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「帝国」のある静かな辺境の町に、夷狄が攻めてくるという噂をもって首都から軍隊が派遣されてくる。文明の暴力、残虐さを、地方の民政官の目をとおして描く。
暴力の告発書であると同時に、ささやかながらも軍隊にたいして反抗を見せる民政官の生き方を通して人間の自由意思についても描かれている秀作。
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・ノーベル賞受賞作家であるクッツェーの作品。古本市にて30円で購入。
・帝国の辺境。年老いた民政官。軍隊。夷狄の女。屈辱。苦痛。そういう話。
・普通に読めば民政官の「私」が、若い夷狄の女に執着した事から地位を失い、恥辱を舐める、という筋なんだけど、どうもこの「老醜と若い女への執着」と「暴力、苦痛、恥辱」という2つが同じ延長線上には感じられずに読んだ。倒錯的な夷狄の女への歪んだ愛や行為と、押し寄せる暴力の渦が全く別個の出来事としてしか感じられず、最後まで違和感があった。今になって、こう書いている上では、なんかスッキリした筋に思えてくるから不思議なもんだ。
・何て言うか、「私」の夷狄の女に対する夜毎の行為というのは、儀式的かつ倒錯的過ぎてそこだけ浮いているように思えたわけですわ。外連味ばかりが気になった。なので、遠征の最中にキチンとした性行為に及んだ時の方が、よっぽどすんなり受け入れられた。
・今考えると「私」の直接挿入には及ばずに女の傷ついた足だけを愛撫し続ける、という行為はグロテスクなまでに若さに対する執着や愛憎を表現している事に気づく。夷狄の女が回復不可能な傷を負っていて、完全な女に対してではなく、そんな女に対して直接行為には及ばずに愛撫だけを続ける「私」のすさまじいまでの、若さに対する復讐と言えるような行為なんだ、と言うことに。
・そうなると、「老いた男が若さに対する執拗な執着によって身を滅ぼす話」と言うことか?やっぱりすっきりしない。外からの暴力によって徐々に狂っていくこの辺境の街の姿について、この筋書きだけじゃ説明ができない。
・これを南アフリカ出身の作者が書いているというのだから、殊更に興味深い。
・Barbariansを夷狄と訳したのは、訳者も相当考えたんだと思う。タイトルとしては凄くおさまりがいいけど、本文中にまで夷狄という言葉を使う事が果たして効果的だったのかはわからない。どちらかというと、違和感の方が強かった。意味としては「夷狄」がきっと伝えたい意味なんだろうけれど、一般性が足りなくて。
・なかなか強烈な余韻を残していて、気持ちを日常生活に戻すのが確かに大変である。
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面白かった。
主人公である帝国の地方行政官は、周りの異民族たちとも特に問題を起こさずやってきた。ところがある時帝国の中央からやってきた大佐が、無理やりとも思えるやり方で夷狄をとらえ、拷問してあれよあれよという間に夷狄が帝国にとっての重大な敵に仕立て上げられてしまう。
そんな中出会った夷狄の女に惹かれてしまった行政官は…みたいな話。
「これこれは何々の象徴」みたいな書き方が多くて、ばっちり考え抜いて書かれている感じの小説だった。
「文明」と「未開」という対立軸の在り方に対する批判、特に、文明という響きのいいもの中に隠された横暴が多く描かれていたと思う。
こういう書き方されると、「何か見落としてるところがあるんじゃないか」って緊張してしまうから難しい。なんだか自分は全然わかってない気がしてしまう。
たぶん主人公の行政官が、帝国の一部でもあり、かつ夷狄にも近い存在であることがこの小説のみそなんだと思うけどよくわからん。
平和に日本で暮らしてきた自分には、国とか文明の暴力とかには結構疎くて、ある程度無条件に信用してる部分があると思う。
正しいというか、もっともなことを言っているのは分かるんだけど、心から共感はできないというか。
