紙の本
被虐意識の輪廻に決別を
2010/04/01 23:53
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野あざみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
記者会見で公然と語られる「相手憎し」に身を乗り出した。北朝鮮拉致被害者家族会の蓮池透さんの強制退会、時効を迎えた警察庁長官銃撃事件についての警視庁公安部長による「オウムの組織的テロ」断定発言だ。
一見、関連の薄そうな2つのニュース。しかし、本書は、「北朝鮮」「オウム」に共通項を提示していた。日本人が両者に抱く被虐意識の根深さだ。森達也と姜尚中の正鵠を得た指摘に目が覚める。
家族会が主張する「北朝鮮への圧力」、日本人に共有される「オウム憎し」。虐げられた者の痛みは、広く共感を呼ぶ。
だが、報復感情は煽られる一方だ。相手を悪魔や邪悪に収れんする善悪二元論に陥る危険性を挙げ、「被虐の輪廻」では解決に近づけないと訴える。むしろ、加虐の視点を提案する。
蓮池さんは最近になって、「圧力でなく対話」を標榜、まさに加虐の視点に立とうとした。そのために、家族会から弾き出された。「被虐の輪廻」が、対話という解決手段を追い落とした瞬間だ。同時に、多くの家族会会員がそうであるように、救われず虐げられている者が発想の転換に至る難しさも、あらためて露見した。
公安部長の発言は、自らの過ちを棚上げし、「オウム憎し」の風潮にへつらう意図が透けて見えてしまう。
本書は、森、姜がアウシュビッツや韓国など、戦争の傷跡をたどる。対話形式で記憶に身を寄せ、被虐意識を浮き彫りにし、その意識が新たな対立を生む構図を描く。
「北朝鮮は外なるオウム。オウムは内なる北朝鮮」。姜は、日本人が両者を理解不能で、入れ替え自由な存在ととらえていると指摘した。
一方、森は「社会が共有しているのは(中略)加害者への表層的な憎悪」で「第三者がどれだけ冷静に考えるかが重要」と訴える。
被虐から加虐への転換は容易ではないだろうが、そこに人類の英知を見ることができるような気がするのは言い過ぎだろうか。
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森達也、といえば、読まなければなりません。 それに加えて姜 尚中。 え?読まずにいられるかって話。自分の教養のために。
相変わらず森達也氏のいいたいことの論点はといえば、
主語の喪失 と 想像性の欠如。
つまりは、主語が失われていくことへの喚起が行われているわけです。
自分を主語に何事も考えていかないと。しかし、そうしないことは、とても楽なので、そうしてしまう。 自分に置き換えることや、もしくは実に自分を主語としていることでさえ、主語を失わせる。それってとっても生きるうえで楽なわけで、でもその、思考のなさが、すべてを悪い方向に持っていくのです。
自分たちの中にも過去の歴史の暗い部分を担うものがあり、かれらが日常の中で異常な行動をとったことを忘れてはならない。自分を主語にして。
一番感動したのは、アウシュビッツについて、二人が違和感を感じていたこと。私もこの間アウシュビッツに行って、なんだか違和感を感じた。
その違和感の理由を森達也氏は教えてくれた。
被虐についてのみ考えるのではなく、加虐について考えるべきなんだ!
あまりにも被害者意識と、かわいそう、あんまりだ!って思いばかりがあらわされていて、思想の少なさ、というか、思考の少なさ、もしくは欠如があまりにも如実。
あぁ、被害者について考えることは、意外と簡単なんだから。私たちは、主語を自分にして、自分の心に聞いてみなければならない。そして、その残虐性や異常性が、日常の中に現れうるのだということを、認識しなければ。
とってもとってもいい本。なのですが、ちょっと無知な私には難しいところもあり、眠りに誘われることも多々・・・。
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イエドヴァブネというところから始まった姜尚中と森達也の対談。普通の、あるいは善良の市民が大量虐殺に加担した理由は何だったのか、という疑問から戦争について考えていく。恐怖と、そこから生まれる被虐的な観念。この辺がキーワードとして語られていたけど、なかなか深い洞察に満ちていたと思う。自虐が憎しみの連鎖を断ち切るという指摘がおもしろいと思った。21世紀は地球から戦争を失くすことができるのだろうか?
