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紙の本
無力感と孤独の終わり
2004/01/29 20:24
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:せんちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベルリンの壁が崩れたのは、1989年11月だ。その時、はじめはひそかに後にはおおっぴらに失われたものがある。それは、共産主義への郷愁やロケットではない。それは、旧社会主義陣営が唯一資本主義陣営より優れたもので、歴史性や文化の違いを尊重しどんなに人口が少なくとも「民族」として認めあうことだった。それを教えてくれたのは沖縄出身の青年だった。「返還」前に子ども時代を過ごした彼は、日本からきた観光客にバスのなかから珍しいものを見るかのように見られた経験を話してくれた。そして「もし、ソ連や中国なら沖縄は少なくとも自治区として扱われるはずだ」と言った。私はその言葉に衝撃を受けた。そういうことを考えたことがなかったからだ。それ以来、マイノリティの問題を考える際の一つの指標になった。
もっともこれは建前で、旧ユーゴや旧ソ連の内戦の惨状は、それが本心からのものではなかったことを示していた。しかし、長い共産党独裁の時代をへてなお各民族はアイデンティティを失わなかった。そのことにこの建前が有効だったのは驚きだ。日本にも少数民族、あるいは沖縄のように歴史的文化的に独自な地域が存在する。しかし、日本に住む人々は単一民族とされ、彼らの存在は無視されている。断固として同化を拒否する在日朝鮮人は、一般日本人からの差別と右翼からの攻撃にされされている。アイヌの人々は江戸時代から続く圧制と差別のなかで、自分たちを日本人とは違う民族であると言うことはおろか、考えることさえ抑圧されてきた。
その抑圧がどういうものかは、この本に詳しく書かれているので是非読んでほしい。この本の舞台はダム建設で問題になった二風谷だ。そこで筆者は様々な場面で次のような言葉に出くわす。「アイヌなんて呼ばれたくない。みんな日本人だろう。」言っている人は明らかにアイヌの人だ。そう言われても筆者は、自分は「日本人」であり、彼は「違う」と確信する。なぜか。筆者の考えはこうだ。
1997年に旧土人保護法が廃止され「アイヌ文化振興法」が施行された。しかしそれは、日本人のイメージする「アイヌ文化」を表現できる人のみをアイヌとして持ちあげるようになっている。逆に言うと、それに当てはまらない人は「日本人」であるとさえ考えられるようになる。もちろん、新法がこういう状況をつくったのではなく、明らかにしただけなのだが。
たとえば、自分が「日本人」であることは、アメリカに行けば強烈に意識させられる。何もかも日本とは違うからだ。そこで、アメリカ人から日本の伝統文化を質問される。しかし、それについて質問者のアメリカ人より何も知らないことを思い知らされ、赤面する…。アイヌの人達は日常的にそういう状況にされされているのだ。
このようなアイヌの現実と向きあったとき、実は「日本人」こそ内実のない存在であることに気づく。他者を他者として受け入れず排除しつづければ自分を規定するものは、「〜ではないもの」としか表現できなくなる。「アイヌではないもの」「朝鮮人ではないもの」「障害者ではないもの」「女ではないもの」…。
そこで、この本の主人公ともいうべきアイヌの思想家、貝澤正の次の言葉をどう受けとめるべきか。かつての侵略戦争で中国人を殺したことを自慢するウタリ(アイヌ同胞)に対する怒り、「利用されて侵略されていながら、醜いことを醜いと思わなかったわけさ、アイヌ自身が」という怒りを。
この激白を日本人も受けとめたい。どんなに人口が少なくとも「民族」として認めあうこと、つまりお互いの社会を認めあい、尊重しあえる関係を憲法レベルで確立することが求められている。問題は、日本民族がそれを自らの課題と思えるかどうかだ。ひいては、それがアジア各民族に対して「反省しても反省してもまだ足りないのか」といらだつ日本人の無力感と孤独を終わらせることになるかもしれないのだ。
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