これが平和ボケというやつか。
辺境での静かで穏やかな暮らしが、とても価値があって犯されるべきではないものとして、とても魅力的に描かれているところが好きだった。
「四季の循環の滑らかな回帰する時間の中」に自分たちをすべり込ませて、「自分が知りつくし理解している世界」で穏やかに満ち足りて暮らすことを望む主人公には、なんというかある種の説得力があった。覇気はないし保守的すぎるとも思うけど。
そしてラストシーンもとても好きだった。
帝国軍がさって、夷狄がやってくるのを待っている不思議な雰囲気。なんというか不思議な透明感(?)というか、淡々とした感じがあって何とも言えない感じがした。
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主人公は辺境の植民地に身を置く帝国の民政官。
静かな入植地に、夷狄討伐を目的とする帝国の軍隊が送られてくる。
軍隊は夷狄を捕虜にし、拷問にかけ、虐殺する。
民政官は軍隊のやり方に反発し、夷狄との共存を夢見る。
民政官は一人の夷狄の娘との関係を深めていくが、娘の心中を察することができないままに落ちぶれていく。
徹底的な「他者」としてあらわれる「夷狄」に寄り添おうとするとき、帝国の権力を一身に集める民政官すらもが「他者」的な位相にずれていく。
ずれと、暴力と、身体の描き方がとてもよかった。
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南アフリカの作家クッツェーの「夷狄を待ちながら」を読み始めました。なんか解説にはブッツァーティ「タタール人の砂漠」に似ている、とありましたが、なんだかそれより(さすがに)不気味そうな気配が最初っから濃厚…拷問の話だし…
(2010 06/08)
クッツェー「夷狄を待ちながらの第1章を読み終わりました。現代とか他の具体的な時代をイメージしているのではなく、様々な時代や場所のエッセンスがいろいろ混ぜ込まれて純粋培養したような感じです。ホントデスカ?
(この一因として、民政官が趣味?でやっている砂漠の中の遺跡発掘のことがあげられよう)
以上です。
私はある意味で事情を知り過ぎている。そうしてこの事情通という病からは、いったんそれにかかってしまうと、もう回復の道はないらしい。
結び目は環をえがいてそれ自体へと戻るもの。私は末端を見つけることができない。(p51)
上の文では、語り手である民政官の性格がわかるような気がする。細かいことにも気がつき、気にかかってしまう。そうして、この語り手の運命も?下の文は今のところ名何のことだがさっぱりわからない。前後の文を見てみてもよくわからず。こういった文は作品のラストまで行ってもう一度読んだら重要な鍵でした・・・ということが多い、のでよーく覚えておこうっと。
(2010 06/09)
彼女と私とのこれらの肉体は、希薄な、ガス状に拡散した、中心のない、あるときこちらで渦を巻いていたかと思うと次の瞬間には別のところで濃密化し、凝結するかと見えるが、また同時にしばしば平べったい、のっぺらぼうの空洞でもあるらしい。(p79)
この架空の時間と場所の物語は、一見現在の南アフリカを描写しているように見えて、あるいは過去の(おそらくヨーロッパ人が進出し始めた頃の)南アフリカ、あるいは古代中国、そして目を宇宙に転じ銀河とまた別の銀河との衝突を見ている、のではないかと思える。こうして時空を様々に移り変わる?のがクッツェー流?
(2010 06/14)
二つの空虚
おはようございます(笑)。
「夷狄を待ちながら」の続き、第2章後半です。一番始めに語り手である初老の民政官が夷狄の少女にあった記憶がどうしても出てこない。この少女を町で拾ってお気に入りにしている(具体的にどんな関係なのかは実際に読んでみてください)のだけれど。
一方、夢では、少女が雪で作る現在住んでいる城塞都市と全く同じ街に人がいない…なんだか空虚な雰囲気が漂います。昨日読んだ中にも「のっぺらぼう」という言葉が出てきましたが、まさにそんな感じ。
この先、物語に何が残るのでしょうか?
