紙の本
解決できていない問題を提起する毒
2003/10/22 12:09
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投稿者:おしょう - この投稿者のレビュー一覧を見る
私こと、宗教関係者(浄土真宗寺院住職)です。
まず、「書評」という出来事の相対化から。著者へのエール★★★★★(力作です)、私自身にとっての意味★(読んで直接得られるものはなかった——ただし「発言」を迫られることを除いて)、一般読者への推薦度★★★(各自で「経験」する以外にないでしょう)と理解していただけたらと思います。
その上で、この「書評」は、私自身の「『無痛文明論』読書体験」です。
よく書かれ、よく考えられ、そして何より、よく現代を「感じている」作品であることに異論はありません。が、私は森岡氏の「アイデンティティ」のとらえ方は不十分だと考えます。その不十分さにまつわるもろもろが、全編を貫く独特の緊張感として表れている。言い換えれば、著者はまだ「私的な緊張感」としてしかアイデンティティを支えられていない。
もちろん、ここで安直な「信」を持ち出したのでは著者の手の平のうちになります。しかし、デカルト以来の近世の根っこはもう少し掘り下げることができます。そこから言えば、「中心軸」にせよ「ペネトレイター」にせよ、まだデカルトの「我(われ)」の手の平のうちに収まっているように思えるのです。
おそらく、著者はある強烈な「身体」のイメージを持っており(そうでない限りこのタイトルは出てこないでしょう)、そこを拠り所にデカルトの我を超えている「つもり」なのでしょうが、率直に言ってまだ安心してうなづけるところまで描かれてはいません。また、身体を問題にしているようで身体に触れ切れていない点には、端的に言って不満が残ります。
読者が試される作品です。ただ、一般の読者に一方的にこういう試練を投げかけるのはどうか(読者には「手に取らない」という選択肢があるにしても)。読後、主体的に「拒否」したとしても、無痛文明の呪いから逃れられなくなるでしょう。
そこに著者の意図があるのならばそれでよいのですが、私には残念なことに、著者自身がまだその呪いに縛られている(その呪いの構造を解明し切れていない)としか読めない。
宗教者、ないしただ真っ当に(平凡に)生きようとしている者の立場からすれば、発話を迫られる作品であることは確かです。宗教と生命学が他者であるかどうかは問いません。しかし、『無痛文明論』にこだわってしまうと(無痛文明論「批判」を意識してしまうと)、本書の代弁している現代の毒が解毒できないというのは、つらい皮肉のようです。
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森岡さんの本です。物体的な重量としても内容としても重たい本でした。「こんな本を書いてしまって森岡さんはひどく消耗したはずだ。大丈夫なのか?」と本気で心配した人もいたと聞きます。大丈夫、講演会も興味深かったし、サイトも更新されてるし、お元気そうです。
すごく硬派な現代文明論です。現代社会が抱えている問題を対症療法的に一刀両断したりちぎっては投げちぎっては投げするような本ではありません。現代文明の問題を鋭くえぐることは自分自身をえぐることであり、自分自身もその問題を引き受けて解くことと密接な関係にあると考える立場にいる著者は、問題を提出するだけでおしまいにするようなことはありません。自分自身を安全な立場におかない、そのような文明論であり、哲学書です。
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かなりの大部である。でも一気に読める。ページ数/文字数の割にはさほど多くのことを言っているわけではない。「無痛文明」に対する筆者の思索の流れがそのまま文章化されているというか。たとえばICU治療や完璧な治水。そういった人間を「無痛化」する文明を批判し、その無痛文明の克服と解体を呼びかける。そしてどのように克服/解体ができるか、筆者自ら考え続ける。一部、最近よく言われていてる「身体感覚の取り戻し」に通じる部分もあるが、そこに着地するわけではない。ただ無痛文明と闘うだけでダメだ。闘う自分に陶酔したり、闘いや克服が定常化したりすると、もうそれは無痛文明の罠に陥っている。じゃあどうすれば…?思考のループである。正直言って読んでいて苦しい。著者は生命倫理などの本を多く書いているようで、これも哲学書なんだろうけどあまり読んだことのないタイプの本だなあ。雑誌「仏教」の連載をまとめたものらしい。「仏教」ってのも馴染みのない雑誌だなあ。私なぞは、映画「マトリックス」でいうと、そのままサヤのなかですやすやと中流サラリーマン生活の夢を見ながら発電していたいタイプ(ネオ、よけいなことしやがって…)なので、もう闘い以前にダメダメな無痛化人間である。
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とても興味深い理論が展開されている。特に、死に関する考察は、共感できるものも多かった。でも、文体が自己陶酔に浸りすぎていて、論文というより宗教書のようだった。
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人類は快適さを求めることにより、痛みを知るということを「捨ててきた」
そして、その結果がいま現代社会に大きな歪みとなって顕れている
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現代は、肉体的にも精神的にも痛みを感じさせないようにつくられ、気づかないうちにどんどん進行していってるというのがおおよその内容です。
