投稿元:
レビューを見る
いつも「絵が綺麗」とか「声優さんが」とかそういった好きの観点でしか見ていなかったので…こういう捉え方もできるんだー、と。何事も学問になり得るのですね…
投稿元:
レビューを見る
「風の谷のナウシカ」から「ハウルの動く城」までのテーマ等々の解説本である。過去に読んだ宮崎本と言えば、氏を褒め称えるものが多かったのだが、これはちょいと違う。映画に出てくるキャラクターが意味するものは。などなど、言われてみるとなるほど納得という事が多い。本人が何処まで意識しているかは分からないけど。
再読したい本の一冊。
「食べて、分解して、再生へ」とのメモあり。
投稿元:
レビューを見る
これは非常に興味深い。
宮崎駿論ということで、作品の分析本かと思って読み出し、正直、「深読みしすぎでは・・?」と思っていたが、『もののけ姫』〜『千と千尋』くらいから一気に面白さが加速する。
腐、食、火・・いくつかのイメージが何度か登場するが、これらは作品の分析をすることで宮崎駿さんが意図したこと(=“正解”)を書くというよりも、その根源的な部分に存在するイメージが語られている気がする。作品の秘密が暴かれるというよりも、宮崎駿さんの作品を事例に、色んなイメージが語られる感じ。
で、その内容自体が面白い。
だから、ここで語られることが宮崎駿さんの意図したことだったかは正直謎なんだが(ということは、宮崎駿論としてはイイのか?うーん・・)、その様々な考え方がジブリ作品を含め、色んな事例に当てはめることができる興味深いものであることは間違いないかと。
投稿元:
レビューを見る
・「多様な造形の生き物の生まれる場所・ジャングル」
『風の谷のナウシカ』論
・「腐る」というイメージについて
「腐る」というのは、私たちから見ると、生き物が死んでゆく状態になっているのですが、違う目で見たら、細菌が生きて活動する状態になっているということです。ある生き物にとっては「死」なのに、別の生き物にとってはそれが「生」の条件になっているという事態がそこでは起こっています。
~略~
ということは、「腐海」の問題というのは、ある意味では「菌の活性化」のテーマを扱うものでもあったということなのです。もし「腐らせる菌」がいなくなると、死んだ生き物は、腐らないでその辺にしたいとしていつまでもごろごろと転がっていることになります。「腐らせる」というのは、「菌類」が死体を食べて分解してくれていることでもあるのです。でもそういうことを「食べる」とは、普通はいいません。でも「菌」は「食べている」のです。
・ナウシカとは誰か―火と風を使う使者
もともと、『風の谷のナウシカ』という物語には、交わりにくい異質な三つの物語が同時に進行していました。「腐海の物語」と「人間の物語」と「王蟲の物語」の三つの物語です。ナウシカという主人公は、こうした交わらずに進行している三つの物語の「橋渡し」として、その間を「行き来」できる唯一の人物として登場してきています。ナウシカが「飛ぶ」のは確かにメーヴェによってですが、でも「風使い」として「飛ぶ人」になっているナウシカは、遠く隔たった、意思疎通のできない、断絶されたもののところへ行って、そちらの情報を持ち帰り、またこちらの情報を相手に伝えるという、情報の伝達者、メッセンジャー、エンジェルとして「飛んでいた」こともわかります。情報収集者、情報伝達者としてのナウシカの姿が現れるところです。
~略~
「火のような存在」「風のような存在」「使者のような存在」「科学者・探求者のような存在」……。
・「王蟲」とは何者か
「口」は相手を食べて消化するものですが、「触手」は相手に触れ、包み、逆に生き続けさせるものです。そういう意味では「口」と「触手」正反対の存在です。ですから、それは同時には存在しえないものなのです。「治癒する触手」を持つものは、それ故に同時に「口」を持つことができなかったのです。
~略~