はい。以上です。
(2010 06/15)
今日読んだ所は第3章夷狄の居住地に行く探検行。「旅」ということで?幻想的な表現が多く出てくる(気がする)。
われわれの住んでいる媒体は空気ではなく砂となっている。魚が水中を遊泳するように、われわれは砂のなかを泳いでいるかのようだ。(p137)
そこでわれわれはまだ湖をあとにしていなかったことに気づく。湖はここ、われわれの足元に、あるいは何フィートもの厚さのある層の下、またあるときは薄黄緑色のもろい塩の薄膜の下に、広がっているのだ。この死んだ水の上に太陽が最後に照り輝いて以来、どれほど長い年月が経っているのだろうか。(p139)
砂に沈んだ湖?アフリカ南部なら、あるいはそういった場所が実際にあるのかもしれないけれど・・・
でも、実は何か(誰か)の脳内を歩いている、という気もしてくる。それが、この後出てくるつかず離れずの12人の夷狄を描く表現につながっていくような気も。
あるいはおそらく、これまで言葉に表現されなかったことだけが生き抜かなければならないというのが真相かもしれない。(p148)
どこかで言葉にしてあったらもうその生き方には意味がない(できない)、というのかな。まあ、その考えに賛成とも反対とも言わずに、語り手はじっと考えていくのだけれども、そうしていくとその言葉は不透明になっていき意味を失っていった、という。カルヴィーノの「難しい愛」の詩人の話の「黒」に対する「白」なのかな。雪が降るシーンと合わせて。
(2010 06/17)
そういうわけで私は依然としてあの女の姿をめぐって旋回と急襲をくりかえし、女の上につぎつぎと意味の網を投げつづけている。(p185)
昨日の朝読んだ所から。この後ですぐ出てくる烏を連想させる、とともに言語行為の成り立ちを説明しているかのような文だ。
今日は老いた民政官が勾留され、そこからの逃避行のところ。ここでは自由とは何か、についても考慮されているらしい、確か。
(2010 06/22)
せめてこれだけは、もしそれが言われることがあるとしたら、言わせて欲しい、もしいつか遠い未来に、われわれがどんな生き方をしたかに関心をもつ者が現れるとしたら、ここ、光の帝国の最果ての辺境の入植地に、その心においてけっして夷狄の番人ではなかったひとりの男が存在していたということを。(p234−235)
意地の悪い読み方かもしれないけれど、この物語が直接下敷きにしていると思われる南アフリカ植民地初期時代に、果たしてこのようなことを考えていた人物がいたかどうか?いなかった可能性の方が高いかな?という気もするが、そこを信じるのがクッツェーの信念なのだろうか? ここら辺りにおいて、「タタール人の砂漠」より、ローマ帝国の崩壊?を扱ったカヴァフィスの詩の方に立ち位置が近いという気がますますしてくる。
p246からの節は、この小説最大の読みどころかもしれない、たぶんそうだろう、老民政官が夷狄の遺跡から出土した木簡を(勝手に)読むところ。特にp251の1ページにはこの小説の成り立ちや、クッツェーの小説論にもなりそうな、メタ小説についての記述と耳をすませば聞こえてくる無名の死者の言葉を聴くのだという思いが綴られている。
・・・と第5章にも突入し、一つ気になったことがある。この語り手の老民政官はどんなに拷問で身体が弱っている時にも、滞りなく語りを読者に送ってくる。そんな余裕ないだろう?と率直に思うのであるが、かといってこの語りが回想でできているとも思えない。この民政官がこの後全快して立ち直るとも思えないし、思い出そうとする語っている現時点���の苦労が全く出てきていない。不思議な語りである。ひょっとしたら、語り手は耳をすましているクッツェー自身? 昔この場所にいて、拷問から立ち直ることができないで死んでいった者の叫びを再構成(時代を越えたメタ記述含む)しているのでは? まあ、この先老民政官がどうなるのか、まだよくわかっていないのであるが。
(2010 06/24)
帝国に侵入してくるものは・・・
そのときクライマックスがやってこようとしているのを感じるー遥か遠い、かすかな、まるで地球の反対側で起こった地震のような。(p334)
そうしてクライマックスがくる。遥か遠い海上で一瞬光ってたちまち消えてしまう雷光のように。(p335)
やったらめったらクライマックスが来てますが(笑)、これは娼館?でのこと。老民政官・・・年老いた男ってこんな感じ?まだ私にはわかりません(笑)。ただ、表現的には繰り返し効果もあり面白い。
ということで、「夷狄を待ちながら」を読み終えました。この小説の一つの味であるどんなときも置かれた立場を批判的に見る現在形語り口は、やはり意識的なもの。
現在形の語りに読者が感じるのは、完結してしまった出来事ではなく、まだ完結していない出来事を自分もまた体験しているという感覚ではないかと思う。読者はいわば宙吊りにされたまま、判断停止に追い込まれ、ただ語り手の言葉を追うしかない。(p354)
と解説で福島富士男氏が述べている通り。宙吊りといえば老民政官になされた拷問のひとつにそんなのがありましたが、小説の読者の姿をもそこで映していたのかな?