無痛文明の何が怖いかって、家の中で飼いならされたネコのように生命力に乏しく、危機感のない人間を大量に効率よくつくりだしてしまうというところだと思います。しかも無意識のうちに。
自分がどんどん無痛文明にとりこまれていくのを感じます。そこから抜け出すのには打ちひしがれるほどの痛みに耐えないといけないのかと思うと勇気がでません。
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「現在自分に関係している」もの の見方が変わる本で、内容は繰り返しの近いことを書く書き方なので分厚くてもよみやすい。
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甘えるな、巻き込まれるな。
仏教の言葉でいう『自灯明、法灯明(マハー・パーリ・ニッバーナ・スートラより)』です。
痛みはあって然るべきもの。
生きることとは、痛みや苦しみとどう向き合うかであり、
良く生きることとは、痛みや苦しみを感じ、活かすことだ。
苦痛緩和という甘えが、社会を蝕んでいる。
それにしても、著者が(読者を含む)他者を見下している感がヒシヒシと、どころかガンガン伝わってくるところが凄い。
そう、この本は真正かつ神聖なるマゾの方の為の本です。
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この本は難しい。書いてあることではなく、どう評価するべきかが難しい。
例えば、こうやってレビューを書き賞賛するということは、本書をきちんと読んでいないことの証左にもなってしまう。
逆に安易な批判は嘲笑の的である。この本は、有り体な批判ならば全て飲み込んでしまう力がある。
だからどう書けばいいかわからないし、正解は書かないことかもしれないが、思うところは強烈なので書くことにする。
この本は僕にとっては一生ものになり得る。しかも、400ページを超える分厚い本であるが、その内の第四章と第七章、この2つだけでその価値がある。
この2つの章の底にあるのは、著者である森岡先生の個人的な経験・価値観であると思われる。しかし、ここが凄く響く。
この本全体がそうであるが、とりわけこの2つの章は読んでて気分が悪くなる。決して爽快な気分にはならない。手足を縛られ、無理矢理目を見開かされているような状態になる。第四章は特にそうだ。
第七章は絶望させる。森岡先生はハイデガーの議論によっては森岡先生自身が抱えていた「死への恐怖」を克服できないといい絶望したというが、僕にとってはその森岡先生の絶望こそが絶望的であり、ハイデガーを前にした森岡先生より更に絶望したと言えるかもしれない。
とにかく、良い本ではあるが気分は良くならない。読後の爽快感とか、蒙が啓ける感じとかは一切ない。そして「良い本」だと同定して済ますことへの罪悪感も抜け切らない。
どう処理していいかわからず、発売から10年近く経とうとしているので批判的なレビューも漁るが、クリティカルなものになっているとはあまり思えない。まいった。
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自分の人生を悔いなく生き切るために自分と戦う人間が、それと同じ戦いをしているもうひとりの人間と出会ったとき、そしてその二人が自分自身と闘いながらも、同時に、いのちをかけて相手と戦い合ったとき、この二人の深層アイデンティティはお互いの目の前に容赦なくあばかれ、その結果、二人はそれぞれの自縄自縛から抜け出していくための扉をそこに見出すことだろう。
このような二人の関係は、けっして共犯関係とならない。なぜなら、関係性はお互いの見たくないものに蓋をし合って気持よくなる関係ではなく、その逆に、お互いのいちばん見たくないものを最後の最後まであばいていって相手に突きつけ合い、互いの自己の変容へとつなげようとする関係だからである。お互い相手に興味関心があり、相手のことを大切だと思うがゆえに、相手に敢然と戦いを挑んでいく、そして同時に自分自身とも戦っていく、そいう関係性。自分の人生を悔いなく生き切るために、自己を問い直し戦い続けていこうと覚悟をしている人間同士が、お互いの姿勢に共鳴し合い、尊敬し合いながらも、徹底して相手と戦っていく。至福と地獄のあいだを揺れ動きながら、その相手と徹底してつきあっていこうとする。愛が芽生えるとすれば、それはこのような関係性からではないのか。
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意欲的な著作。文体がすごく通俗的な感じなのは読みやすさと言う点からはいいかもしれないが、どんどん漢語の新語を作り、しかもその一つ一つがセンスに欠ける感じが否めないのが残念なところ。最もこれは思想書ではなく、全編アジ演説なのだと思えば納得がいく。
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宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で印象的、というか、とても嫌な感じがしたのは、冒頭で千尋の両親が豚になってしまうところである。主人公の千尋に感情移入する前に、多少ともその両親に同一化して見ていた評者は、自分が豚にされるような気がした。
