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人生の中で、”生きていた”と言うより、
”死んでいなかっただけ”と言った方が正しいような時期が存在する私。
そんな私には長い間、自身の手持ちのボキャブラリーでは
納得のいく言語化ができない、”思い”や”考え”がありました。
死生学的思考についての苦悩のようなもの。
それを「なるほど、なるほど。」と。
「そういうことか。」と。
読んでみてすっきりしましたし、
非常に勉強にもなりました。
この本自体、相当前から気にはなっていましたが、
どうしてかこの本が私を「呼ばなかった」。
呼んでくれるまで待とう、と一定の距離を置いて、
静かに待ってみました。
そしてやっとその時が。
呼んでくれて、やっと読むことができて本当によかったです。
(↓↓ネタバレに含まれるかな??)
巻末の「神谷美恵子コレクション 付録(1)」14頁、
「『生きがいについて』を読む前に 坪内祐三」の部分には素直に従った方がよい気がしました。
(しかし私自身は本文をすべて読み終わった後に気づき、愕然。「ちょっとぉ、こういうのは巻頭につけておいて下さいよ~」と一人ツッコミ。そのため「神谷美恵子日記」は未読のまま。泣)
これは私なりの解釈にすぎないのですが、
きっと、自分自身の存在理由とかアイデンティティとかパーソナリティとかそういうものに対して、
例えるなら”数学の証明問題”に結構真剣に取り組むような経験、かつ、不恰好・不明瞭ながらもなんとなくその解のようなものが見えたかな~
くらいの感覚がある方が、本書を読んでいて、”難解だ”より”興味深い・勉強になるな”になるのではないかな、と思いました。
本書は神谷美恵子氏による、「生きがいについて」の
美しい証明のように感じました。
(最近見た「ビューティフル・マインド」の影響を受けまくり。笑。)
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著者は20代半ばより医学の道へ歩み出し、隔離病棟などで難病に冒された患者の治療に携わった精神科医です(翻訳者でもあります)。本作は医療現場から取材されていますが、病気特有の事がらを書くのではなく、そこから「生きがい」について考えるための材料を引き出しています。どこを読んでも感じるのは、できる限りやさしく、読み手に分かりやすく伝えたいという熱意です。「生きがい」という広い領域のテーマに対し、患者の言葉や他書物からの引用・紹介を広くおこなって、読み手が迷子にならないよう配慮しています。
(引用や紹介は、ダンテ、フランクル、プラトン、サルトル、ユング、クレッチマー、キルケゴール、エミリ・ブロンテ、スピノザ、詩では中原中也、ミュッセ、ブレイク、ゲーテなど多彩)
発表から40年以上経つ本ですが、その内容は現代においても色あせていないと思います。
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「生きがい」この言葉を、日々を送る中で殊更に意識することは、あまりないのかもしれない。
しかし、ひとたび生きることの苦悩に遭うと、生きている意味や価値を問うだろう。
神谷美恵子さんのこの本は、生きがいとは何か、から始まり、生きがいの喪失から新しい生きがいの発見について、わかり易く論じている。ハンセン病療養施設の方々の心の状況も伝わってくる。
読んでみたかった本。ハンセン病療養施設について、もっと知ってみたいと思った。
そして、わたし自身の生きがいはなんだろうと考える。「積極的な生きがいとしての宗教」の項は興味深かった。わたしにとって信仰は生きがいと呼べるようなものになっているだろうか。日常生活に押しつぶされ、副次的なものとなってはいないか。最も大切なものを隅に追いやってしまわないように、見えないものに目をとめよう。
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1960年代には、「生きがいについて」など抽象的な概念を真剣に考え文に書く人がいて、またそれを読む人がいたのだ。
現代では、考えられない気がする。
日本人も時代とともに精神構造が変わってしまったのかもしれない。
視覚中心の世界となり感覚的に判断し、抽象的なことを考えることができる者が少なくなってしまっているように思う。
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引用