あと解説からもう一つ。
彼は帝国の官吏であり、彼の言葉は帝国の虚偽の歴史を反復するほかないからだ。ジョル大佐の拷問を受けた夷狄の娘を介抱する彼は、結局自分とジョル大佐とは帝国による支配の両面ではないのかと思う。(p350)
だからこそ、老民政官は自分が集めた遺跡から出土した木簡を埋め戻して、夷狄が侵入してきたら彼らが歴史を再構成するだろう、と思う・・・わけですね。この辺、かなり現代的課題を秘めている。結局、この小説内で夷狄が町を襲うところは出てこないのであるが、さてさて、帝国を人類全体、夷狄を他の動物、そうだなあ例えばゴキブリや鼠あたりにしてみたらどうだろう? ゴキブリや鼠は歴史を再構成するのだろうか・・・しないだろって安易に考えてはこういう小説読んだ意味ない。少なくともゴキブリや鼠に拷問はかけてますね。でも、いつか、きっと・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)。鼠といえば、グラスの「女ねずみ」もありましたっけ。でも、それよりなにより架空のエリザベス・コステロという老女性作家を創りあげて動物虐待の講演などさせているのはクッツェー自身・・・
・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)
・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)
・・・えーっと、考えるのやめとこ(笑)。小説内のセリフ(さっきの老民政官の相手をしていた女の)をさっと引いて終わりにしよっと。
未来のことを思い煩うには人生はあまりに短いもの。(p336)
(2010 06/26)
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【概要・粗筋】
ある辺境の町に、夷狄が攻めてくるという噂の真偽を確かめるために首都から治安警察第三局が派遣された。彼らに対し非協力的である町の民政官である「私」は、拷問を受け傷つき物乞いをしていた夷狄の女を保護した。その後、辛い旅の末にその娘を夷狄の仲間の元に戻し、町に帰還した「私」は、夷狄の内通者として捕らえられた。夷狄襲来の噂に翻弄された辺境の町と民政官の反抗と恥辱と欲望の物語。
【感想】
「私」が繰り返し見る夢や彼の独白と意味をくみ取ることができないものはあったけれど、滅び破壊されていく辺境の町の物語に魅了された。特に後半の無実の罪で「私」が捕らえられたところからは一気に読み終えた。
拷問や暴力のシーンが多く描かれていて、特に捕虜になった夷狄の男たちが頬と掌に針金を通されて連行されるところは痛々しかった。夷狄と帝国臣民のどちらがより野蛮なのだろうかと思ってしまう。
民政官である「私」が帝国のやり方に反発を感じ、孤軍奮闘するのだけど、ヒーローには似つかわない俗っぽさがよい。
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根拠のない理由で「帝国」の「軍隊」が先住民の「夷狄」を敵視して横暴を働く。その地で長年、民政員として先住民との共存を模索する主人公。
作者の経歴から察するにおそらくモデルとなる地は南アフリカ、東ケープ州だが、舞台を特定されるような固有名詞が出てこないことによって普遍的な物語として構築されている。この本が(原書で)出版されたのは1980年だが、おそらく今の時代に読むわたしたちには、この「帝国」は、大量破壊兵器を見つけられないままイラク戦争を続けた米国の姿に重なるかもしれない。さらにその昔、ヨーロッパの白人がアメリカの先住民をそうしたかのように。2003年にクッツェーがノーベル文学賞を受賞したのはこの意味合いが強いのかと想像。文明が洗練されてくると未開人をインテレクチュアルに理解しようとするのがヨーロッパ中心主義からの反省か。
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Barbarian(野蛮人)を夷狄と訳したのがこの小説の質感にどう影響しているのかはわからない。傲慢な帝国の素朴な官吏として異民族と国境に暮らす一人の男というモチーフが、アパルトヘイト下の白人を根底にあるのは明らかだし、かといってほかに適訳があったとも言えない。とはいえ、この一つのモチーフがあることで、私たちのような日本人にも、広漠とした帝国の隅で、一人の老年の男が苦悩する姿が見える。そして、そこには政治上の問題だけでなく、一人の人間が命に苦悩する姿が見えた。
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1980年発表。南アフリカ出身の作家クッツェー著。辺境の町に、夷狄が攻めてくるとの情報を元に帝国の部隊が訪れる。拷問を受けた夷狄の娘に恋をした民政官は、夷狄と通じているという嫌疑をかけられる。
