紙の本
SFとホラ話が溶け合って、ぐるぐる渦を巻いているような
2009/02/21 00:04
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:東の風 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宇宙のはじまりの頃にあったこと、人間などまだいない太古の時代に起きたことを、<わし>こと<Qfwfq老人>が語っていく連作短編集。
混沌の中に生まれたはじめのいーっぽみたいな、SFとホラ話が溶け合ってぐるぐる渦を巻いているような、何ともいえない面白味がありましたねぇ。あっけにとられているうちに、ずんずん、ずんずん、話が進んでいって、はあ? はああ??? とどのつまり、ははは、おかしいね、あははーと笑うしかないみたいな・・・。まったくもって、これは愉快でユニークな短編集なのでした。
「月の距離」「昼の誕生」「宇宙にしるしを」「ただ一点に」「無色の時代」「終わりのないゲーム」「水に生きる叔父」「いくら賭ける?」「恐龍族」「空間の形」「光と年月」「渦を巻く」のひぃふぅみぃよぉ、全部で12の短篇からなっています。
なかでも、次の三つの短篇が面白かった!
★地球からすぐ手の届く距離に月があった頃、わしらは舟に脚立を立ててな、それをのぼるだけで月に行けたんじゃよ・・・・・・「月の距離」
★わしがまだ子供だった頃、Pfwfpとゲームで遊んだんじゃよ。で、そのゲームというのが変わっていてなあ。アトムの原子を、ビー玉みたいにはじいたり転がしたりぶつけたりしてな・・・・・・「終わりのないゲーム」
★ある夜、わしが天体望遠鏡を覗いておった時のことよ。一億光年の彼方にある星雲から、妙なプラカードが矢印みたいに突き出ておってな。そこに、「見タゾ!」と書いてあるんじゃよ・・・・・・「光と年月」
本書の帯に、作家の川上弘美の推薦文が載ってまして、<そりゃあもう、類のない本なんです>と書いてあるんですけどね。ほんと、こいつは風変わりで、無類のおかしみがある一冊。
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海に浮かぶ船のへりから月に乗り移ったり、一億光年離れた星雲から、双眼鏡とプラカードでメッセージのやりとりをしたり……何とも不思議なイマジネーションの世界。
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カルヴィーノ、待望の復刊。稲垣足穂の『一千一秒物語』をもっと理屈っぽく書き込んで仕上げたという印象。
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いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。
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はイタリアの作家イタロ・カルヴィーノの傑作SF小説。中世三部作(『からっぽの騎士』『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』)がすごく面白かったので楽しみにしてました。
ようやく読み終わりました。
一編ごとに想像力を喚起させられる。宇宙の彼方の銀河を駆け巡り、太古の深海に棲み、原子の球をぶつけあう。ビッグバンの前から生きるqfwfq爺さんの大法螺譚。
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安心して他人に勧められる。良い意味で。私はかなり好きだ。ほとんどの話に(恋)愛が絡むのは、イタリア人らしいというべきか?
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〈宇宙誕生以前から世界の成り立ちを見続けた老人が語る物語。〉
イタノ・カルヴィーノ
初カルヴィーノ。壮大な大法螺ふき。
宇宙の誕生はスパゲッティを作るためだとか。
魚と陸上に上がった生物のジェネレーションギャップとか。
宮沢賢治以上の空想世界に、嘘か真か定かではない科学知識をこれでもかと注ぎ込んでいます。
世界ってこうやってできたのか!w
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大まじめに大ホラ吹きな宇宙創世を書いている。
一話一話ふざけている故に、なんだかチャーミング。ウキウキにしてくれた。
絵本にしたら子供は大喜びするでしょうに。
その分翻訳がありきたりなのがもったいない。
円城塔さんが翻訳して出し直したらどうだろう。
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*どれだけ硬質な科学的な短い記事を読んでも、「ああそうそう、わしはそのころ……」とQfwfq老人が語る、その法螺吹きが吹く法螺に身を任せる快楽。
■月の距離★ (とはすなわち、彼女を恋うるわしと、わしの従弟が恋着する月そのものになりたい彼女、との距離。)……人以外に恋着する人、を恋した人、に恋した人の悲劇。恋を重視する本書の開幕にふさわしい。
■昼の誕生 (に立ち会った家族のどたばた。真っ暗に絶望するが、それは夜というものなのだ。)
■宇宙にしるしを (つけたはいいけれど。しるしの連鎖。)
