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紙の本
「レイバック・イナバウアー」社会学
2006/05/23 06:17
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
非常にインパクトがあり面白い。お勧めの本だ。ただ、本書の良さについては多くのbk1評者さんが言及されているので、そちらにお任せするとして、私は気になった所を一点書いてみたい。
第6回と7回のタイトルは「日本人は勤勉ではない」だ。どのように論証してくれるのかワクワクしながら読むが、見出し通りの結論にはならない。《日本人はさほど勤勉ではない》となる。これは「日本人はある程度は勤勉である」とも、言い換え可能のような気がする。
私が「日本人は勤勉かどうか」という命題に答えるなら、「勤勉な日本人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。相互に変わることもあるでしょう」となる。しかし、この答えは実につまらない。こんな答えでは、売れる本は書けないでしょう。
数でいえば、「日本人の8〜9割は勤勉である」ことが証明されれば、「傾向としては勤勉である」と言えそうだ。しかし、ここで「勤勉」の定義が問題になる。つまり、何をもって「勤勉」かそうでないかの境界線を引くための客観的な基準とするのかということだ。これって非常に難しいと思う。
例えば「○○人は約束した時間をまともに守らない、時間にルーズな国民性だ」という言明なら、本当に時間にルーズなのかどうかを調査・検証することは十分に可能だろう。
勤勉とは『仕事や勉強などに、一生懸命に励むこと。また、そのさま。』(大辞泉)というあいまいな概念でしかない。「私なりに一生懸命やってます」と自己申告が出来てしまう。単純に時間をかければ「勤勉」という話でもないはずだ。
結局のところ「勤勉」かどうかなんて、大概が主観的に判断しているにすぎない。だから、私だったら「客観的」な証明は唱える側に負わせる。それがされないのであれば、「日本人が勤勉かどうかの判断は難しい」という結論に持ち込むと思う。
しかし、それではエンタテイメントにはならない。線引きがはっきりしていない以上、「日本人は勤勉ではない」も証明しにくいのだが、著者はそれを積極的にやろうとする。
そこが面白い、とも言える。暴走気味になりやすい、とも言える。
例えば、《イヤな仕事はすぐやめて、楽そうな仕事、おもしろそうな仕事に就く》人が昔も今も多いことを、「勤勉でないこと」の論証材料にしているのだが、どうだろう。
まず、イヤな仕事をすぐやめることと「勤勉でないこと」の間に、相関関係はあるのだろうか。「やめる」というのは職種選択替えの問題であって、向いた仕事が見つかれば励む可能性は大いにあるだろう。「おもしろそうな仕事」が実際に面白ければなおのこと、その仕事に打ち込む可能性は跳ね上がる。そうもいかず、次もイヤな仕事に当たったとしても、当座は一生懸命にやっている人もいるであろう(励む動機なんて人それぞれである)。となると「楽な仕事じゃなければイヤだ」という動機で職探しをしている人なら、「勤勉でないこと」との関係は強そうだ。しかし楽な仕事に就けたとして、その楽な仕事を勤勉にこなしている人だっているかもしれない。
つまり、著者の言う「事実」は論証材料としては弱いと思うんだよね。
「日本人は元来、勤勉な民族である」という、歴史的評価にも確実な根拠はない。本書はその評価に信憑性がないことを明らかにしてくれるので、それだけでも価値はあるのだが、ついぐだぐだと考えてしまった(苦笑)。
ともあれ、先に暴走したのは機関車「常識号」の方ではある。著者にはそれに対抗するだけの力量がある。ユーモアと皮肉を武器に「面白がりながら」挑戦しようとした、しなやかな書き味も光る。
さて、本書の出版後、「常識号」の暴走はどれだけ軌道修正されたのかというと、夏場の背広非着用ぐらいじゃないかな(本書の貢献度はいかに?)。
本書の目論見と意義は、まだ当分は錆び付くことはなさそうだ。
紙の本
著者の芸風を楽しみながら、自分の頭で考えよう
2004/11/12 03:13
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SCORN - この投稿者のレビュー一覧を見る
「反***」というタイトルは逆説的な意味であることが多いが本書も同様である。中味は極めて正統な社会学本といってよい。世間に流布している社会学の衣をまとった一見もっともらしい「常識」について、その根拠や内容がいかにあやふやなものであるかを、著者は様々な統計データ等を駆使しながら批判していく。筆致は軽妙かつ挑発的で、読み物としてもなかなか楽しい。
取りあげられているテーマは「少年の凶悪犯罪」「パラサイトシングル」「フリーター」「少子化」等々多岐にわたる。これら一般的には大きな社会問題とみなされている事象が、著者の手にかかると、全く別の様相をもって立ち顕れてくる。
例えば、「キレやすいのは誰だ」と題する章では、最近10年間の犯罪動向に基づき「少年犯罪が急増している」という「常識」について、より長期の統計データを示すことにより、戦後少年の凶悪犯罪が最も多かったのは昭和30年代であることを示し、その数分の一のレベルで推移していることを隠したまま最近10年間のみを切り出して「少年犯罪の急増」という取りあげ方をするのは一種の捏造であることを指摘する。さらに進んで、犯罪統計からみる限り「戦後最もキレやすかったのは、昭和35年の17歳」、すなわち現在の50代・60代の人間であり、まさに少年の危険性を声高に叫んでいる当人達の方こそが危険なのではないかと皮肉たっぷりに結論づける。
他のテーマについても同様であり、各章毎に「今回のまとめ」として、既存の「常識」を完全に転倒させるような結論を導いていくのだが、この「まとめ」を導く過程において、著者は統計データ等に依拠しつつも、その解釈において正攻法の論理と飛躍した論理(あるいは詭弁ともとれる論理)とをないまぜにして用いている。(例えば、最近10年間のデータのみを用いるのは不適当というのは真っ当な論理だが、昭和30年代に少年犯罪の件数が多いことを以て、人格的危険性(キレやすさ)を当該世代の人間全体の特徴として論を進めるのは飛躍した論理といえる。) もちろん、このような混交した論理の使用と極端な結論の導出は意図的なものであろう。著者の主張に安易に賛同するのではなく、問題の所在と解決の方向性を自らの頭で改めて考えてみる方向に読者を誘導するための一つの工夫とみるべきである。
上述の例に戻れば、最近10年間のみのデータにより少年犯罪の急増を論じることの不適切さを認識することは極めて重要であるが、その認識の上に立って「だから少年法の強化等をはじめとする少年犯罪対策の在り方は疑問」という立場もありうるし、逆に「昭和30年代と比べると少ないとしても、やはり過去10年間の少年犯罪増加傾向は看過できず何らかの対策強化は必要」という考え方もありうる。要は、流布している「常識」やあるいは他者の意見などを漫然と鵜呑みにせず、考え得る様々な角度から自分なりに十分に分析・評価を行った上で、自らのスタンスを決定していくというプロセスこそが重要なのである。本書の内包しているメッセージもおそらくはそこにある。
なお、本書は、一年くらい前からネット上で話題を呼んでいた「スタンダード反社会学講座」の書籍化。ネット上の連載は今でも随時更新されている。著者の正体についてもネット連載当初からあれこれいわれているが、こういう詮索は野暮であり、その芸風を楽しむべきものだろう。