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今日は、うるう年の2月最後の日。前回の4の倍数年だった2000年は特別な年だったので、2月29日が巡ってくるのは8年ぶりのことになるのだが、そんなことを取り立てて誰も言ったりしないことに、少しだけ理不尽な感じがする。そもそも、4で「割り切れる」という合理的な年にあって、「余る」、しかもそのルールすらあざ笑うかのようにきちんと収まろうとはしない不合理な「余分なもの」に、爽快な感じすら覚える日なのだから、もう少し尊厳をもってこの日にあたってもよいのに。だいたい、2月29日という位だから、今日は2月の一日なのだろうけれど、本当はもう3月なのになあ、といつも思う。そのずれをずっと追っていったら、3月末日は本当は4月だし、今年の大晦日は本当はもう来年の元旦になってしまって、じゃ、本来的には今日は何月何日なのか、ってところまで廻り回ってくると訳が解らなくなるから、どこかで、そのもやもやした気分は忘れることにしておいた方がいいに決まっていて、だからいつも3月が終わる頃にはそんなことはすっかり忘れてるということになる。
8年ぶりにもやもやとした理不尽な気分を思い出すそんな日に読む本として、「猫殺しのマギー」は、これ以上はないような本である。現実の世界と夢の世界の中間、と陳腐な言葉で表現してしまってはイメージが矮小化されるのだが、今日でもなく明日でもない時間の中を主人公達は生きている。あるいは、それは、現実と仮想現実の中間、アナログな意志をデジタルで伝える内にこぼれたものが落ちていく先、誰にも発見されないプログラムのバグの占めるメモリー空間、そんなようなものの象徴かも知れない。
著者の処女作でもある表題作「猫殺しのマギー」から、発表された順に収められている三つの作品の中で、一番読みやすく、かつ、のめり込み易いのは「アカシック・レコードに乗せられて」というSFタッチの作品だが、どの話も、基本的には言葉を連ねるという行為の魅力、あるいは魔力、に取り憑かれて書いているのがよく解る作品だ。その憑依の具合の一番強いのは、当然のことかも知れないが、処女作である「猫殺しのマギー」である。この作品をシュールという使い古された表現で切り捨ててしまうこともできるのだが、話のあちこちに妙に現実との接点が多く、むしろ、サイケな世界に点在するその接点に、なにか救いのようなものを、読者も、そして恐らく著者も、無意識の内に求めていることが、じわじわと認識されてきて、少しだけ読むのが苦しくなる。
何かを「了解した」という答えで区切らないことの、つまり思考停止の状態にならないことの、その苦しさは、うるう年による日付感覚のずれをいつまでもいつまでも覚えておくことの苦しさと同質の苦しさである。その苦痛をじっと見つめることを千木良悠子は恒常的にしているのだろう。あとがきにある、原付きバイクに乗りながら「俺の名前は猫殺しマギー。でも、猫は殺さない。」という出だしの一文を考えついた、というエピソードから感じる爽快さは、作品の中にはない。そのエピソードとて、多少混迷した精神活動がなせる業といっても間違いではないだろう。その一文の行く先がどこに繋がって行くかなんてことは考えもしないで、とにかく走り出す、そんな若さが作品には溢れている。
「猫殺しのマギー」を読み始めた時、まず感じたのは、この作品がレイナルド・アレナスの「夜明け前のセレスティーノ」に似ているということだ。但し「夜明け前のセレスティーノ」が「お話し」として成立するためには300頁以上の「長さ」が必要であったことから察せられるように、50頁にも満たない長さの作品である「猫殺しのマギー」は、一枚の前衛絵画、のような状態で止まってしまっているのが惜しいと思う。アレナスには現実を忌避する気持ちが強く、そのことが現実でない世界に留まりながら現実の世界を俯瞰するという立場を取り続けることを可能にしたのに対し、千木良悠子には、どこか現実に繋がっていたいという気持ちが透けて見え、書き手が、時々「降りて」来てしまうのが解る。それ故、現実の時間が全体を支配してしまい、そのことによって澱が昇華する時間が不足してしまうのだ。それが少し惜しい。
2作目の「甘夏キンダーガ−トン」では、その「繋がりたい」という傾向がより強く表われていると思うが、この作品では「お話しとしての構成」を意識しているのも解る。現実でない世界を現実的な枠に収め直す、という、ある意味で試験的な色合いの作品に仕上がっているが、読後感は不思議な程、清涼である。好き嫌いという意味ではこの作品が一番好きかも知れない。それにしても、すこし「短さ」が気になる。キンダーガーデンで主人公が過ごした時間などが、交錯した過去の時間として挿入されていても良かったし、もう少し、主人公の視点でのみ見えた他人の行為の作為性(現実の作為であってもなくても)を、非現実の世界に開花させ直す試みがあっても良かった筈だ。
そして3作目の「アカシック・レコードに乗せられて」は、既に「お話し」として普通に仕上がっている。それ故、読み易くなっているのだが、粗削りなところが影をひそめてしまい、やや陳腐な作品になっているというのが皮肉だ。この作品における、登場人物達の描き方は乱暴であって、そういうところに千木良悠子の良さが出ているとは思うのだけど、お話しを書くというのであれば、もう少し個性をきちんと書き分けて欲しいなんていう、つまらない気持ちが湧くことも事実なのだ。あるいは、シュールに過ぎる、という批判を受けたのかもしれないが、著者の個性が引っ込んだ感じがすることは、もったいない。やるなら徹底的にやってくれと思う。だから、お話しとしてはすっとノメリ込めて読み易いのだけど、この作品は個人的には余り好きではない。
この作家は、しばらく醸成の時が必要なのか、あるいは、もうこの作品以上のものを産み出し得ないか、どちらなのだろうか。