でも、ここで宮崎さんが本当に描きたかったのは、「腐海」とそこに生きる生き物が、どうしようもなく「人間」とぶつかることがあるということと、そういう最悪の状況下にでも、その間に立って「交渉」しようとする者のイメージを描けるかどうかということでした。ナウシカは、そういう使命を背負って、「王蟲」の進撃の中に降り立ち、跳ね飛ばされてしまいます。「大人」の批評家たちは、あの姿を見て、「自己犠牲」を描いているとか、あまりにもマンガちっくな解決方法だとかいって、せせら笑っていたのですが、私はあの場面がとってつけたように描かれているとは思えないのです。というのも、あそこで描かれているのは、「王蟲」と「人間」が「触れる」という姿であって、そういう「触れる」ということがないと、実はぶつかるものは止まりようがなかったのです。それ以外に止めようとしたら、それはぶつかる相手を力で消滅させる以外にないのですから。アニメでは、それは「火」で相手を焼き尽くすという手段を取っていますが、当然そういうことになると思います。
~略~
この「触れる」というテーマを伝えるために、わざわざこの「王蟲」という、「口」の見えない、「触手」を持つ幻獣を創り出したのだということを、改めて見直すべきだと思います。
・巨神兵(火を噴く人造生物兵器)について
物語の中では、トルメキアの皇女で司令官のクシャナが、巨神兵に火を噴かせるのですが、ナウシカとクシャナの間にはそんなに差があるわけではないのです。二人は共に「火の使い手」だったからです。しかし、ナウシカとクシャナの間に一つだけ大きな違いがありました。それはナウシカが、「火の使い手」であると同時に、「相手に触れる」という「努力=技術」を身につけようとしてきたところです。別なふうにいえば、ナウシカは「火の使い手」であると同時に、「風の使い手」であろうとしてきたというところです。「技術者」であると同時に「使者」でもあるという生き方です。おそらくそこが、ナウシカとクシャナを分ける決定的な差になっていたと思います。
村人は、クシャナにこういっていました。「あんたは火を使う、そりゃあ、わしらもちょっぴりとは使うがのぉ、多すぎる火は何も産みやせん」
『天空の城ラピュタ』論
・「腐海」を失った「ラピュタ」―『風の谷のナウシカ』の視点から
世界の「下」を支える「菌類」と「触れる」ことをしないで、「上」に上がってしまった人々は、確かにはじめのうちは「無菌的な」「衛生的な」暮らしをしていたのかもしれませんが、「菌類」と手を切った世界は、逆に抗菌性がなくなって、とても弱体化していったのではないかと思います。
~略~
「今はラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかる……。
ゴンドアの谷の歌にあるもの。
土に根をおろし、風とともに生きよう。
種とともに冬を越え、鳥とともに春をうたおう……
どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては、生きられないのよ!」
『となりのトトロ』論
・ぬいぐるみとしてのトトロ
おそらく「トトロ」というものの起源は、そういう「ぬいぐるみ」なんだと思います。でも、トトロを「ぬいぐるみ」といったからといって、何かトトロの品位をおとしめようというのではありません。そうではなくて、ここにむしろ「ぬいぐるみ」とは何かという大事な問いかけがあるのを、私なら感じてしまいます。
子どもたちは、心細い時に「ぬいぐるみ」を持ち歩いているものです。すっかり汚れてしまった「ぬいぐるみ」でも、それがないと眠れない子どももいます。「ぬいぐるみ」というのは、何もしゃべったり動いたりしないものですが、隣に居てくれるだけで安心できる存在です。でもなぜそういう存在があり得るのかについて説明することは、実はとても難しいことなのです。
・『となりのトトロ』を見てしまった子どもたち
最初は、「お話」の中に少しだけ顔を出していただけの「トロル」が、イメージの中で「トトロ」として成長し、次第に「トトロ」と共に過ごす「物語」が連想されるようになり、さらに姉妹が共有できる物語となり、「映像として存在するトトロ」を見る夢想までに進んでゆきます。でも、そういうふうに育っていった「トトロ」は、もはや子どもの頭の中だけに存在する空想の生き物だといえなくなってしまっています。
事実、作品の中では、はじめに意識されるトトロは、半透明で、ほんとに小さなトトロにすぎないものでしたが、次第に大きなトトロを見るようになってゆきます。それも最初は、メイにしか見えなかったのに、メイの話を聞いているうちにサツキの頭の中にもそういう生き物の像=絵がだんだん姿を現してきています。
・「田舎」や「植物」も、「物語」がないと目に見えるものにはならない