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68/100 41頁:(イエドヴァブネユダヤ人虐殺事件について姜さんが)虐殺に加担した父親が、帰宅したときには普通のお父さんになりうるということ。そこに戦争というか、殺戮の本質が非常によく表れていると思いますね。
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日本、韓国、ポーランド、ドイツという、戦争の記憶の場所を森さんと姜尚中の二人で訪ねて対談するという本。戦争って、何で起こるんだろうか。とたまに漠然と考えることがある。わからない。じゃあ、戦争はどうやったらなくなるんだろうか。それはお互いを知ることなんじゃないか、お互いがお互いを抱きしめ合えることから平和は始まるんじゃないか、という森さんの考えは青いけれど、それゆえに正しいのかもしれない、と思った。やはり森さんのこの情緒的なところが好きだなぁ、と思う。(08/3/15)
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未来への希望を探るために、過去について考える。戦争はすぐそこに、いつでも起こりうるもののようにも思う。「正義」って、危ないな、とも思う。
大学のときに行った、サラエボのことを思い出しながら読み進めた。そして舞台が市ヶ谷に戻ってきた時、僕の中で視点が微妙に、変わった。その自分の無意識な変化に、はっとした。
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二年ほど前に吉祥寺の古本屋さん「百年」で出会った本。
読書中はなんども中空をにらんで自分だったらどうしただろうと想像しました。
戦争とは人間がやりはじめたこと。
自然にそこに「ある」「あった」ものではなく
わたしたち人間がはじめたことなのです。
だから考える必要があると思う。
どうしたらやめることができるのか、って。
それには、どうして戦争をやってしまうのかを考える事が大切なんだ。
いつか必ずやめられる、と人間を信じたい。
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091216-100316 by著者s
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『人間の条件』 五味川純平 1300万部 満州での日本人を小説家し戦争の深層に迫る 153
高見順 プロレタリア作家から転向 敗戦後早々の日本の価値観の変わり様を記した敗戦日記はよい。 『如何なる星の下に』 155
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172,187,197
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イムジン河の川幅が一番狭いところで100メートルだと初めて知った。思わず考える。加古川の幅はいくつだ、淀川は一体どれくらいだろう。涙が止まらなくなった。そういう趣旨の本じゃないんだけど。
考えることをやめちゃいけない。自分の目で見て自分の頭を使う。当たり前のことなのに、何でこんなに難しいんだろう。
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色々と勉強になり、参考になり、知識になった本。
でも、彼らとは微妙に意見が食い違う自分がいる。
意見の何が違うのかは、もう一つはっきりしない。
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父からもらった本
20世紀からの繰り返される戦争の歴史について
ポーランド、ドイツ、韓国、日本と実際に戦争の起きた場所へ行き、語っていく
重たい内容に2年くらい本棚にしまったまま手に取れなかったが、読んでみたら読みいってしまった
実際、わたしには難しい点もいくつかあったが、最後まで興味深く読めたのは性格や雰囲気など違いそうな姜 尚中と森 達也の二人が語り合いながら、底辺でつながっていくような二人の関係性の変化が垣間見えておもしろかった。更に戦争の加害者、被害者の表裏一体性、マスコミに乗せられた一方的な自分の考えや知識、見方について考えさせられることが多々だった
森達也の過去を抱きしめるという言葉が印象的
姜 尚中というと頭固そうなイメージだったのだがこの本で少し印象が変わった 何より森達也 おもしろくてなかなかすごい人だ
