張ではなく、動物学者小原秀雄氏からの引用である。すなわち、「人工環境」「食料の供給」「自然の脅威からの保護」「繁殖の管理」「品種改良」「身体の形の変化」といった家畜の特徴が全て人間に当てはまるのだという。そこに著者は「死のコントロール」「自発的束縛」を付け加える。こうした人類のありさまを著者はとらえ返し、「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会の中で、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」と説き起こす。そうした現在の、そしてこれから進んでいくであろう文明のあり方を「無痛文明」と称しているのだ。
著者の主張は、ある意味、簡単である。苦痛を避け快を求める「身体の欲望」が「無痛文明」を作り出し「生命のよろこび」を奪っている。「身体の欲望」と戦い、「無痛文明」を否定して、「生命のよろこび」を取り戻さねばならない。著者は本書を1冊費やして、いかに「無痛文明」がわれわれの気づかないところで進行しつつあるか、そこから抜け出すにはどうしたらいいのかを詳細に検証していく。
「身体の欲望」と「生命のよろこび」の違いはちょっとわかりにくいが、「身体の欲望」とは、人間が持つひとまとまりの根源的な欲望で、次の5つの側面で考えられる。1 快を求め苦痛を避ける、2 現状維持と安定を図る、3 すきあらば拡大増殖する、4 他人を犠牲にする、5 人生・生命・自然を管理する。これに対して「生命のよろこび」とは、「自分の内側から、古い殻を突き破って、いままで知らなかった新しい自分がありありと生まれ出てくるときにおとずれる、『ああ、生きていてよかった』というよろこびの感覚であり、自分はこんな風に生まれ変わることができるのだということを知ったときにおとずれる、すがすがしく風通しのよいよろこびの感覚である」と説明される。
「生命のよろこび」とはある種の「創造性」のようなもので、われわれを縛り上げる「身体の欲望」を解除して、「生命のよろこび」へと開かれていくようにしようという方向性は精神分析の目指すところとかなり重なるようにも思われる。
著者の森岡氏はひとまず哲学者という肩書きだが、自身では「生命学」を唱っている。評者が『無痛文明論』なる書名をみてまず連想したのは、痛みが排除された社会の中で、自ら痛みを求めるリストカッティングなどの自傷行為であった。本書では直接そうした観点が扱われているわけではないが、苦痛を除去しようとする医学の営みは無痛文明の推進勢力に位置づけられる。ラディカルな問題提起には違いない。
しかしながら、「身体の欲望」から「生命のよろこび」へという道徳臭さにはいささか鼻白む。評者の小学校の時の校長は、遠足で疲れたあとに食べるおにぎりのうまさはほかでは味わえないと、おかずを持っていくことを禁じた。ごもっともなのだが、そんな風にいつでも艱難汝を玉にすでなければいけないのだろうかと、ナマケモノの評者は思うのである。
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「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会のなかで、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」。抽象論も多いけど、内容は熱く、厚い。
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現代文明は、人びとの「身体の欲望」を満たすことで、みずからの身を切り裂かれるような痛切な痛みによる自己解体を通して「生命のよろこび」を実現しようとする動きを「目隠し」してしまっていると著者は批判します。そのうえで、現代における文明が人びとを巻き込みつつ展開している「無痛奔流」から脱却するための困難な戦いへと読者をみちびいていこうとします。
フーコーの「生権力」批判に通じるようなテーマを中心的にあつかっていますが、レヴィナスやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェの問題にも通じるような洞察が随所に示されており、しかも著者自身のことばでわかりやすく、情熱的に語っているところに本書の特徴があります。
ただ、「身体の欲望」と「生命のよろこび」を対置し、あるいは「深層アイデンティティ」と「私が私であるための中心軸」を区別する議論の枠組みに、疎外論的な構図から脱却しきれていないような印象を受けてしまいます。むろん著者は、ロマン主義的な自然賛美の立場とみずからの「生命学」の立場を明確に区別しています。とはいうものの、あらかじめこうした対概念が区別されたうえで、両者を混同させてしまうような無痛文明の巧妙な装置が現に自己のうちにも働いていることを指摘し、だからこそ無痛奔流の流れに巻き込まれつつそれに抵抗するような戦いが必要だと訴えるという、疎外論に典型的なしかたで議論が展開されていることは否定できないように思います。
端的にいえば、まだ絶望が足りないのではないかという疑問を、どうしても拭うことができずにいます。