■ただ一点に★ (集まったわしらをばらばらにしたのは、「スパゲッティをつくるスペースがあれば」という彼女のひとことだった。)……恋心が宇宙を作ったというロマンチックな感覚。
■無色の時代★ (、すなわち地底、に居続けるアイルと、色の時代、すなわち地表、に取り残されたわしと)……恋の相手を探して地上をも地底をも問わず縦横無尽に探し回るという、凄まじくダイナミックな移動。赤く爛れた溶岩や無色に変化を好まない岩やがアクロバティックに混在する、アヴァンギャルドな読後感。
■終わりのないゲーム (で、わしと相手は無限に交互に連続することになる)
■水に生きる叔父 (すなわち魚類、に引け目を感じる両生類の私、の爬虫類の彼女は、しかし叔父に興味を抱く)
■いくら賭ける? (と、わしは学部長と賭けのやりとり。あらかじめの賭けが回収されていく。わし優勢から学部長優勢へ。)
■恐龍族★ (の最後のひとりになったわしは、新生物の群れと交流し、消え去ることで永続することを知る。)……最後の一匹が噛み締める旧種族への愛憎は、象徴的。新種族の中に衒いなく溶け込む自分の成分を見て、自分は死んでも生き延びるという誇りを半ばにする諦念を、語り手は抱くが、これって子を見るときの親の感慨だ。
■空間の形 (永遠に出会わない3本の平行線で、わしは恋し、嫉妬する。)……たった3本の平行線が、ここまでふくらみのある小説になるんだね。
■光と年月★ (光速すなわち億年を往復する時間を隔てて、見る/見られる関係が成り立つ。別々の星雲の立て看板が列を成す。)……究極に近い思考実験。見られている気まずさ、から、見られているから安心。
■渦を巻く★ (ことで、わしは恋心=貝殻を作った。わしに視覚は備わらなかったが、便乗してきた者らの視覚を借りて、わしは彼女を見るのだ。)……谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」を連想できるほど、生命の根源に思いを馳せさせてくれる。人間を含む有機生物を「無色、不定形の存在、にわか仕立ての臓物袋といった手合い」と呼ぶちょっとした記述に共感したりもした。
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原題『Le cosmicomiche』つまり宇宙コミック。コンピュータおばあちゃんを遥かに超越する超銀河おじいちゃんことQfwfq翁にかかればどんな科学書の一文も「そうそう、ワシが若かったころは~」な与太話に早変わり。短編の中で時にはメタな語りが顔を出しつつも、多くは恋愛語りや寓話としての親密さに満ちているのだが、それが宇宙創生以前やら数億年のスケールやらで展開するのだからたまらない。理解不能なものを人間の一生に引き付けて語り下ろすとは神話の模倣であり、これはカルヴィーノなりの古典に対する挑戦なのだろう。
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カルヴィーノの到達点の一つとの誉れ高い一冊だが、実は初読。ビッグバンの瞬間から、広がっていく宇宙、太陽の誕生、地球上に大気が生まれ色彩が広がるとき、月が地球から離れていくとき、水生生物が陸に上がるとき、恐竜が滅びた後などを全て実体験した Qfwfq 老人が語る連作短篇。果てしない想像力で描かれる物語世界が、Qfwfq 老人の軽快な語り口とあいまって、どれも素晴しい。ところどころに挿し挟まれる物悲しい離別の物語もペーソスが効いている。
お気に入りのシーンは何といっても「ただ一点に」に描かれるビッグバンの瞬間。Ph(i)Nk 夫人が「ねえ、みなさん、おいしいスパゲティをみなさんにご馳走してあげたいわ!」という一言がきっかけになって、この宇宙は生まれたのであった!
久しぶりにカルヴィーノ熱が再発しているので、何冊か読み返してみるつもり。
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妄想の書。中には全く意味不明なものや面白みがないものもある。感性が合えば、面白いと感じるのかな。
個人的には無色の海がよかった。
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科学の洗礼を経た現代の神話。宇宙創生叙事詩とも言える。トランス状態じゃなきゃたどり着けないような夢見心地の筆遣いについていくのは苦労したが、なんてことない、酔えばすんなり読むことが出来た。お気に入りは「月の距離」と「無色の時代」。
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2008年12月7日~8日。
宇宙規模の法螺話。
奇想天外なのに、妙に納得してしまう。
科学的知識が無くても楽しめるのではないだろうか。
ただ、語尾を不愉快に感じることも多かった。
これは翻訳の責任であり、雰囲気作りのためなのだろうが「~なのであった」という言い方はあまり好きではない。
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石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸ばせば月に手が届くのだ。月の引力で潮が満ちた満月の夜、人は船を出す。脚榻(きゃたつ)に乗り、思いっきり手を伸ばして月にしがみつくと、月の引力圏に入って月の上に降り立つことができる。月が地球からこんなにも遠く離れる遥か以前の物語である。