生きがいを感じているひとは他人に対して妬みや恨みが感じにくい。なぜなら、自分より幸せな人々に対するひそかな憎しみの念が入り込む余地がないから。
自己と他を同時に伸ばすのは無理。真の愛は他の生命を伸ばそうとするものだから、なんらかの意味で自己を削らないと真の愛とは言えない。
恨みや憎しみをもつ人ほど、他人とのあたたかい心の交流を求める気持ちが烈しく蠢いている。
不幸な時はできるだけ静かにしているのがいい。そして不満の感情はすべて抑える方がいい。というのは、こうした出来事のなかにどれだけ善いものと悪いものが含まれているか、われわれには評価できないからである。
話は終始抽象的で観念的。
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医学生へのおススメ本としてあったので一読。たくさんの研究の集大成とでもいえる言葉、そして、実際に生きがいを失った人との交流、そこから生きがいを見いだして這い上がった人たちとの交流を通じて得られた言葉の数々。
将来私自身もうつや行き詰まった人たちと接して行く際にヒントになるような言葉がたくさんある。また読み返したい。
「自分は、今体がどんな状態にあっても、どんな状況にあっても、生きていることは世界にとって意味があることなのだ。」と思う意味はとてつもなく大きい。
特に文盲の死刑囚の言葉に感銘を受けた。徹底的な孤独からわき起こった自然をお友達として愛でる心。さびしさを癒してくれる草花。自然は人間を癒してくれる存在。
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あまりに素晴らしい文章だ。今まで日本人で読んだ中で一番素晴らしい文章かもしれない。
苦悩のプライヴァシを侵害する不愉快な調査に応じ、苦しい呼吸の中から色々語ってくださった方。
人間が生き生きと生きていくために生きがいほど必要なものはない。それゆえ人間から生きがいを奪うほど残酷なことはなく、人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない。
生きがい、生存理由。
ゆえにある人に真の喜びをもたらすものこそその人の生きがいとなりうる。
岡潔にとっては研究が最大の生きがい。
ウォーコップ、人間の活動の中で真の喜びをもたらすものは目的、効用、必要、理由など関係ないそれ自らのための活動。
子供には遊びこそ全人的活動、真の仕事、天職。
快楽のみでは生きがいにはならず、そこに人格のもっと重要なものが満たされる必要がある。
喜びの際立った特徴。ウィリアムジェイムズによれば不思議に利他的な気分を生みやすい点。生きがいを感じている人は他人に対して恨みや妬みを感じにくく、寛容でありやすい。繊細な神経の人は自分の幸せに罪悪感を感じやすい。
生存充実感ー毎日の生きている時間の内容がぎっしり詰まっている、時間の流れに対する適度の抵抗感もなくてはならない。するするすぎる時間は意識にほとんど跡を残さないからである。
目標が到達されるかどうかは真の問題ではない。一つの目標が到達されると無目的の空虚さを恐れるように次の目標を立てる。結局人は無限の彼方にある目標を追っている。
苦労してえたものほど大きな生きがい感をもたらす。
生きがい感の中に自我感情が含まれていることは明らか。自分が邪魔ものとして扱われているか、かけがえのない存在として扱われているか、その差を敏感に感じ取る。
人が仕事を選ぶときも生きがい感を大切にするなら世間体や収入より「なるべく自分でなければできない仕事」を。
人生で何度か立ち止まって生きがいを考える。
ー自分の存在はなんのため、または誰かのために必要であるか
ー自分固有の生きていく目標は何か。あるとすればそれに忠実に生きているか。
ー以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか
ー一般に人生は生きるのに値するものか。
あなたの存在が必要です、という感覚が生きる理由になる。
もっとも生きがいを感じるのは自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき。
使命感
エネルギーが余って闘志満々の人はその力量にふさわしい困難な対象に惹かれるだろう。
シュバイツァー
