紙の本
相変わらずうまい
2004/07/30 10:27
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投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る
「自分で言うのもおこがましいけれど、拙文を書物にまとめるに際して、ぜんたいのたたずまいにわりあい気を配るほうだと思う。文字の種類やポイント、頁の天地にある空白の割合、紙質と束、花布やスピンの色、カヴァーや背の表情などもできればいい加減に済ませたくないし、装幀家に依頼する場合にも、なるべく具体的な希望を伝えるようにしておきたい」と著者自らが本書の中のある一編で述べているように、この本の装幀はなかなか凝っている。本屋で手に取った時に、読みたいと思うとともに所有したいという気持ちにさせる。ちなみに装幀は、堀江敏幸+中央公論新社デザイン室。
いろいろな媒体に発表しているエッセイの寄せ集めなので、テーマも長さもまちまちだ。逆にそれがいい味になっている。堀江敏幸のエッセイ(小説もそうだが)はどうも掴みどころがないというか、はなし自体が浮遊している感じがする。浮遊している思念を両手でそっと捕まえて、優しくおにぎりをにぎるようにして作っているような、そんな感じ。
冒頭の「静かの海」は、鉄道の高架下にある正方形に近い敷地を持つ変哲もない公園のことを書いている。この公園は「四辺のひとつを環状道路が、ひとつを私鉄沿いに走る道路が、ひとつを一方通行の道路が区切り、残りの一辺は宅地を隔てるブロック塀になっている。しかもそれぞれの辺がさほど高くもない金網状のフェンスに囲まれており、外からは中が、中からは外がすっかり見て取れる」ようになっている。コピー屋代わりに使っているコンビニに行く途中にあるこの公園に著者はなぜか惹きつけられる。それは、夜の十時ごろに見たその公園があたかも月面に広がる「静かの海」に見えたからだ。
こんなふうに静かに進んでいくこの話は、その公園で夜中にフットサルをし始めた若者たちの登場によって、俄然動きが出てくる。ちょっと退屈かなと思われた話は「静かの海」での「フットサル」という異物の混入によって息吹はじめたのだ。
文章のうまさ、言葉の選び方も読んでいてため息が出るほどだ。最後の一編「鉛筆の木」の最後の部分を引く。
「十ミリ以下になった「ちび鉛筆」は、海辺で拾った貝殻みたいに、あるいは抜け落ちた真っ白な子どもの乳歯みたいに、蓋つきのガラスビンに保存しておく。老舗の定番ばかりなので、色合いも渋く、数が集まると植物の種のようだ。いつの日かそれらを、近所の公園にでも、こっそり埋めてやろうかと思っている。鉛筆の木が生えるのを夢見て。」
k@tu
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冒頭の「静かの海」に惹かれる。三方を道路の囲まれた何の変哲もない囲い地。都市の中洲というか谷間というか、まん中にありながら疎外されている―そんな空間に立つ(うずくまる?)堀江さんの眼。
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とあるレビューを見て
たまらなく読みたくなってしまった本…
「一階でも二階でもない夜 回送電車?」堀江敏幸
まだ途中ですが、数々のかみしめたい言葉があるのです。
時間の経過や通り過ぎてきた事物のひとつひとつが、
自分の中でどんな風景としてのこり、どんな言葉で意味を深めてきたのか?
何度もボク自身を振り返りながら読んでいます。
なんだかとても好きな一冊になってしまいました。
そういう本って、タイトルからして何かしらひきつけられるものですね。
手にとって開いてみると、本としての存在感がまたすごく自然に読み手になじんでくるのです。
読みたい本、というよりも、読みつづけたい本
出会えたことがうれしい一冊です。
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「回送電車」に続くエッセイ集。笑える話とか面白い話がいっぱいのエッセイ集もそれはそれで好きなのだけど、この人のエッセイというのはそういうのではなくて、むしろその視点の面白さを味わうというか。こういうさらりと低温なのに風来坊的な人間が今の世の中では少なくなってきたなぁ、と思う。(07/9/17)
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かつては当たり前だった「なつやかた」も今では贅沢なこと。
眼の中の水は自分が呑み込んだもうひとつの世界。
東京に雪が降ると翌月の文芸誌にも雪が降る?