巻頭の「月の距離」には、その昔、月に一度満月の夜に月に渡ってミルクを採取する人々の物語が語られる。月と地球が近かったころ、その引力に引かれて地球から月に引きつけられた物質が月上で醗酵し、チーズのようなものになる。それを掬い取るために人は月に降り立った。そんな話を語るのはQfwfqという名の語り手である。見てきたように嘘をつくという言葉があるが、Qfwfqは本当にその場にいたという。
それだけではない。船長夫人に愛される耳の聞こえない従弟を嫉妬した。月に魅せられた男と、その男を慕う女。そしてその女を恋い慕うもう一人の男が織りなす、一人の女を巡る二人の男の三角関係を描いたありふれたメロドラマ、のはずなのだが、何しろ舞台が月の上だ。一度月に行ってしまって、タイミングを逃すと次の満月まで地上に帰れない。しかも、その間にも月と地上は離れつつあった。
ありえない世界をさもありそうに子細にリアルに描くのはイタロ・カルヴィーノの最も得意とするところ。『見えない都市』で見せたハイパー・リアルな情景描写が思い起こされる。これで一気に引き込まれ、期待に胸をわくわくさせながら次の作品に移る。というのもこれは連作短篇小説集なのだ。舞台は、ミクロコスモスからマクロコスモスまで、望遠鏡や顕微鏡のつまみを回すように、一作ごと自在に変化する。
各章の巻頭にはエピグラフが付される。科学書から引用した科学的な事実の断片である。それを受けて語り出すのがQfwfqという名の爺さん。太陽系がその姿を現すずっと以前から、宇宙のどこかに何らかの形で存在していた不可知な実体。ある時は恐竜、またある時は両棲類。それくらいなら感情移入も可能だが、感情など持たない「もの」に寄り添って、この世界が生成変化する場面を目撃し証言する。要は『ほら吹き男爵の冒険』の宇宙版。
普通ならありえない設定で、まことしやかに飄々と物語世界を闊歩するのがカルヴィーノの作品世界の住人だ。『まっぷたつの子爵』しかり、『不在の騎士』しかり。今度はスケールが違う。宇宙の創世期から理論物理学が想定するミクロコスモスの世界まで縦横無尽に語り尽す。マーカス・デュ・ソートイ著『知の果てへの旅』の愛読者なら喜びそうな、科学的知識の啓蒙書の雰囲気も併せ持つ、物語調で書かれた宇宙の創世記である。
とはいえ、科学に疎い読者には、そうそうは易々と中に入り込めないものもあり、紹介するのは、こちらの好みに合ったものに限らせてもらう。読者によって好みの異なることはあらかじめ言っておきたい。全十二篇中、ここで取り上げるのは巻頭の「月の距離」を含む「水に生きる叔父」、「恐竜族」、「空間の形」の四篇。共通するのは、濃密な情景描写、物語性、男女の三角関係、失われたものへの哀惜感といったところだろうか。
進化の過程で水辺から離れたところで暮らすQfwfqには変わり者の大叔父がいて、いまだに水中から出ることを拒み続けている。一年に一度は叔父を訪ねるのがこの家族のならいで、Qfwfqはご機嫌伺いに出かけるが、大叔父の態度はいつもと変わらず素っ気ない。Qfwfqはこの変わり者の大叔父に許嫁を紹介することをためらうが、案に相違して二人は意気投合。最後には許嫁はQfwfqのもとを離れ、水中で大叔父と暮らすことを選ぶ。時代の推移に取り残されながら、それを肯んじ得ない者を描く「水に生きる叔父」は、次の「恐竜族」とも主題を共有する。
「恐竜族」は、すでに恐竜の時代を過ぎ、新世代の生物は恐竜という存在を忘れ果てている。Qfwfqはその忘れられた恐竜の最後の生き残り。ひょんなことから新世代の生物と暮らし始めるが、いつ自分が恐竜であることを知られるか不安で仕方がない。そんな時、一人の女を好きになり、付き合い始めるが、新しい女との出会いが話者の心をゆすぶる。時代に適応できない人物の心の揺れを恐竜に託して語る物語である。
「空間の形」は話者がQfwfqであると明記されない。実際、これは誰なんだろう。なぞなぞめいた話で、ヒントばかりがたくさん書かれるが、解答は明示されない。他の物語群とは一線を画し、宇宙とも時間とも距離を置いている。どうやら、文字を紙の上に記す過程を主題にしていることは分かるのだが、主人公である私と、その恋するウルスラH’xと、ライヴァルであるフェニモア中尉が何を意味しているのかがまったく分からない。
私見では万年筆のような筆記具が関連しているように思えるのだが、今のところ絶対ではない。そもそも寓話を意図していないという意味で、何が何を表すというような読解は不要なのだ。ではあるが、微妙に官能的な描写を読む読者には、これが何を描いているのか知りたくなるのは作者はすでに承知。であれば、それを読み解こうと再読はおろか、何度でも読み返し、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。読書の喜びこれにつきるものなし。
宇宙を舞台に、現実にはあり得ない世界を描いているという点ではSFのジャンルに入るのだろうが、どことなく収まりが悪い。騎士道小説の枠を借りながら、そのジャンルそのものを批判しているセルバンテスの『ドン・キホーテ』さながら、作家と自らが描いている世界との距離感が遠いのだ。先端的な科学知識も無限大に引き伸ばされた時間軸の上では、先史時代のそれと何ら変わりがない。そういう冷めた知性がどこかほの見える。それでいて、対象への愛も強く感じられるのは、喪われたものへ向けられた哀惜ゆえだろうか。