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▼ピュアの罪
『よく目を凝らすと、大人の営みであるはずの戦争や虐殺に、子どもが重要な役割を占めているケースは不思議なくらい多い。』『子どもは弱くて、まだ無垢で、未知な可能性を持つというのは非常に新しい考えであって、子どもを別の存在とする見方に、逆に言えば我々はかなり汚染されているんじゃないかと思います。』『子どもが持つ文字通りチャイルディッシュな属性、つまりは純真無垢な部分は、人を殺すという行為に馴染みやすいと考えることはできませんか。』『人間が根源的に持っている他者に対しての暴力性を、子どもは剥き出しに抱えている。例えば子ども時代、虫やカエルをよく殺しました。罪の意識や葛藤などほとんど感じません。』『ならば子どもは邪悪な存在なのか?そうじゃない。純粋なんです。天使のように。だから残虐なんです。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて /P251)
『(若いスタッフで入ってくる子たちは)本人はみんな真面目が気がよくて、実に優しいいい子たちなんだけれど、一方で信じられないくらいに、生きてくための武装に欠けている。武装というと大袈裟だけど、世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法といったことを備えずに、なにも持たずに出てくる。』(養老孟司×宮崎駿:著 / 虫眼とアニ眼 /P64)
『今の憲法第9条を守る側が、日本の国民は戦後イノセントで、この平和憲法があるから日本は特別なんだ、これを世界に広げようということを聞くときに、何か釈然としないものを感じるわけでです。』『それは、たとえば広島とか長崎であればまだしもね。それでも、日本は平和国家であり、憲法第9条を世界に広めることが日本の使命であり、そして日本は特別な存在なんだということを合意しているような平和主義者に対して、やっぱりどこかで違和感みたいなものが残っています。じゃ、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、実際の日本は戦争まみれでやってきたわけですよね。戦争の当事者じゃなかったにしても。それと、平和憲法を守るということはどういう関係にあったかということを突き詰めないと…』(姜尚中×田原総一郎×西部邁:著 / 愛国心 / P145)
『戦争の責任者を追求するだけでは、普通の下々の人間がなぜ戦争に加わっていったのかのかが見えてきませんよね。騙されて戦争に突入したなんていうのは、後知恵も甚だしいと思うんです。実際は非常に積極的だった。そこにどういうモーティベーションの力学が働いたのか。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P152)
『軍の一部や政治家が加害者で、天皇の自分は被害者なんだと。その幻想があった。国民も最大の被害者であり、その象徴が昭和天皇だというかたちになっている。なせ、そういう転換が可能だったかは、あの戦争の本質を考えたときに非常に重要なポイントだと思う。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P151、163)
『これは多くの人たちが取り憑かれている病だと思うのですが、僕が気になっているのは、無関心な第三者意識の蔓延です。今の日本の人たちは、自分たちのことをイノセントな存在だと、心の底から思い込んでいるというんです。』『“罪のない一般市民”という言���をよく聞きます。』『“罪のない”という枕詞がテレビや新聞に溢れかえっていますし、その極端までの加害者意識の喪失が、オウム叩きや拉致問題に関するヒステリックな反応に直結しているように感じられるんですね。』(姜尚中×テッサ・モーリス-スズキ;著 / デモクラシーの冒険 / P199)
『映画監督の伊丹万作が敗戦の翌年に、国民は軍に騙されていたとの風潮が高まることに対して“騙されること事自体がすでに一つの悪である”と発言しています。確かに日本って昔から、責任の所在が希薄な構造なのに、いったん事が起きれば、血相を変えて責任者捜しがはじまる傾向がありますね。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P152)
