紙の本
おい、聞いたか?愛だぜ、愛!
2004/11/16 23:17
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投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
これはエキサイティングな読み物だ。特に英語が好きな人、英語教育に興味のある人にとってはかなり面白い。読んでいると、「ああ、こんな授業を受けたかった」という生徒の気持ちになるよりも、昔英語塾で教えていたときに僕にも少なからずあった情熱が沸々と甦って来る感のほうが強かった。
ひと言で言うと東大英語カリキュラム改革運動記。『これが東大の授業ですか。』というタイトルも多義的で良い。「へえ、これが東大の授業ですか、はあ、さすがですね」から「おいおい、こんなもんが東大の授業かい!?」までかなり幅広い含みがある。「これ」を改革前と読むか改革後と読むか、あるいは著者が改革運動を去った後と読むかで意味合いは変わってくる。
英語が好きな人、興味がある人なら面白いと書いたが、この本のもうひとつの面白さは人間ドキュメンタリーとしての面白さである。著者(や柴田元幸ら同僚)は文学や英語や教育に対する先入観を排除しながら、大学の閉塞性や官僚制と戦いながら、なぜここまで熱心に取り組めたのか?
著者は言う「8人のチームから生み出された教師間の新しい関係性。(中略)その新しい関係性に名前を与えよと言われたら、私は臆せず『愛』と答える。(中略)実用的なレベルで、企画を崩壊から救うための、一番手軽で有効な手だてが『学生を愛する心』だったということだ。」(135ページ)
おい、聞いたか? 愛だぜ、愛!
英語や教育に対する洞察はかなり深い。僕自身そういった問題について常々考えてきたつもりだが、「そうそう、その通り」と頷きながら読む中で「あっ」と声を上げたくなるような「目から鱗」の箇所もあった。
掲載されている実際の教材や出題の部分も是非とも飛ばさずに読んでほしい。もちろん辞書を引かずに。
ところで僕はこの著者の『J-POP進化論』も読んでいた。最終章に音楽に対する記述が出てきて初めて気づいた。
by yama-a 賢い言葉のWeb
紙の本
無駄な抵抗
2004/11/20 10:27
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投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
そもそも英語の授業に東大も一橋もない。生徒のレベルに応じた
授業があるだけでいい。この佐藤をはじめとする東大の英語教師
を呪縛する呪い、それは教養」だ。だが英語の授業に教養なんて
いらない。なぜなら英語とは所詮道具であって、この道具を使い
こなせるようになるための訓練=技術指導が英語の教育であって
教養とは本来切り離されなくてはならんものだからだ。しかし
佐藤らはあくまで「教養」にこだわろうとする。なぜなら彼らは
「英語の先生」ではなく、「英文学の教授」だからだ。
ここに日本の大学の英語教育の悲劇がある。
本来、英文学者は英文学の講座を持つべきなのだが、いまどき
英文学なんてやろうとする奇特な学生はほとんどいない。そもそも
文学自体が既に死んだ学問なんだから、ある意味当たり前なのだが
これを「はい、そうですか」と認めてしまうと佐藤を含む大量の
英文学者は仕事がなくなってしまう。そこで仕方なく英語「でも」
教えるかということになる。しかしどうせ英文学者が英語を
教えるなら「教養の薫り高い英文学主体の講義をしなくちゃ」と
いう「野望」に取り付かれてしまう。しかしいまどきディケンズ
やローレンスでもあるまい。そこで佐藤は膨大な時間とコストを
かけ、極めてマニアックな「ポップな現代英文学」の教材を
つくって閉塞状況を打開しようと試みた。でも、残念ながら
かけた時間とコストに見合うような成果も反応もなかったようだ。
当たり前だ。
そもそも「教養高い英語の授業をやりたい」という目標自体が
はじめから間違っているのだから。生徒が求めているのは教養
ではなく道具としての英語なのだ。だからマニア佐藤の授業に
見切りをつけ、外資系を目指す東大生は日米会話学院やアテネ
フランセの門を叩いていったのだった。
大学の英語の授業から英文学者を追放し、道具としての英語の
授業に徹すること。英語の授業と英文学の授業を切り離し、
英文学はあくまで英文学をやりたい人だけに特化すること。
これが本書を読んだ私の大学の英語教育に関する結論だ。
紙の本
本書はどうして書かれたか?(出版社コメント)
2004/08/30 13:30
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投稿者:研究社 - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本の大学では、「教養として英語を教えるべきである」という意見と、「実用英語を教えるべきである」という意見が、激しくぶつかり合っていました。
その問題は現在、後者の一方的勝利によって幕を引かれつつあります。とともに、文学系の英語教師は窮屈な思いを強いられています。学科の取りつぶしという事態すら進行中の大学もあります。