つまり、目の前に見ているものは、たいてい「ただの風景」「ただの生活風景」にしかすぎないもので、そんなに興味をそそられるようなものにはなりません。でも、ちょっとした「物語」をはさんで見ると、それらは急に興味深いものに見えてくるということがあるのです。
『魔女の宅急便』論
・「十三歳」の旅立ち
「暦」と呼ばれるものが「十二」をワンサイクルにしており、「十三」というのは、そのワンサイクルから出てしまう出発の数であることを考察しています。
・魔法について
みえないものを具象化しようとするせいしんや言語、それに物語などは、私たちの世界では同時発生したものです。帰納と抽象という能力を与えられた人間の精神は、緑色の草をみてそれをほかのものと区別する(そして美しいと思う)ばかりでなく、それが草であると同様、緑色をしていることを理解するのです。この形容詞の発明ということは、まさにそれを生み出した能力にとって、どれほど力強く、かつ刺激的なものであったことでしょうか。妖精の国のまじないも呪文もこれに及ぶところではありません。しかし別に驚くことはないのです。そのような呪文というのは、形容詞というものを別の面から、神話的文法の一品詞としてみたにすぎないものだといえるからです。軽い、重い、灰色の、黄色い、静かな、速い、などと考える精神は、重いものを軽くして飛ばしめ、灰色の鉛を黄色の金に変え、静かな岩を急流に帰る魔法を思いつきます。前者ができるなら、後者もかのうであるはずです。そして精神は必然的にこのふたつを行ったのです。草から緑を、空から青を、力から赤をとりだすことができるなら、私たちはすでにある程度まで魔法使いの力をもっているのです。
『ファンタジーの世界』
~略~
そもそも暦というサイクルは、何のサイクルかというと、草木の芽が出て、実がなり、枯れるまでのサイクルの意識でした。その草木の一周期を、昔の人は一年(十二)と考えてきました。一年の「春―夏―秋―冬」という意識は、草木の「芽―実―枯―種」の意識と重なっています。ですから、「暦」を大事にするというのは、実は「草木」の意識を持って生きるという考え方と重なっていたわけです。
でも、ただ、「草木」と「暦」���重なっているというわけではありません。「草木」に「暦」を見るという考え方の中には、「終わりが、始まりにつながる」という大事な考え方(物語)が存在しているということです。これが「暦」のとても大事な考え方です。「終わりが始まり」という間が方、ここには「落下が上昇」に転じるという考えにつながるものが含まれています。
私は実はここに「魔法」という考え方の基礎があると感じています。トールキンがしたように、「魔法」とか「魔法使い」とか呼ばれてきた現象の「説明」の仕方はいろいろあるでしょうが、「魔法」や「魔法使い」の仕事の根幹に、きっと「暦」を「読む」という仕事があったと私は思います。「暦」という「物語」は、実は「人間の世界」と「植物の世界」を結びつける味わい深い物語のことだったと思います。~略~「魔法の力」とは、「人間」と「自然」を結びつける力のことであったとおもわないわけにはゆきません。
ヨーロッパ圏で「魔女」と呼ばれてきた人たちは、キリスト教以前の古い民間信仰を生きつつ、年中行事の物語(つまり暦のことですが)を取り仕切ってきた人々をさしてきました。だから昔は、「魔女」は「魔女」などではなく、「地域の賢者」として敬われてきた人々でした。
・魔女の暦と社会の時間
しかしキキは、見知らぬ町に住み込み、その社会の時間に合わせるようにがんばって生きていました。でもそういうふうに努力すればするほど、キキは「魔女の暦」を生きる時間を失っていったのではないかと思われます。
・性への淡い目覚め―キキが再び飛び上がる
おそらくここでキキの中に、ほんの少しかもしれませんが「性の奮起」があったと私は思います。キキは、ここで「デッキ・ブラシ」にまたがります。この「デッキ・ブラシ」というアイディアがすごいなと思います。「デッキ・ブラシ」というのは「“毛”が短い」です。以前のホウキは「母のホウキ」で、「“毛”がふさふさ」していたのですが、それは母の物でした。でも、この「短い“毛”」をおもいっきりふるい立たせてキキは、「トンボ」のところへ向かおうとします。ここに、少しだけキキが、少女から「性的な女性」への一歩を踏み出した気配が見られます。おそらく、この「性的なもの」への指向がないと、魔女は「ホウキで飛ぶ」ことはできなかったのではないかと思われます。そもそも「魔女」というのは、昔から「性的な存在」でした。植物の実りを求める豊穣の祭りを司る女神の末裔でもありましたから。つまり、実を実らせたり、子孫を残すことは、とても「性的なこと」で、魔女はそういう性的なものをしっかりと実現させる力を持った存在でもあったからです。