使命感に目覚めたのは21歳だったが自分の幸福な境遇に比べて周囲にあまりに多くの苦しんでいる人がいるため不可解に思った。
自分は30までは学問と芸術のために生きて良いとするが、それ以降は人類への直接奉仕に身を捧げよう。個人的な独立的な活動。コンゴ医療伝道への呼びかけ。
かつての自分との約束を果たすもの。その約束を果たさなければ、たとえ世にもてはやされても自己に合わせる顔がなくなり、自分の生存の意味を見失うだろう。
ミルトン:大学を卒業してから6年間も静かな田舎に立てこもって読書と思索に耽り小説をかいた。
生きがい喪失者の心
このような危機的状況におかれた人間は虚無の世界からの脅威におののく単なる一個の生物にすぎない。あらゆるエネルギーは自己を防衛することにすぎない。自由は失われ、個性は窒息し、もはや人格といえない存在になる。急激な生きがい喪失者はみな似たような姿をしている。このパニックがひどければ世界没落感、幻覚、妄想が生じる。
価値体系さえも崩壊する。ホワイトヘッドのいう象徴的関連付けの能力も失うだろう。symbolism its meaning and effect
知覚自体も変化し、ものの形も意味も曖昧になり全ては異様な、馴染めない相貌をしてくる。いわゆる離人体験や疎外感もここから理解できる。何が良くて何が悪いかわからなくなった、という。骨組みと支柱を失った心の世界はバラバラで支離滅裂。
魔法のような目には見えないが不透明性の壁がいけるものから私を隔てていた。私のまわりの男や女は単なるイメージにすぎなかった。
みんなの喜びや悲しみが自分には少しもピンとこなくなってしまった。もはや何一つ心に訴えるものがなくなってしまった。同じ病を抱えている人といれば孤独感が和らぐ。
患者は一種の特権意識を持っている。否定意識は全ての外なるものを否定しても自己だけを最後の拠り所にしていればまだ戦える。自己にこもって自閉という姿勢をとることもできる。
否定している外側を自分のうちに発見したとき、戦いは内的なものに変わる。
全て生きがいを失った人の意識において心と体がバラバラになる傾向がある。生ける屍。
特別外部の影響がなくても生まれつきに自嘲的、虚無的な人もいる。精神的苦痛は他人に打ち明けることでましになる。大事なのは苦しみの感情を概念化し、言葉の形にして表出するということが苦悩と自己の間に距離を作るからではないだろうか。いうにいわれぬ苦しみをいい表そうとするとき人は非常な努力によって無理にも苦しみを自分から引き離しこれを対象として眺めようとする。誰かが眺めてくれれば客体の度合いが大きくなる
悩みは実体がはっきりすればその圧倒的なところが減ってくるものらしい。ただ黙って悩みを聞いてくれる人が必要である。
黙って悩みを聞いてくれる人がいないとき危険。この精神内の圧力を減らさないと精神的破局ー自殺や精神病理的反応を来すおそれ。どうしても苦悩を打ち明ける人がいないとき、文章をかくと楽になる。これは文学の原動力。
もし新しい出発点を発見しようとするならば苦しみは徹底的に苦しむしかない。
深い悲しみを経験した人は他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つ。これは現世や自己に対する一種のニヒリズムを醸し出し、現世の事物や人間との結びつきを緩くするから、そこに愛の心の生み出す暖かさが不足すると冷たいシニズムや皮肉な態度や厭人的な心が生まれるのではないだろうか。しかしそこに暖かさがあればここから他人への思いやりが生まれる。
この悲しみを知っている人とそうでない人には大きな差がある。悲しみには和らげることができるものとそうでないものがある。後者は生活をも変化させ、悲しみ自身が生活になってしまうような悲しみ。
自己を含めて人間存在の儚さ、もろさをみにしみて知っているからこそその中でもなお伸びてやまない生命の発芽力をいとおしむ心。そのいとおしみの深さは経てきた悲しみの深さに比例している。
自殺一歩手前で踏みとどまらせるもの
ウィリアムジェイムズ
単純な好奇心
憎しみや攻撃心(これが一番強い)
名誉心
自殺、犯罪、デカダンに陥る人の共通点。
気が短く、世界と時間に対して見切りをつけている。
光を見た後には社会貢献や宗教か芸術文学に行くのがよくある道なのであるな。ロールモデルロールモデル。
なんども読み直したい一冊
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安易に感想なんて書けない、ものすごく深く広い世界。