舞台はアフリカらしいが特に言及されていないので寓話的に読めた。夷狄を敵とみなして彼らを狂的に狩りたてる帝国、本来はどちらかと言えば人畜無害な夷狄、その中間の立場にいる民政官。非常に分かりやすい構図だ。だが故にもう少し捻りがあってもよかった気がする。
それよりも、もう一つのテーマとして浮かび上がってくる、砂に埋もれた廃墟の方が興味深かった。どんなことが起ころうとも廃墟になって後世の人に発見されるだけ、その瞬間を見つめて痕跡を残そうとする民政官。彼の達観が身に沁みる。
本編とは関係ないが解説が面白かった。クッツェー特有の現在形の多用を、「まだ完結していない出来事を自分もまた体験しているという感覚」「語りがモノローグの印象を帯び」「『告白』に立ち会わされているような」と言う。まさに的を射た意見だ。
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まず「夷狄」をいきなり広辞苑でひいた。民生官の「私」と「夷狄」の世界は相いれない。帝国の不真面目さが、老人の性が特に興味深い。初のアフリカ文学作品読書となった。
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舞台は夷狄の居住地域と接する辺境の地。そこで20数年民政官を務める男が主人公だ。夷狄の民は姿は現すけれど、特に攻めてくるわけではい。ところが、帝国政府の軍人による夷狄が攻めてくるという噂により人々が不安に陥る。主人公は噂を信じないが、そのことにより迫害を受けることになる。
夷狄とは、帝国の支配を正当化するための仮想敵であり、この正当化い疑問を持つとどうなるかという、支配の本質と、これに対抗する主人公の心情が描かれた傑作であると思う。
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【G1000/28冊目】夷狄とは野蛮人的な表現で文化の埒外にいる部族を一般的には指す。よって帝国から見れば敵ですらなく、人ですらない。民政官はその夷狄の女に不思議な魅力を覚えるが、それは性的なようでありそうでもなく、人としての根源的な交わりであったのかも知れない。しかし、夷狄は帝国にとって帝国を帝国たらしめる存在であり、帝国であるために夷狄を弑虐するのである。つまり、夷狄は夷狄というだけで弑虐される。ここに人種差別とは、ただ文化的な暮らしをする者から見て、文化の埒外にあると判断されただけのことなのである。
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(随時更新)読み終わってすぐ熱意のままに書く感想。
特に印象に残っているのは”女”の描き方。というのも、初老で醜い体つきの主人公は人並みに女に欲望を抱くのであるが、その欲望の種類や出方が非常に複雑なものであるのだ。特に、時として夷狄の女や娼婦は彼に不埒な感情を抱かせる。その内から沸々と湧き出てくるような性的魅力やそれとは対照的にもっと別の所にある欲望とは無縁の興奮、クッツェーには珍しい血の通った言葉という感じがして、非常に読み易いと感じた。
この世界文学に含まれた人種差別問題等の社会的なテーマについては巻末の解説が非常に興味深いものだったので、そちらに委ねる。
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蛮族との紛争が予期される辺境の地で執政官を務める男性が主人公…と聞いて、『タタール人の砂漠』のように、結局蛮族は攻めてこない系の話かと思っていたけれど、蛮族全てを「敵」と見做すのでなく、法と正義を遵守するべきと考えた男が、軍部との対立から厳しい弾圧や拷問にかけられていく話だった。
蛮族の娘を助けたことに対し、男に下心が決してなかったとは言えないはずだが、全体主義という環境の下や、同調圧力強い環境の中で、自分は自分の正義を貫けるのか?という視点から読むと非常に重たい内容だったと思う。
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人間は集まり力を持つと暴力性を帯びる。歴史は人間という集団の暴力の物語であり、これまでそしてこれからもそうなのだろうと思う。家族から国家まで、どの規模の共同体でも争いが起きる。民政官の夷狄に対する考え方は平和的で道徳的にも正しく聞こえるが、暴力の前に屈してしまう。そして誰も彼を助けない。「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である」とはキング牧師の言葉。 表紙のエルンストが好き。