そんななか、佐藤君は立ち上がりました。文学系の人間が、「大学の教養」をきちんと再定義し、大学の英語の授業に、がっしりとしたコンテンツと、愛と、自信をもって授業すれば、教養と実用などという偽りの対立は消えてしまうのだということを、本書は、過去の経験の詳細なレポートによって証明していきます。これは議論する本ではありません。教材の選び方からリスニングのポイントまで、情報化時代の大学の英語授業の組み立てを一から説いた「便利ブック」なのです。
理系と文系、ポップとアカデミズム、いろんな世界を横断的に思考している佐藤君だから示せる「21世紀の日本の英語教育の方向性」。それに向けて「正されるべき大学教師の姿勢」。本書の後半では、それが熱く論じられています。
いえ、挑発の対象は大学人にとどまりません。すべての英語の先生と、英語の授業を受けさせられた学生・市民に熱く訴えかける内容になっています。正しい行動によって世の中が動かせると信じるすべての人々に、「佐藤君」の語りは、強い共感を呼び起こすことでしょう。
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大学の授業の舞台裏をのぞくような感じで、実に面白かった。しかも、東大の授業ということでたいへん興味をそそられた。大学という組織に巣くう病理のようなものも伝わってきた。やや奇をてらった題名だが、読み物としても楽しめたし、最後の文学論をはじめ、大学教育について深く考えさせられる内容であった。
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佐藤先生は日米のポップカルチャー、特に、音楽文化を中心としたユニークな研究で知られる方です。一方で、1993年から始まった東大の英語の授業改革を率いたことでも有名で、本書は、この改革の12年間の歴史を、当事者の視点で振り返ったものです。
東大の英語授業の改革。それは、1年生と2年生の授業を対象に、統一教材による一斉方式の授業を導入するというものでした。教材づくりの中心を担ったのは、翻訳家として有名な柴田元幸先生と佐藤先生。この二人が中心になって、学生の知的好奇心を掻き立てる、平易だけど濃い内容の読み物を選び、読み物に関連した映像を使ったリスニング用ビデオを自主制作した上で、授業後のケアも含め、1学年3,600人の学生を相手に授業を回す仕組みをつくりあげていったのです。
この改革は、日本の英語教育に対する一つの挑戦でした。同時に、大学における教育制度そのものに対する挑戦でもありました。当然、学内からの抵抗・反発はあったし、大学という官僚組織の仕組みに無知な学者先生による無茶と無理に満ちた改革は、大混乱を引き起こします。しかし、柴田先生と佐藤先生が中心になったチームは、「愛と馬力とひたむきさ」でこの混乱を引き受け、それまでの大学では起こり得なかったであろう奇蹟的な恊働成果を生み出すのです。
ただし、全ての革命がそうであるように、栄光の日々は長くは続きません。中心メンバーが教材づくりにのめり込むほどに周囲とは距離ができていき、属人的で超人的な努力に頼った仕組みは、限界を露呈します。年月を経るごとに当初の思惑とはずれていき、形は残ったけれど、熱気は薄れていった。それが英語の授業改革の辿った道でした。最初に柴田先生が抜け、佐藤先生も抜けたところで、授業の内容も運営スタイルも決定的に変質したようです。
その過程を綴った本書は、いわば栄光と挫折に満ちた革命の記録です。少数精鋭のチームで教材を作りあげるモノづくりの喜びとグルーブ感に満ちた序盤から、運動の限界が露呈し、希望が失望へと転落していく中盤へ、そして、再び教育へと向かう自分を取り戻し、今後の教育の可能性を論じる終盤へと、佐藤先生の内面の変化に合わせて、本書のトーンも目まぐるしく変わっていきます。
この「革命の記録」は多くのことを教えてくれます。何かを変えるには「混乱をかぶって必死になる」誰かが必要なこと。モノづくりの作業にはバラバラだった個人を結びつける効果があること。教育を成立させるには学生と教師、学生同士、教師同士の関係構築=「愛の文法」のデザインが必要なこと。何を教えるかと共に、教師の生き様そのものがが問われるのが教育という営みであること。
これらは、教育機関のみならず、企業経営の現場においても、家庭の毎日においても通用することばかりではないでしょうか。誰もが逃れることのできない教育という大問題に対して大きな気付きを与えてくれる一冊です。是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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むずかしい教材なら簡単���できる。やさしくて意味のないものも簡単にできる。しかし、平易で内容の濃い教材は、よほど気合を入れないとつくれない。
「議論する」から「ものを作る」への移行が、必然的に、「委員会のようなもの」を「バンドのようなもの」へ変えつつあった。ちょっと不埒な喩えを使うと、レノン=マッカートニーがバンバン曲を書き、ジョージとリンゴは、1曲2曲は提供しても、基本的にはバックを支えるという全体性が――バンドにつきものの仲間割れなども含みつつ――起動しつつあった。
今にして思えば、大学という職場に珍しいことが起こったのである。リーダーが出現し、明確な理念が立ち上がり、その価値を押し立てることが仕事の目的になっていった。
一人では山をのぼり切れない登山者は、手を引いたり背中を押したりすることが必要なのであって、「山というものは、かくかくしかじか」と講義をたれても仕方がないのだ。
