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こういう本は一生に何回でも読みなおすんだと思う。
そういう類の本。
非常に易しい言葉で書かれてますが、本質を突く言葉が色んなところに出て来て、目から鱗でした。
また、時間をおいてゆっくり読みたい本。
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半月くらい前からじっくりじっくり、読み進めていました。
かみしめるように、先を急がずに読み、今日読了しました。
いつのことだったかは忘れたけれど、
「ぜひ、専攻を二つ、持ちなさい」と授業で語った教授がいました。
その時は、その意味が漠然としか分からなかったけれど、
その意味がこの本を読んで少し分かった気がします。
筆者は精神医学、哲学、文学、さまざまな分野から「生きがい」について論じていますが、だからといって軸がぶれることなく、一層深みが増しています。
以前、筆者についてのルポを読んでいたので
筆者自身の信仰する宗教寄りの解釈が多いのだろうか?と
勝手に推測していたのですが、全くそんなことはなく、
そうした段階を超えた、「人間」としての解釈と論述でした。
自分の心の動きや感情の変化に、情けなくなっていた時期に読んだのでこの本の中の数々の文章に励まされました。
☆おまけの一冊☆
「神谷美恵子 聖なる声」(宮原安春)
筆者の生涯を振り返った作品。
強い使命感にはとにかく圧倒されます。
それでいて、凛としたゆとりがあるというところにも
惹かれます。
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祖母の通う教会の牧師さんから二十歳のお祝いに贈られた。
読むのが一年遅くなってしまったが、ちょうど良いタイミングで手に取ることができたと思う。
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「ひとは死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめみずからの心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身もかるがるとする。そしてひとびととの残るわずかの共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容のゆたかさを増す。」 (「生きがいについて」神谷美恵子)
わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくとも、じっと眺める眼、細かく感じとる心さえあれば、一生おなじところで静かに暮らしていても、全然退屈しないでいられる。エミリー・ブロンテは一生同じところで変化に乏しい生涯を送ったが、あの烈しい情熱と波瀾に 富む「嵐が丘」を創り上げる心の世界をもっていた。(「生きがいについて」神谷美恵子)
「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのであります。」(パール・バック)(「生きがいについて」神谷美恵子)
愛に生きるひとは、相手に感謝されようとされまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じるときに、生きるはりあいを強く感じる。これまた反響への欲求の大きな満足であろう。そういう意味では、親は子に感謝しなければならないわけである。ひとは自分が世話になったひとよりも世話をしてやったひとのほうをこころよく思うものだ。(「生きがいについて」神谷美恵子)
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以前、仏教に帰依している人間たちと話したことがあるが、彼らは、自分がやりたいことをやり、それに対して使命感を感じている様子であった。
つまり、本書でも指摘されている「生きがい」を支えている材料が揃っていることになる。
私は、自分に何らかの使命を与えられているとは感じていないし、やりたいことも漠然としていて落ち着かない毎日を送っている。
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結晶化したエピソードと持論を読んでいくにつれ、
僕の中で自信がなかった思いが形をもって浮かび上がる。
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こんな本に安易に手を出すものではないと、最後に叱られたのが印象的。
・・・はい、もっともっと自分の人生を生きてから読み直します。
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いまの乾きつつ水をはじく心にはもっとも入ってくるものかもしれない。
体裁としては生きがいを分類し、あるいは時系列で状態を整理して述べているのだけど、何より著者のあたたかさが伝わってくる。『夜と霧』のように悲惨を煽るでもなく、フロムのように規範的でもなく、ただただ丁寧に愛を持って、幅広い題材から人の心を細やかに追っている。やわらかい文体も寄与しているのだろう。
らい病患者の手記やさまざまな時代の一流の文学、現代思想としての精神医学などさまざまな知見を縦横無尽に駆け巡りつつ、それを感じさせないあっさりとしたさま。
それにしても、僕は生きがいを失っていたのだろうか。生きがいを失ってはいた。緩やかであれ、一年近く価値判断を見失った状態にあったとは思う。
しかし、いかなる悲劇もなく、心に穴が空くことはなかった。神谷が言うような心の深みは、まるでない。
だったら、埋め合わせるべき心のしこりがないだけ前に進まなければいけない。道徳的な使命でもなく、他の誰のためでもない。自分のためにしてやれることがそれしかない。そんなことを思う。
いい加減価値判断を暫定的にでも定めなければいけないと思う。体は動かせるだけ動かさないと前に進まないことはそれなりの深度で学んだ。留学か院かで迷っても、タイムリミットを決めて迷おう。迷えるための努力は手を抜かないようにしよう。抜いてしまえたなら、それまでだ。