『紅の豚』論
・少し実験を
国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる作品、それが「紅の豚」である。少年少女たちや、おばさまたちにも楽しめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。
「紅の豚メモ―演出覚書」
・「空中戦」―このアニメの業界の戦い
ここでの「空賊」たちは、おそらくアニメを作るさま���まな作家たちのことを戯画的に描いているような感じがします。作家たちは「客」の稼いだ財布から「映画代」を「奪う」争いに明け暮れます。そんな「空賊」の奪った「金」を「取る」のが、一匹狼の賞金稼ぎ「豚」の仕事です。そんな時にぶつかる「子どもたち」は「空賊」にとっても、「豚」にとっても、もっとも大切なお得意様ですから、一番低調に扱わないといけません。絶対に不愉快な思いをさせてはいけません。事実、作品の中では、「空賊」にさらわれた子どもたちがいかに、満足気に描かれていることか。でも、「紅の豚」が登場した暁には、その「お客」はみんな「豚」(つまり「宮崎アニメ」)に持って行かれてしまいます。
そんなアニメ業界の戦いの中で、「お客」をいつもかっさらってゆく「豚」に対して、「空賊」たちも黙って見ているわけではありません。そこで「紅の豚」のライバルになる助っ人を雇います。「ドナルド・カーチス」です。彼はおそらく、当時のアニメを作る人の中で、宮崎駿さんともっともライバルになるようなアニメの作り手のことなんでしょう。彼はアメリカから来たといいますから、ひょっとしたら「ディズニーアニメ」のことなのかもしれません。彼は常に最先端の戦闘機を持っていますから。「あのアメリカ野郎いい腕してるぜ」と「豚」もいっていました。
でも「カーチス」は「空賊」に雇われたにしては、自分から執念を持って「豚」に一騎打ちをいどみ続けています。ですから、ひょっとしたら、彼は「高畑勲」さん以外にはありえないようにも思えるからです。最後二人はむちゃくちゃな殴り合いをするのですが、でも、それでお互いを本当に傷つけるわけではありません。「競い合い」そのものをショーとして見せているのですから。もちろんこの「カーチス」を、特定の誰かとして見なくてもいいと思います。「手塚治虫」でもよいのですが、そういうアニメの作り手同士の「空中戦」が描かれていると見てみると、そこには妙なリアリティがすかし見えるのではないかと私は感じてきているのです。
・愛機とピッコロ飛行機工場
でも多くの人が直感的に感じていたように、私もこの「ピッコロ社」は「スタジオジブリ」なんだという気がします。そう考えると、この「工場」の有力な戦力が女性スタッフになっていることは不思議ではないと思います。「女はいいぞ、よく働くし、粘り強いしな」とは「ピッコロ親父」の発言。
この女性たちの献身的な努力で、断片になった戦闘機に命が吹き込まれてゆきます。この「夢を乗せて飛ぶもの」は、こんなに多くのスタッフの力によってしか、実際には「飛ぶ物」にはならないのです。いくら宮崎駿さんが優秀なアニメ作家であっても、一人で「愛機」を飛ばせるように創り上げることはできないのです。
『もののけ姫』論
・「もののけ姫」の登場
ひょっとしたら、この物語は、サンの活躍ぶりを問題にしているのではなく、何かしら、「本来の容姿」とは違った姿を生きるものを問うような物語を意識してもらうために、こういう題をつけていたのかもしれません。そういう問題意識から見たら、物語の中では、サンだけがもっとも意図的に「本来の容姿」とは「別な容姿」を生きることを選んでいる登場人物になっているのがわかります。
・人間――この「火」を使う生き物になること
「火」、あるいは「火」を元に作った「鉄」「火薬」「武器」といった技術(テクノロジー)を使う生き物に人間はなってきたということです。今までの生き物からは想像もできない生き物に、人間がなってきたということです。「人間」となった生き物は、「火(武器)」を持ったがために、森を焼き払い、多くの生き物(人間同士も含め)を殺すような生き物に変貌してきたわけです。「人間」は、「人間」という「皮」を被った「殺戮者」になってきているのではないか・・・・・・。