本書も似たような衝撃から始まる。人類とは「自己家畜化」した種だという主張である。これは著者の主張ではなく、動物学者小原秀雄氏からの引用である。すなわち、「人工環境」「食料の供給」「自然の脅威からの保護」「繁殖の管理」「品種改良」「身体の形の変化」といった家畜の特徴が全て人間に当てはまるのだという。そこに著者は「死のコントロール」「自発的束縛」を付け加える。こうした人類のありさまを著者はとらえ返し、「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会の中で、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」と説き起こす。そうした現在の、そしてこれから進んでいくであろう文明のあり方を「無痛文明」と称しているのだ。
著者の主張は、ある意味、簡単である。苦痛を避け快を求める「身体の欲望」が「無痛文明」を作り出し「生命のよろこび」を奪っている。「身体の欲望」と戦い、「無痛文明」を否定して、「生命のよろこび」を取り戻さねばならない。著者は本書を1冊費やして、いかに「無痛文明」がわれわれの気づかないところで進行しつつあるか、そこから抜け出すにはどうしたらいいのかを詳細に検証していく。
「身体の欲望」と「生命のよろこび」の違いはちょっとわかりにくいが、「身体の欲望」とは、人間が持つひとまとまりの根源的な欲望で、次の5つの側面で考えられる。1 快を求め苦痛を避ける、2 現状維持と安定を図る、3 すきあらば拡大増殖する、4 他人を犠牲にする、5 人生・生命・自然を管理する。これに対して「生命のよろこび」とは、「自分の内側から、古い殻を突き破って、いままで知らなかった新しい自分がありありと生まれ出てくるときにおとずれる、『ああ、生きていてよかった』というよろこびの感覚であり、自分はこんな風に生まれ変わることができるのだということを知ったときにおとずれる、すがすがしく風通しのよいよろこびの感覚である」と説明される。
「生命のよろこび」とはある種の「創造性」のようなもので、われわれを縛り上げる「身体の欲望」を解除して、「生命のよろこび」へと開かれていくようにしようという方向性は精神分析の目指すところとかなり重なるようにも思われる。
著者の森岡氏はひとまず哲学者という肩書きだが、自身では「生命学」を唱っている。評者が『無痛文明論』なる書名をみてまず連想したのは、痛みが排除された社会の中で、自ら痛みを求めるリストカッティングなどの自傷行為であった。本書では直接そうした観点が扱われているわけではないが、苦痛を除去しようとする医学の営みは無痛文明の推進勢力に位置づけられる。ラディカルな問題提起には違いない。
しかしながら、「身体の欲望」から「生命のよろこび」へという道徳臭さにはいささか鼻白む。評者の小学校の時の校長は、遠足で疲れたあとに食べるおにぎりのうまさはほかでは味わえないと、おかずを持っていくことを禁じた。ごもっともなのだが、そんな風にいつでも艱難汝を玉にすでなければいけないのだろうかと、ナマケモノの評者は思うのである。
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「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会のなかで、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」。抽象論も多いけど、内容は熱く、厚い。
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現代文明は、人びとの「身体の欲望」を満たすことで、みずからの身を切り裂かれるような痛切な痛みによる自己解体を通して「生命のよろこび」を実現しようとする動きを「目隠し」してしまっていると著者は批判します。そのうえで、現代における文明が人びとを巻き込みつつ展開している「無痛奔流」から脱却するための困難な戦いへと読者をみちびいていこうとします。
フーコーの「生権力」批判に通じるようなテーマを中心的にあつかっていますが、レヴィナスやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェの問題にも通じるような洞察が随所に示されており、しかも著者自身のことばでわかりやすく、情熱的に語っているところに本書の特徴があります。
ただ、「身体の欲望」と「生命のよろこび」を対置し、あるいは「深層アイデンティティ」と「私が私であるための中心軸」を区別する議論の枠組みに、疎外論的な構図から脱却しきれていないような印象を受けてしまいます。むろん著者は、ロマン主義的な自然賛美の立場とみずからの「生命学」の立場を明確に区別しています。とはいうものの、あらかじめこうした対概念が区別されたうえで、両者を混同させてしまうような無痛文明の巧妙な装置が現に自己のうちにも働いていることを指摘し、だからこそ無痛奔流の流れに巻き込まれつつそれに抵抗するような戦いが必要だと訴えるという、疎外論に典型的なしかたで議論が展開されていることは否定できないように思います。
端的にいえば、まだ絶望が足りないのではないかという疑問を、どうしても拭うことができずにいます。
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これからの世界を考える上でこれまでの世界とは何だったのかという観点でみると面白い。
痛みを避けることにより弊害を受けていいるのだがそれ自体にも気づかない。そんな「無痛文明」から決して逃れられない作者が放つ魂の叫びみたいな本。
現在は変わりつつあるような気もするが世界を「近代の科学」で語り尽くせるという認識に立っているとこの考えに陥るような気がする。「災害」は人類が抑え込める的な記載があるのだが、そもそもその時点で事実誤認があると思う。それ故の「無痛文明」なのだが。