画商との関係とを絶ち貧しかった画家クートラスの残したカルト。
アメリカ映画をフランス語吹き替えで見るとバットマンは禿げた鼠。
パリの店に行くなら名前に公共施設が入っているところがいい。
自分の仕事は「企画書が書けませんでしたという始末書」である。
東京では「町へ行く」という表現が使えない。
みんながじぶんのやり方と同じようにしていると思ってくれるな。
フランス語では針金クリップをトロンボーンと呼ぶ。
新宿の雑貨屋で始めてレモン石鹸が売られているところに遭遇した。
安全性の面から電車内での化粧はやめた方がよい。
カバー:北園克衛「プラスティック・ポエム」より
装丁:堀江敏幸+中央公論新社デザイン室
やっぱり文学部分(主にⅡ部)は知らない話ばかり。
むしろ全部読んでる人っているのだろうかと思ってしまいます。
それでもやはりものに対する扱いの丁寧さが好きです。
空き地を「水底に沈んだ青白い聖域にうごめく半魚人たちの姿が
さまざまな光を浴びて自在さと混沌の魅力を夜空に伝える神秘の空隙」
と表現する人はきっとこの人しかいない。
「歩道橋のうえからのぞく遊び場は、荒々しいスタジアムというより、水底に沈んだ青白い聖域にうごめく半魚人の姿がさまざまな光を浴びて自在さと混沌の魅力を夜空に伝える神秘の空隙――都市の内部に横たわる奇妙なへりに出現した空なる磁場、すなわち「あき地」だった。」
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過去の作品にまつわる執筆秘話的なエピソードがいくつか紹介されていて、それらを既に読んだ身としては興味深い。器用に既存のジャンルを迂回して緻密に構築された独自の作品世界、と思っていたものが実はそれ以外にとりようのない堀江氏としての必然の帰結であり、計算でも何でもないというのは謙遜であるかどうかはともかく妙に納得させられる。
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執拗なほどに厳密、
でも うるさくない
冗長と紙一重に、
丁寧に自分のなかのリアルを淡々と「説明」していく
使う語彙に、さきがみえない。
この人の文は、
ふしぎな文字列をつくる。
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百年で行われたトークショーに参加した帰りに読み終わった。トークショーとはメモを片手に聞かねばならぬのかと驚きつつ、しかし来ている人達が題目となっている人のファンなのか堀江さん目当てかは不明。ご本人は文字での印象よりもよどみなく喋る人だった。本人を拝見して、エッセイの読み方、というか書いている人の思考速度に自分を軌道修正する、というのも面白いかもと思った。
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堀江敏幸「一階でも二階でもない夜/回送電車Ⅱ」読んだ。http://tinyurl.com/3asqxpl 読書会で知ってすっかりお気に入りになった人。とにかく文体が好き。大真面目な顔で淡々と冗談を言われているような感じがするのは、読書会の課題図書「おぱらばん」と同じだ。(つづく
相変わらず創作なのか身辺雑記なのか判断不能で、日常の瑣末事を取り上げて、大仰に、でも飄々と語られる内容は知的な人の悪ノリのようで、読んでいて楽しい。出てくる他の本や映画も見てみたくなる。エッセイは1冊通して読むうちに途中で飽きることがあるけれど、この人のはそれが無い(今のところ)
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意味があるようなないような、翻訳詩にでも出てきそうな曖昧なタイトル。副題に「回送電車Ⅱ」とある。以前に出した同名のエッセイ集の続編である。そういう意味でつけたのなら、その意図するところは分からないでもない。かつて、その『回送電車』の中で、作者は階段の踊り場に寄せる愛着について語っていた。それは、煌々と灯りをともしながら、そこにいるべき乗客を乗せずに走り続ける回送電車にも通じる、ある種の居心地の悪さを意味している。「一階でも二階でもない」のは、小説ともエッセイともつかない作品を書いている作家の置かれた位置を表していたのである。
『一階でも二階でもない夜』は、主に新聞、雑誌、その他に求めに応じて書かれた短い文章をまとめて編まれたエッセイ集である。四つの章に分けられているが、その分類は大まかにいえば、東京風景、文学芸術評、パリ風物、身辺雑記とでもいえようか。どちらかといえば、相手の注文に合わせて書かれた請け負い仕事という感じもする随筆風の文章が集められている。次々と文学賞を取り、仕事の注文をこなすのに忙しい流行作家の横顔が見えてきそうだ。
ところが、意外なことに、作家は、自分の仕事を、いきあたりばったりなもので「企画書が書けませんでしたという始末書」を丁寧にしあげようと努力しているようなものだ、と評する。そして、「ときに技巧が勝りすぎると思われるほど計算されて」いると評される自分の仕事について、相手の誤解に対する苛立ちを隠せないでいる。「しかしそれほどの技巧と計算力が備わっていれば、わたしだっていまごろは立派な物語作者になっていたはずではないか」と。自己韜晦をしているわけではないらしい。「存在の明るみに向かって」という、宇佐見英治を追悼した文章の中で、その文章を引いている。
以前、或る長いエッセーを書いたとき、当時著名であった先輩の文芸評論家から、きみの書いたものはおもしろいが、結局何をいいたいのか、結論がないといわれたことがあった。あたかも行為には必ず結果があり、人の一生や歴史はある結論に達するためにある、といわんばかりに。かかる実務家まがいの俗流には、錬金術師に倣って《四角い円》circulus quadratusを夢みているのだといっておこう。(『方円漫筆』)
宇佐見英治という人を、迂闊なことに知らなかったのだが、面白いが結論がない、というのは堀江敏幸その人に対する評とおおむね重なろう。結論が予めあって、それを導くために書くのではない。自分が今どこにいて、どう感じるのかを探り続けた結果が、作品として成立する。自分が感じていたことをかくもあざやかに表明されていることに新進作家がどれほど勇気づけられたか想像するに難くない。
物語作者かどうかは知らぬが、「スタンス・ドット」で川端康成賞を、それを収めた『雪沼とその周辺』で木山捷平文学賞を受賞したあたりから、堀江敏幸にも、というべきか、日本の短編小説作家的なものが期待されるようになった。古書店巡りを題材に採った一編にも小沼丹や島村利正に対する関心について言及した部分があるように、作家自身あらためて、この国の文学地図の上に標された自分の位置を探りはじめているようなのだ。
先に引いた宇佐見の別の文章。「方位でもなく方角でもなく方向。定位ではなく定向。それが今日の人間の行動を律する主要な指標となった」という言葉が、ことのほか身に浸みた、という堀江である。自分の位置がどのあたりにあるのかを探っても、それを自分の進むべき方角と勘違いしたりはしないだろう。たとえ、筋らしい筋や、結論がなくとも、面白いと感じられるなら、そこには何かがあるはずだ。今一度宇佐見の文を引いておこう。
「もし私の書くものに何らかの真実があるとすれば、それは森の下蔭に、言葉の岩肌の間に隠されているはずだ。私がそう望んだためではない。存在(ザイン)は、もしそれが真の存在であるなら、自ずと隠されてあることを、秘匿されることを希うからだ。」
日本文学プロパーには逆立ちしても書けぬ硬質な気韻のようなものを、堀江にはいつまでも持ち続けていてもらいたいと思うのである。