・シシ神の造形について
私たちにわかるのは、この「シシ神」が「無形」から「有形」へ、「有形」から「無形」へと、日々「反転」しながら動いているものだということでした。その二つの姿は、私たちが、先に「生き物の模式図」で見た、まさに生き物の二つの領域が、「シシ神」「ディダラボッチ」として描き分けられているかのような印象を受けます。特に、最後の首をとられた「シシ神」の変身のシーンを見れば、それがわかると思います。あの最後のシーンで、強大な「ディダラボッチ」になった「シシ神」は、どろどろと溶け出して、周りの生き物もすべて飲み込んで溶かして腐らせてゆきます。まるで胃袋の粘液がばらまかれてゆくように。でも、溶かされ腐らされた物は、また時がたつと次の生き物の栄養分となって新しい命を育みます。
・無形の「腐」へ
「シシ神」の登場は、「火(火器)」で世界が創れると思っている人間に対して、世界は「無形の腐」と「有形の容姿」の循環で成立しているのだということを改めて突きつけています。特定の「容姿」を持った生き物だけがのさばれば、そういう「容姿」を陰で支えている「無形の腐」がきっと反乱を起こして、あらゆる「有形の容姿」を崩してゆくことになるのだぞと、作品はいっているかのようです。実際に「ウイルスの反乱」などと呼ばれる、「ペスト」や「インフルエンザ」や「エイズ」などの反乱は、目に見えない「無形のもの」の反乱が空想のものではないことを物語ってきているのですから。
・「エボシ御前」の言葉
「エボシ」御前は、こういっていました。
「古い神がいなくなれば、もののけたちもただのケモノになろう。さすれば、もののけ姫も人間にもどろう」
この言葉は、とても味わい深い言葉です。実際の、森の生き物は、人間にとっては「ただのケモノ」です。でも「古い神」がいるということは、そこに神々のような名前をつけられた生き物たちがいるということです。そこではケモノはただのケモノにはならないのです。
・「シシ神」の複合的なイメージについて
また犬と猪は、夏の反対側で、これまた竜と蛇に次ぐ強い神でした。ということは「シシ」と呼び替えられる十二支の神は、どういうふうに見ても、「暦の森」では強い神ばかりだということです。だから『もののけ姫』には、狸や狐や山猫ではなく、暦の中の犬と猪や鹿が、大事な登場人物として出てきていたということになります。
投稿元:
レビューを見る
この著者との出会いはもうずいぶん旧く、30年ほども以前のことだ。
処女評論「初期心的現象の世界」、続いての「理解のおくれの本質」(共に大和書房)を読んだが、乳児から幼児へかけての心的現象世界を読み解いて、些か観念的ではあろうが、その構造的な把握の仕方に思わず膝を叩いたものだ。どちらも私にとっては心に響いた書として鮮やかに記憶に残る。
当時、私が耽っていた吉本隆明の「共同幻想論」(角川文庫)や「心的現象論序説」(角川文庫)、或は三浦つとむの「認識と言語の理論-三部作」(勁草書房)などと、相呼応共鳴しあう世界だった。
さて、その著者が、ジブリ・アニメ「ハウルの動く城」の宮崎駿の世界を、どのような視点から読み解いてくれるのか。子どもの心の世界を読み解くに独自の地平を切り開いて見せてくれた著者だから、期待に違うはずもないだろう。
本書の発刊は’04年10月、したがって「ハウルの動く城」は未だ公開されていないから、宮崎駿の最新作そのものには触れ得ない訳だが、アニメの原作となった「魔法使いハウルと火の悪魔」に基づきつつ、本書の論理はその最新作の世界へも充分届き得ていると見られる。
本書の構成はまず
手塚治の「ジャングル大帝」と宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の世界を比較する。
そのうえで、
「風の谷のナウシカ」論
「天空の城ラピュタ」論
「となりのトトロ」論
「魔女の宅急便」論
「紅の豚」論
「もののけ姫」論
「千と千尋の神隠し」論
と各作品を論じてゆき、番外として
まだ見ぬ新作「ハウルの動く城」へと言及していく。
最後に、まとめとして、
宮崎駿の世界を、「有機体的世界の不思議さ」として概括する。