自分ひとりであれば、甘ったるい幻想でも満足してしまうものだ。
逆に、自分ひとりのところに無理に厳しさを持ち込もうとする必要はないのかもしれない。
さて、この本にある種の偏りがあるとすれば、生きがいを徹頭徹尾一人の問題として捉えていること。神谷の言葉は沈みきった人に届く言葉であろうが、そうでない人にはまだ自己欺瞞なり、あるいは(ハイデガー言うところの)頽落的な生というのもありうるだろう。要するに、他人を見ること。
あるいは、一つの重みのために他のことが吹き飛んでしまうという描写もある。何かむずむずした問題が目の前にあるとしたら、それは核心なのか吹き飛ばすべき問題なのか分からなくなることもあるのではないか。
漠然とそんなことを思った。が、名著としての重みは変わらない。
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マルクス・アウレリウスの「自省録」の邦訳をした神谷美恵子の集大成といえる名著。らい病の施設で働いた経験から、誠実に美しく人の生を見つめる女史のことばがひとつひとつ胸に沁み入る。読後は、こころの重い荷を降ろされたような爽快感と、ほんのりと温かくなる心持ちに、生の実感が湧水のように溢れ出す。こういう本を読み重ねていくことが、人生の財産になっていくんだろう。
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生きがいとは何か。1966年に刊行された本でありながら現代にも充分通用する思想が書かれていた。おびただしい数の引用文献と、自身のハンセン病患者への治療を通して、「生きがい」について真正面から考えた書籍。この時代にこんなにたくましい女性がいたことにも驚いた。
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印象に残った箇所は
「自らの精神のよりどころとなるものを、苦悩の中から作り出す」
「死をふみとどまるには、①単な好奇心②憎しみや攻撃心」という文で、②は「適当な方向とハケ口さえあたえられれば、バネの役目になる」には大いに共感した。過去の憎しまれることについて、後悔するのではなく、「這い出す」ために未来に活かしていく視点で考えてみると、「生きる意味」がつかめてくる。
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493.7-カミ-1
100123397
人と接して、その人のQOLについて考えることになる皆さんには、是非とも読んで欲しい古典的名著です。「ちょっと難しい」と思う方は「神谷美恵子 生きがいについて」(若松英輔:100分de名著、NHKテキスト、2018年)という入門書から始めることもできます。
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とりあえず読了。何回か読み返さないといけないけど、今はしばらくは置いておく。きっと分かってくるだろう。そのうち。
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何度も手にとってはやめ、
手にとってはやめ、を繰り返し、
やっと「読める」時が来ました。
今がその時だったのでしょう。
濃密な、あまりに濃密な一冊でした。
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「自省録」を翻訳した神谷美恵子さんの本。
らい病患者の病棟でも「いきがい」を感じてる人と「感じてない人」がいるのはなぜか?
まず「生きがい」を認識してるときを以下のような状態と定義。
1、自分の生存は何かのため?誰かのために必要であるか?
2、自分固有の生きて行く目標は何か?あるとすればそれに忠実に生きているか?
そして生きがいをどういうときにもち、喪失し、そこから再生するのか?についいて論を進める。生きがいについての体系的な本。
以下印象的だったところ:
自己実現とわがままの区別は生きがい感と結びつけたら明らかである。わがままというのは自我の周辺部にある末梢的な欲求に固執することである。71
本質的な自己を実現していくには多くの努力と根気が必要とされる。他人の眼に対して業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して自己を正しく実現しているかどうか。72
人間の性はそもそも「根本的な孤独」であれい、愛はこの「二つの孤独を一つに融合しようとする試み」。愛はまず互いの心を理解することからはじまる。86
精神的苦悩は他人に打ち明けることによって軽くなる。なぜか?何よりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にして表出するということ。いいかげんな同情の言葉よりただ黙って悩みを聞いてくれる人が必要なのである。131
この本はすでに半世紀近く前にだされた本だけどなぜいまも、古典としてのこってるのだろうか?執筆当時のあとがきからうかがえる。結局、インターネットで人々はコネクトされていってるけど生きがいの問題はあいかわらず決着されてない。
「戦争直後は食べるだめだけに狂奔していなければいけない時代であったから、だれも生きがいについて自分に問いかけるうゆとりもなかったのであろう。非常時には神経症の数が減るものである。日本ではいわゆる高度経済成長のにより、ものを考えるゆとりのある人がふえて、jはじめて倦怠や虚無感に悩まされる人が多くなってきた。現代日本の社会、さらには現代文明と人間の生きがいの問題は今後ますますおおきくのしかかってくるであろう。現代文明の発達はオートメーションの普及、自然からの離反を促進によって人間は自然の中で自然に生きる喜び、自ら労して創造するよろこび、自己実現の可能性など、人間の生きがいの源泉をうばいさる方向に向いている。どうしたらこの巨大な流れの中で人間らしい生き方を保ち、発見していくことができるのだろうか」286
人は自分でありきらねばならない305
巻末の執筆当時の日記にある一文。結局のところ生きがいとはこのフレーズかもしれない。