何度でも読み返したい。
辛い経験をしてこれからどう生きていったらいいのか分からず途方に暮れている人に是非読んでもらいたい。
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つい最近、思いもよらないことや思いどおりに行かないことが度重なって精神的にとてもきつかったので、自分を励まし支えてくれる言葉を求めて何か本を読もうと部屋の本棚を眺めながていると、ふとこの本のタイトルが目に止まり何十年ぶりかに手に取って再読。
この本は、精神科医である著者が瀬戸内海の国立療養所長島愛生園でらい病患者に出会ったことをきっかけに、
人間がいきいきと生きていく上で最も大切な生きがいとは何か、それが失われたとき人はどのような世界に直面することになるのか、そしてその絶望的な状況から人はどのように再び立ち上がることができるのか等について俯瞰的網羅的に考察した学術書である。したがって、個人的な悩みについてこうすべきであるとか、こうすればこうなるといった人生相談的なノウハウ本とは一線を画する。しかし、著者は単なる研究者ではなく、らい病患者に対し「なぜ私ではなく、あなたが?」という問いを胸に彼らの生活に寄り添ってきた実践家でもあったので、ひとつひとつの言葉の背後に悩める人たちに対する共感と温かい眼差しを感じることができる。
この本を読み終えて、私自身何か具体的な答えを与えられたわけでもないのに、自分の置かれている状況を俯瞰的に眺めることができたことと、自分より遥かに絶望的な状況の中で希望や生きがいを持って生きている人たちがいることを再認識したことと、そして著者の温かい眼差しを感じることで、改めて自分の道をしっかり歩いていく勇気をもらえたことは確かです。
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フーコーが晩年にたどり着いた境地が、マルクス・アウレリウスの「自省録」。で、その岩波文庫版を訳しているのが神谷美恵子で、この人は、フーコーの「臨床医学の誕生」の訳者でもあって、なんだか面白いなー、などと思いながら、「生きがい論」「幸福論」として著名な「生きがいについて」(初版1966年)を読んでみた。
おー、なんだか久しぶりに実存主義!という感じだ。引用されるのが、ヤスパース、サルトル、ヴェイユといったところが多い。
が、古いという感じは全くない。
内容的には、哲学や心理学の諸外国の成果を踏まえつつ、自身のらい療養院での経験をふんだんに盛り込んだ、とても根源的な人間論になっている。
最近、ポジティブ心理学などで注目されるようになった「幸福」「充実感」「フロー」などとの議論とも、とてもうまくかみ合っているし、たんに、ポジティブエモーションというだけでない、人間の本質への洞察が素晴らしいものがあると思う。
それにしても、この人の活動量には、驚くな。最初は、文学をやっていて、西洋古典などを勉強し、その後、医学部にいって、精神科医になる。そして、大学で教鞭をとるかたわら、らい療養院に通っている。さらに、「自省録」を訳し、フーコーを訳し、ヴァージニア・ウルフを研究し、こうして本も書いている。(本を書く時の集中力、情熱がすごい)そして、家庭の主婦でもあった。そして、この本の付録についている執筆日記を読むと、さまざまな洋書(英語、フランス語、ドイツ語)を次々と読んでいて、さらには、ピアノでバッハを弾いたり、いろいろしている。
あー、そのうちの一つの仕事も自分にはできないだろうなー、と思うと、嫌になる。というか、スゴい人は本当にスゴいなと驚嘆するしかない。
しばらく、神谷美恵子の他の作品も読んでみる事にする。
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普段あまりちゃんと考えたことが無いが、確かに明確なモノがあると(言えると)人生にはりが出そうだ。
私の生きがいとは何かを考えてみた。
・子供たちの笑顔、成長
・妻の笑顔
・自分の成長
周りの人を笑顔にする事なのかな、それにはまず自分が笑顔でいなければならない、手をさしのべる余裕が無くてはならない。
【学】
お金のためではない、お金にならない仕事をする楽しみ
1,自分の生存は何のためか、または誰の為に必要であるか
2,自分固有の生きていく目標は何か。それに忠実に生きているか
3,以上あるいはその他から判断して自分は生きていく資格があるか