結果を出そうとして動いてみるとよくわかる。東大駒場は――いやこの際「日本の大学は」と言ってしまおう――こと教育に関して、その質や効果を高めるための十分に組織的かつ結果志向的な活動を、何十年もの間、ほぼ完全に放棄していた。入試で選抜した学生のそれぞれにきちんと単位認定をする――まあ、それだけでも大仕事ではあるけれども――そういう事務的なことさえ滞りなく行なわれていれば、力が伸びたのなんだのと、それ以上面倒な話にはしないのが良識というもんだよ…みたいな智慧というか愚鈍というか、ともかく不活性のなかで安定するような制度と意識がはびこっていた。
①分担主義:物事は順番に、平等に
②極小主義:負担はふやさず。
③聖域主義:ひとさまの授業に口出しするなんて…
④形式主義:格好がつけば、やったのと同じである。
「わたしは、ここまではやりたい」と誰かが決意しても、「あなたがなさるのはかまいませんが、次の方の番のときに、サービスが低下したと学生に見られるのはよろしくないのではないでしょうか」。こうしてローテーションは、Low-tationとなる。
教師たちの高い能力が、日常の授業へ注がれるシステムをつくるには、大学内にどんな条件を整備していけばいいのか。そこを問いたい。わたしたち自身の心のなかにどんな思考回路を活性化していったら、これまでとは別の展開が生まれうるのか。そこからきちんと考えていきたい。
これは計り知れないほどの損益がからむ問題である。東大だけではない。全国から何万という優秀な青年男女が「一流」と呼ばれる大学に目を輝かせて入ってくるのに、その彼らにターゲットを合わせた学力の鍛錬が、現在の日本ではまったく組織されていないも同然なのだ。
後知恵で言うわけだが、「混乱をかぶって必死になる」ことが結果につながる。教育という営みには、どうもそういう性質がある。
それまで”紳士的”な相互不干渉のしきたりのなかで「隣は何をする人ぞ」状態だった教師各自の方法・手法が、理想のクラスづくりという大きな議論の枠のなかでぶつかり合い、実際の作業にとりかかるなかで鍛えられていった。
8人のチームから生み出された教師間の新しい関係性。それは、想像もしていなかった忙し���をみんなで通過していくなかで軋轢を生みながらも強められ、さらに、精確さを美学とする嘱託事務員を組み込むことで、持続する生命力を獲得した。その新しい関係性に名前を与えよと言われたら、わたしは臆せず「愛」と答える。
なにも精神論をぶとうってわけじゃない。実用的なレベルで、企画を崩壊から救うための、一番手軽で有効な手だてが「学生を愛する心」だったということだ。あまりに大きなタスクの圧力で、利己心が音を上げた、と言ってもよい。
歴史とは変化の累積ですが、変化は痛みを伴います。痛みを通して人は学び、人が学ばないところに歴史の歩みはありません。しかし本音をいえば、人間は変わりたくない。それまでの社会で培ってきた自己尊厳とそれを護り合う関係の形式が崩されることに、人は最大限の抵抗をするものです。
わたしたちが論じているのは学校教育なのです。恐れやあこがれ、生理的嫌悪、そういったものをみんなが抱えたなかで日々営まれている、教師と学生、学生同士、教師同士が複雑に絡み合うコミュニケーションなのです。
問題は、どのようにつながるのか。教室での直接のコミュニケ―ションと、ネット空間での補講、いろんなサイトでいつでも出会えるナマの英語、それらをどうリンクしていくのか。それは「愛の文法」をデザインすることにほかなりません。
わたしたちは、彼らの関心を掘り起こすどのような授業を提供しているか。この問題は、人文学者として、いかに現代を生きているのかという問題と別ではない。生きざまの問題なのだから、みんなで共通の答えを出すことは結局のところできない。
学力の崩壊を嘆く前に、たまには相手の土俵で知的交流をやる必要があるんです。今の学生は、好戦的な観念をぶつけ合う文芸の知は苦手でも、自分自身の快感からスタートする<音楽の知>はぐっと充実してきているんです。
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●[2]編集後記
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昨年から大学や大学院で教える機会が増えました。特別講義のような形なので、きちんとしたコミットができているわけではないですが、それでも若い学生達と向き合う機会はとても刺激的です。
昔から言われていたことですが、日本の大学の教室というのは、バンバン質問や発言が飛び交うような双方向的なものではなくて、どうしても教師からの一方的な授業の形式になってしまうところが多いようです。そんなにいくつも経験しているわけではないですが、今でもその雰囲気は変わらないな、というのが大学の授業に関わってみて思うことです。
慣れた先生達からは「質問が出るだけでも奇蹟ですよ」と言われるし、実際に、「何か質問ありますか?」と聞いても、手を挙げるのは留学生ばかり。そういう雰囲気を見ていると、こんなに覇気がなくて日本の若者は大丈夫だろうか?と正直思ってしまいます。
でも、「今の学生はこんなもの」と思ってしまっていいのか、というと、やっぱりそうではないと思うのです。学生達だってできれば授業に参加したいはず。でも、参加できない、或いは、したくな��なるような雰囲気を、多分、教師の側が作ってしまっている。
何を教えるか、の前に、どう学生達と関係を結ぶか、が問われているということだと思います。そのためには学生側の土俵に立って知的交流をする覚悟とデザインが必要です。慣れない先生業をやってみて反省させられ、気付かされたのはそのことでした。