さしあたり、展開されている論のキーワードをいくつかを順に紹介しておこう。
<腐海>-「ジャングル」から「腐海」へ
腐海の主―<玉蟲>の造型性
-無数の黄色い触手の意味―千手観音への連想-癒し、治療としての触手
<火>と<風>を使う使者、としてのナウシカ
-火=技術を使う人 風=情報を伝える人
土、つまり腐葉土、<腐った世界>を抱え込むことなしに、
生命は生き延びられない、ということ。
<反転>の仕組み
容姿-有形の領域―皮・衣・外見 と 内臓―無形の領域―腐海・便・溶・菌
食べる-消化―排泄の過程
食べられ、溶かされ、無形となり、それは有形のものになるべく使われる、
すなわち有形へと反転する
<ゆ(湯)=喩>の世界へ
千と千尋の、ゆ(湯=喩)のあふれかえる-喩の森―の世界
二つの食 <物を食べる>ことと、<喩を食べる>こと
ハウルとは風の使者=その魔法は生物を育てる<総合>の力
ハウルと敵対する荒地の魔女は<分離>の力
生物は<総合>だが、それは分離され、分解され、腐敗することで、次の生物を育む。
<総合>と<分離>の、どちらが大事というわけにはいかないこと。
<食べる>こと、<腐る>こと、<産む>こと
最終章のまとめとして、
<有機体的世界観>としての宮崎駿の世界を、さらに要約的に抜粋すると
一昔前に「ジャングル」と呼ばれていたものには、「植民地主義」の視線で批判されるものがたくさん含まれていました。それでも私はそういう尺度だけで葬り去れないものがこの「ジャングル」というイメージにはあったことを指摘してきました。この「ジャングル」というイメージには、無数の生命がうごめく原野のイメージが同時に託されていたからです。
近代から現代へは、アフリカやインドの目に見える密林としてのジャングルから、目に見えない微生物のジャングルへの関心の移行が始まった時代でした。
そしてこのうごめく目に見えないジャングルが、宮崎駿さんの斬新な発想により、新たに「腐海」というイメージで再発見されることになった。
しかし宮崎さんが斬新だったのは、この新しいジャングルに「腐る」とか「菌」というイメージを付け加えたことでした。
このイメージが加わって、新しいジャングル=腐海は、ただの小さな生き物のジャングルというのではなく、「腐らせる」ことで新たな生き物を生み出す巨大な有機体の仕組みのようなものとして描かれてゆくことになりました。
おそらく、そこが宮崎さんの切り開いたもっとも独創的な地平だったと思われます。
「腐る」とか「菌」とかいうイメージで、宮崎さんが考えようとしていたことは、そうした多くの生き物が消えて目に見えなくなるところで、実は次の生き物が準備されてきたのだという、生命の持つ壮大な循環の仕組みなのかもしれません。
「腐海」は「表」には現れない不思議な生態系でした。それが「表」に現れる時は、大変なことが起こる時でした。この「裏の生態系」とも呼びうる「腐海」の特徴は、「菌」によって生き物を分解するものでした。
もし「表」を「文化」としたら、「裏」はその「廃墟」ということができるかもしれません。しかし、多くの文化は実はすでに「廃墟」つまり「過去」のものとなっているものなのです。私たちが「文化」に触れるというのは、実はこの「廃墟」になったものを通して、その少しのものを手がかりにして、さまざまな組み建て直しを始めることだったのです。
「文化」の創造が、そういう廃墟の組み立て直しとしてあるのだとしたら、それは「食べる」ということにも当てはまります。文化の吸収も文化を食べることなのですから。そういうふうに見られる「食べる」という出来事は、形あるものをかみ砕くことです。そうすることで食べたものは崩壊し、吸収されるものになり、栄養物に転化されてゆきます。形あるものは、砕かれ、溶かされ、はじめて「吸収されるもの」になるからです。
こうして著者は、有機体的世界観としての宮崎駿の「深み」を
子どもたちの、子どもとしての心性に、子どもらしさというものに、
「小さな創造主」として生きることを可能にする子どもの想像力の世界を、
通奏低音として見出だす。
「子ども」を生きるとは、じつはこういう独特の「深み」を生きることだったのだ、と。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
ナウシカや王虫は何を食べて生きているのか?
もののけ姫・サンが動物の皮を被っているのはなぜか?