『結局、世の中に平和をとか、人道のために戦争してはならないとか、そういう普遍的な抽象原理を立てれば立てるほど、必ずそれにそぐわないものが出てくる。人道とか平和とか、ある抽象的かつ普遍的な原理に対する集団や個人が出てきたとき、それについて戦争を認めないわけにはいかなくなった。それは正戦なんだと。しかし、その事態をもう一回考え直さないといけないと思っているんです。だから、抽象的な平和とか普遍的な人権とかを理想に立てると必ず絶対的に否定されるべき敵が作られてくる。それ正戦の対象になると思うんだよね。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P228)
『ヒトラー自身、異常に禁欲的であったし、実はヒトラー・ユーゲントの一つの原型だった親衛隊も、非常に規律正しくて、忠誠、正義、誠実さ、イノセントさ、そしてヒトラーに対する絶対的な服従心を持っていた。単純化され一点の曇りもないピュアな人間、そういう兵士に訓練していったんですね。だから、堕落してひどい虐殺が起きたのではなくて、逆に非常に清潔な、潔癖な、そういう集団だったからこそ残虐さの極地を実現してみせたのかもしれない。僕はこういうことは特殊な人間だけがやれることことじゃなくて、我々も場合によってヒトラー・ユーゲンとになりうるものを持っているし、虐殺とか人殺しとかを、特殊な時代の特殊な出来事のように思うこと自体が、依然としてまだ戦争ということをちゃんと受け止めていない兆候だと思うんです。』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P254)
『オウムの際も同様でした。残された信者のほとんどが、とにかく不器用なほど善良で純粋な人ばかりであることを、現場にいるメディアは皆知っています。』『オウムの信者全般に、チャイルディッシュな傾向は間違いなくあります。ここから偽装とか洗脳とか、そんなレベルでしか発想できない人はとりあえず除外して、そういったチャイルディッシュやイノセンスが、成長過程で獲得したはずの回路が何かの拍子に止まるとき、すとんと簡単に、虐殺や戦争行為に直結するのだと思います』(姜尚中×森達也:著 / 戦争の世紀を超えて / P254)
うわー。長くなったけど、私自身が『ピュアの美しさ、正しさ』の呪いに非常にとらわれていた人間だったので、『ピュアの罪、そこから発生することもありえる残虐さ、麻痺感』について知ったときは、もううわーうわーって感じで頭のなかのいろんなものが、ガツガツ壊されてすごく大きな変化でした。(それでもまだ、カラはいっぱいく���ついてるけど)さて、ピュアだと思い込んでる、ピュアにしがみつきたいと思っている(らしい)日本はこれからどうなる?
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内容が薄く、言葉遊びをしているに過ぎない印象である。彼らは虐殺を起こした本質について、突き詰めて考えようとしているのではなく、ただそういうものを話題のネタにして、自らを価値高い人間だと、周囲に喧伝したいだけであるように私には思われる。
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アウシュビッツでは殺戮が業務になり、システム化され、その中で非情に歪んだ知性が働く。合理的にガス室を設計して殺すなんてのはその最たるもの。
欧州には歴史的に反ユダヤ主義があった。根深かった。知的コンプレックスがあった。
ナチスが終わっても、結局ユダヤ人はヨーロッパの外側に追いだれただけ、結局もあ問題の混血は解決していない。
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決して極悪非道な化け物が戦争を起こすのではなく、普通の、気のいい人たちがある日とんでもない殺戮を始める。
どうしてそんなことが起きるのか。どうすればそれをやめられるのか。
に、ついてお二方が戦争の記憶の場所を巡りながら対談した本です。タイトルは『戦争の世紀を超えて』ですが、『超えて』の部分はほとんどありません。いかにそれが困難か、という点が大部分です。
もちろん、これはお二方がより誠実に問題に向き合っているからこそ、でしょう。
セキュリティ幻想が思考を停止させ、相手を人ならぬ物として排除してしまう、というのが戦争が止まらない要因の最たるものとして挙げられています。
つまるところ、「自分の大切な人を守るために戦う」という一見美しい考えが、ほぼ確実に「自分にとって大切さの度合いが少ない人間を殺戮する」考えを含んでいることを認識できるかどうかにかかっているのかな、と思います。