4,一般に人生と言うものは生きるに値するか
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本の中に自分を見つけました。
たくさんの私の断片に出会いました。
うつ状態で酷く酷く落ち込んでいる時。何も未来のことなんて考えられなくな絶望している状態。
そんな、誰にも説明のしようのなかった状態のわたしの心情が、事細かにコトバにされていました。
ああ、こんな風だった。
と、自分を客体化することができて、そして何より一人ではない気がして、とても救われました。
特に、人に話すことについての効用について、コトバにすることで自分の感情を客体化して切り離すことができる、というコトバに勇気をもらいました。わたしは人に相談を持ちかけられても、なかなかうまく答えることができないし、建設的なアイディアを出せないから。聞いてあげるだけで良いんだな。と自信を得た気分です。
この本は、また読み返したい。
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神谷美恵子氏(1914~1979年)は、精神科医にして哲学書・文学書の翻訳者、エッセイストである。
神谷氏は、内務省のエリート官僚だった父の転勤で小学校時代をジュネーヴで過ごし、帰国後津田英学塾に進学したが、オルガン伴奏者として初めてハンセン病療養所を訪問したことをきっかけに、また、自身が結核を患ったこともあり、医学の道を望むようになったものの、当初は父の反対にあった。その後、父の再度の転勤で渡米し、コロンビア大学大学院で古典ギリシア文学を学ぶが、在米中に遂に父から医学部進学の許しを得、コロンビア大学医学進学課程に進み、帰国後は東京女子医学専門学校へ編入した。卒業後は、神戸女学院大学や津田塾大学の教授として、精神医学やフランス文学の講義を行い、その間には、マルクス・アウレリウスの『自省録』をはじめとする哲学書・文学書の翻訳や、本書を含む作品の執筆など、幅広い実績を残している。
本書は、著者が1957年に開始した瀬戸内海の長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査に基づいて、「生きがいとは何か」を問うた作品で、1966年の発刊から半世紀を経て読み継がれるロングセラーである。
著者は本書で、1.生きがいということば、2.生きがいを感じる心、3.生きがいを求める心、4.生きがいの対象、5.生きがいをうばい去るもの、6.生きがい喪失者の心の世界、7.新しい生きがいを求めて、8.新しい生きがいの発見、9.精神的な生きがい、10.心の世界の変革、11.現世へのもどりかた、という項目を立てて、ハンセン病に罹患した人々の精神の変化をもとに、「生きがい」というものを俯瞰し体系化しようと試みているが、加えて、広範な読書歴を背景に古今東西の多数の哲学者・文学者の思想が引用されており、「いかに生きるか」を考える上で、普遍性が高く、密度の濃いものとなっている。
印象に残るフレーズは限りなくあるが、ひとつ挙げるなら以下の部分であろうか。
「死刑囚にも、レプラ(らい病)のひとにも、世のなかからはじき出されたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。-こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲であっても、肢体不自由であっても、少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか」
「生きがい」の見出しにくい今こそ、改めて読み返される価値のある一冊ではないだろうか。
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過去の日本においては、社会的に抹殺されていたに等しかったハンセン病患者に寄り添ってきた著者の、彼らに対するまっすぐな視線と考察から得られた、絶望の淵に立たされても生きるということ、そこに芽生える生きがいについて綴られた本。
自分探しや自己啓発の本として手に取るような、そんな生易しい本ではないので注意。
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18/03/25。若松英輔さんが、一冊だけ選ぶとしたら、『苦海浄土』も捨てがたいがこれにすると言ってました。