“ものを食べ、腐敗させ、消化し、排出する”有機体的なサイクルに着目して、アニメ作品を丁寧に読み解き、宮崎駿の感性と思考の深部に迫る。
子どもにとって、また大人にとって、アニメを見る意味を明らかにした快著。
[ 目次 ]
第1章 「ジャングル」から「腐海」へ―『ジャングル大帝』から『風の谷のナウシカ』へ
第2章 『風の谷のナウシカ』論
第3章 『天空の城ラピュタ』論
第4章 『となりのトトロ』論
第5章 『魔女の宅急便』論
第6章 『紅の豚』論
第7章 『もののけ姫』論
第8章 『千と千尋の神隠し』論
番外 『ハウルの動く城』へ―原作『魔法使いハウルと火の悪魔』を読む
まとめ―有機体的な世界の不思議さへ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
ジブリ作品の分析。
新たな観点から映画を知ることが出来るので面白いです。
このような読解はなにも作者の意図を汲む必要はないはずですよね、独立した世界として何を考えられるかが重要なのでは
そんなことを考えたり
投稿元:
レビューを見る
≪目次≫
第1章 「ジャングル」から「腐海」へ—『ジャングル大帝』から『風の谷のナウシカ』へ
第2章 『風の谷のナウシカ』論
第3章 『天空の城ラピュタ』論
第4章 『となりのトトロ』論
第5章 『魔女の宅急便』論
第6章 『紅の豚』論
第7章 『もののけ姫』論
第8章 『千と千尋の神隠し』論
番外 『ハウルの動く城』へ—原作『魔法使いハウルと火の悪魔』を読む
まとめ—有機体的な世界の不思議さへ
投稿元:
レビューを見る
風の谷のナウシカ*食べるもの食べられるものの世界。見えないものを見えるように巨大化。それが王蟲。架け橋としてのナウシカ。技術者としてのナウシカ。
天空の城ラピュタ*上がり下がりの物語。追いつ追われつが加わり至極のエンターテインメントに。土から離れて生命は生きられない。
となりのトトロ*物語があって初めて見えるものがある。『トロルの森』からトトロを結びつけたことなどから。風景も同じ。土地の由来や物語が必要。
魔女の宅急便*魔女の歴史的な描き方。13歳で独り立ちするワケ。しきたりが現代にあわなくなっていること。血でなく伝承が魔女をつくる。
紅の豚*表の世界に裏の世界。飛行機を飛ばす一連の仕事とアニメをつくりだすスタジオジブリを重ねて。マルコのモデル。豚であるワケ。
もののけ姫*毛皮を被るということ。犬と猪であるのにはわけがある。シシ神とデイダラボッチ。昼と夜。夏と冬。
千と千尋の神隠し*廃墟と過去と由来。カオナシの造形のモデルとは。
投稿元:
レビューを見る
2011/3/30読みたい→2012/1/20先生からいただく→2013/4/15一通りは読み終わる
投稿元:
レビューを見る
「風の谷のナウシカ」から「千と千尋の神隠し」までの宮崎アニメを分析したもの。著者は、他の批評は、文明論や歴史学的な視点からちぐはぐな批評をしている「風の谷のナウシカ」から「千と千尋の神隠し」までの宮崎アニメを分析したもの。著者は、他の批評は、文明論や歴史学的な視点からちぐはぐな批評をしているけれど、自分は違うぞ、という主張をしていたが、批評のレベルとしては似たり寄ったりな感じをうけました。
宮崎アニメ全体を通じて、「火」「食」「再生」あたりをキー・モティーフに分析がされていて、面白く読めました。
(つちなが)
投稿元:
レビューを見る
「腐」「食」「衣」という視点からジブリ映画を観ると、どんな世界が見えるかを描写した一冊。初回作品「ナウシカ」から、ハウルの動く城まで、上下移動や場面転換の早さをを鍵にトップにのぼりさつめている。史実や著名な読本との比較を交え、新しい視点を提起する。
投稿元:
レビューを見る
有機体的世界観からジブリ作品の分析を試みた本。
「こういう捉え方があるのか」と面白い半面、ちょっと無理ないかな?と首を傾げる話もあったような。
アオリでてっきりジブリのごはんに着目したと勘違いした自分は苦しめられました。
もっと根源的かつ概念的(時に比喩的)な『食うこと』がテーマだったとは。
日本語が変だったり誤字脱字が目立ったのは残念です。
著者の熱意は伝わるけれど、言いたいことがよく分かり辛い原因の1つかも。